第15話 ビットシフト-A

 南極には女王がいる。

 最初、通信パケットの川の向こうに見えた壁の正体――QUEENシステムと呼ばれる、中央認証システムだ。

 膨大な流れが皆あの壁を通って行ったように、Ω‐NETで行われる全ての通信は、例外なくこのシステムによる認証下で行われているのだ。

「QUEEN? 会うって、何を……」

「あ、ちょっと黙ってろ。……着く」

 まばゆい光に包まれて、ハロルドの体が消えていく。僕のもだ。

 感覚が溶ける、頭が燃えるような感じが一瞬したと思ったら、次の瞬間には全てが元に戻って、別の場所に居た。

「う、わ……」

 広さの感覚がおかしくなってしまいそうなくらい巨大な、円形の空間の中心に、太陽のような、白く光る塊がある。

 壁には細かい穴が無数に空いていて、見ていると次から次から新しい光が現れて、まっすぐ中心へ向かって飛んでいった。

 ひとつひとつは小さな光の粒なのに、見渡すと幾十もの太いヘビが、中心へ喰らいついているように見える。あれはおそらく、全世界から集まってくる通信信号の集合体だ。ここはΩ‐NETのトラフィックの中心地なのだから。

 最初に見せられた光の川は、ここに集まる蛇たちの一匹に過ぎなかったのだ。

「あれが……QUEEN……」

「そうだ」

 呆然と呟くと、ハロルドは頷く。これまで1ビットダイビング中に見てきた景色は全て現実離れしたものだったけれど、ここでは、見えているものが、まるで現実に思えない。とにかく巨大すぎる。

「何……する、つもりなんですか、ここで」

 ハロルドがここで何をするにしても、それは、大それた、恐ろしいことのような気がする。

「口説きにきたんだよ。麗しの女王とひとつ、イイ仲になろうと思ってな」

「はあ?」

 この期に及んで悠長に冗談を言う。この男のこういうテンポには慣れたつもりだったけれど、いくらなんでも無茶じゃないか?

「言っただろ、1ビットダイビングは未完成だ。もうちょっと使いやすくしねぇと俺以外使えねぇもんになるし、そもそも、俺は世界中全てのホストに潜れるものにしたいからな。で、ゴーグルに乗せるシステムソフトの改良のために、欲しいものがある」

「欲しいもの?」

 見上げると、ハロルドはフッと笑う。

 そして、

「Ω‐NETの、管理者権限」

 世にも不遜な計画を僕に告げた。

「え?」

 僕は何気なく聞いて、

「えええええっ!!」

 腰を抜かしそうなほど驚いた。


「管理者権限、って、Ω‐NETって、ええええ……それ……だって、管理者権限といえば、QUEENと……」

「ウィル、驚くのは構わねぇが、俺の邪魔すんなよ」

 ハロルドはいかにも心配そうだ。

「俺だって今回のはさすがに大仕事なんだから……だいたい、今侵入に使ったポートとパスを手に入れるだけでどれだけ苦労を……って、おい!」

 ショックが大きかったのか、ハロルドの言葉が全然頭に入ってこない。

 フラフラと彼から離れかける僕を、ハロルドは慌てて止めた。

 そして、似合わない焦った様子で言った。

「い、いいか、よく聞け。余計なものに触るな。頼む」

「あの……僕、何が何だか」

 Ω‐NETの管理者権限だなんて、突然途方もない話題を出されたことだけが原因じゃない。たぶん、僕は本当に目が回り始めていた。

「とにかく、また後でゆっくり説明してやるから、今はジッとしてろ。何も触るな、どこもいじるな。絶対、絶対駄目だぞ」

「ハル……?」

 ハロルドはますます不安そうに、僕の両の肩をしっかりと掴む。

「いいか、よーく聞け、ウィル。ここはSPICの中でも、政府系のポートが集まってるエリアだ」

 ――あれ? 必死の形相だ。

「今は表では稼働してないような、大昔の、高度に自動化された連邦国家運営の仕組みなんかも山ほど残っていて、そのほとんどは

 俺達は今、総務省ドメインでここに潜ってるから、ちょっと触るだけで命令が直接実行されちまうようなこともあり得るんだ。そうなると何が起こるか分からん。わかるか? わかるな。頼むから分かってくれよ……?」

 よっぽど重要なことらしく、ハロルドは殆ど懇願するような調子だ。

 圧倒されたまま、コクコクと頷く。

「大丈夫。大丈夫ですよ……」

 言いながら、僕の感覚は分厚い膜に覆われたみたいに、あやふやなものになっていった。

「ほんとか……?」

「はい。行ってきてください。僕、待ってますから。ここで」

 僕はまともに潜るのは今日で二度めの、完全なる初心者だ。ハロルド達がよく言う、タイムリミットが近いんじゃ無いだろうか。

 長く潜るとこんな風になるんだ、って、こんなシリアスな場面で思い知ることになるなんて。

「話は……わかりましたよ。僕だって……邪魔をするつもりは……ありません、から……心配は、いりません……」

「お前……」

 彼も当然、気付いているようだった。明らかに心配顔だ。

「わ、わかった。ちょっと待ってろ。そんなに時間のかかることじゃねぇから」

 ハロルドは早口に言って僕の元を離れ、中央のQUEENへと向かっていく。光に溶けていく後ろ姿を見送って、ほうと息をついた。

 ちょっと気を抜くと頭がぼんやりして、倒れ込んでしまいそうになる。気分も良くない。光を見過ぎたせいだろうか、何だか乗り物酔いのような感じがして、頭がガンガンしていた。

(どうしよう……)

 けど、弱音を吐くわけにはいかない。勝手についてきてしまったのだ。これ以上迷惑をかけないためにも、言われた通り、ここで待っていなければ。

(あー……でも、困ったな、なんか、意識が飛びそう……)

 1ビットダイビングを始めてから倒れてばかりのような気がする。

 けれど、今だけは、ここで意識を手放すわけにはいかない。

(何か……)

 気分転換になるようなものを探したい。とりあえず、せわしなく動く光を見ないようにしようと周囲を見回すと、少し離れたところに信号の通っていない区画があった。ハロルドの言った、今は使われていない仕組みだろうか。そこだけ沈んだように薄暗く見えて、居心地が良さそうだ。

(あそこならいいかも……)

 稼働している個所に下手に触って止めてしまったら大事だ。フラフラしつつ移動する。何も触るなといわれたけれど、ここは普通の空間と違うので、ハロルドの言う「何も」が一体どこからどこまでを差すのかがよく分からなかった。

 かといってジッとして何も考えないようにしようとすれば途端に意識が薄れかけるし、困ったものだ。

(ハル……どこだろ……)

 集中が途切れかけているせいで、体は静止を保てず、無重力空間にいるようにフワフワ浮いて頼りない。慎重に、ゆっくりと身体を反転させて、ハロルドの姿を探した。遠く、随分と小さく見える彼は、中央の光球と向き合って、何やら話をしているように見えた。

 もちろん、そんなことはないんだろうけど。

(QUEENか……すごいなあ……)

 この認証ゲートウェイは、もう何百年もΩ‐NETを守り続けているものだ。フル稼働時の半分の機能しか《起きて》いないといわれるけれど、いかなるハッキングも受け付けない鉄壁の認証機構だといわれる。

 ハロルドはそんなものから、本当に管理者権限なんて貰うことができるんだろうか。

 しばらく見ていると、光球が何度か瞬いたように感じられた。何だろうかと思った刹那、幕が下りるように世界が暗くなる。

「!?」

 まずい。意識が本格的に落ちかけてる。

 もう少し、ハロルドの仕事が終わるまで。

 もたせなくては。

 何か……何か、ハロルドが腕を掴んでくれた時のように、自分の輪郭をイメージ出来る刺激があれば。

 せめてどこかに、ここの通信を妨げずに手を触れられる場所は無いだろうか。

『廃人になりたいか?』

 ハロルドの言葉がよみがえる。

 こんなところで廃人になるなんて絶対嫌だ。

 何か――

 彷徨う手のひらが、ひやりとした突起に触れた。何かある。

(あ……)

 すがるようにそれをギュッと掴んでみると、パチパチ、と世界が瞬いて視界が戻る。やっぱり、何かに触れていると良いみたいだ。

 良かった……と、ホッと胸をなで下ろした次の瞬間のことだった。

《連邦軍務省首都防衛軍本部ネットワーク監視局との通信を確立できませんでした》

「えっ?」

 突然流れるアナウンス。

 同時に、周囲が急に明るくなり――異常事態を伝えるように激しく点滅する。

 僕が居た暗い区画が、一気に目を覚ましていた。

「な!!」

《連邦法第一〇八〇号を適用。首都防衛システムを起動します》

 意味が分からない。けれど、何かものすごくヤバイことが起きてしまったような気がする。

「おいっ! ウィル! どうした!!」

「ハル……すみません……これ……何ですか……」

 僕の問いに答えず、ハロルドは激しく明滅する区画に張り付いて、猛烈な勢いで状況を調べはじめる。

《首都防衛システムを起動中……攻撃元を特定できません》

「くそ! 何で……こんなものがまだ生きてんだよっ!」

 鈍い銀色に光る壁を、ハロルドが叩いた。

「どうなってるんですか!?」

「古いミサイル防衛システムだ。こんなの……百年前に停止してるはずだろ……!!」

「ミサイル……!?」

 何だ、それは?

「ジュピターシステムって聞いたことあるか」

 ハロルドは手を止めずに言う。

「ジュピター……?」

「そうだ」

「百年前に緊急停止されたままになっている、連邦の政策判断コンピュータだ」


 それは有名な話なので、僕だって知っている。

 神の名を持つそれは、かつて、連邦政府の頭脳として作られたもので、行政だとか、司法だとか、政府機能の大部分を一手に担っていた、とてつもない規模のシステムだ。

「ここは、ソレが使っていた首都防衛の機能だ。と一緒に眠ってるもんだと思ってたが……政府の連中、ここだけ独立稼働させてやがった……」

 言葉の意味は分かるけれど、状況がのみこめない。

「僕……何を……」

「たぶん、お前が今、このシステムが使っているポートを、どれか閉じたんだろうな」

「え……」

 息が止まった。

「閉じた……それって……」

「システムが、首都との連絡が断絶したと勘違いしてる」

「ど、どうなるんですか……」

 声が震える。最悪の展開が頭をよぎった。

《攻撃元を特定できませんでした。全自治区による連邦政府への反逆行為と断定。攻撃目標を全自治区首都に設定します。連邦法一〇八〇号三十八条に基づき、各自治区政府へ緊急通達。異議の無い場合、ミサイル攻撃は九百秒以内に実行されます。緊急通達の送信に失敗しました。送信先を特定できません。緊急通達の送信を再試行中……》

 そして、その、更に上を行く悪夢のアナウンスが響く。

「くそっ!!」


《ミサイル発射準備に入ります。目標、全自治区首都》

 恐ろしい進行状況を淡々と伝え続けるアナウンスに、気が変になりそうだった。ハロルドは必死で止めようとしているけれど、僕には何も出来ない。自分がとてつもない失敗をおかしてしまったのだという事実は、猛毒のように体中を荒れ狂い、正常な判断力を奪っていく。

《ミサイル発射まで、残り六百秒》

 ミサイルだなんて、そんなこと。

 いわれても、僕は――――

「……おいウィル、しっかりしろ!」

「え……」

 ハロルドの怒鳴り声に、ハッと我に返る。

「今、防衛機構の命令伝達の経路が特定できた。ここから軍務省に潜ればたぶん止められる。俺が行くから……」

「いいえ、ハロルドでは間に合いません」

「え?」

「は?」

 ハロルドの言葉を、柔らかい鈴のような声が遮った。

 と同時に僕の手のひらを暖かいものが包み込む。ひらりと制服をなびかせた、華奢な背中が目に入る。くるりと振り返って、彼女は微笑んだ。

「ウィル、大丈夫です。サーチです」

 サーチが立っていた。緊迫した状況に全く不似合いな、花のような笑顔で。

「君……どうして」

「サーチはウィルとずっと一緒です。サーチはウィルのものです。つまり、サーチは、あなたの願いを叶えます」

 白い腕がスイッと伸びて、僕の頬を撫でる。

「サーチライト、お前……こいつのブレインポケットに寄生したのか……?」

 振り向いた形で固まっていたハロルドが呆然と呟いた。寄生? どういうこと?

 そして、数秒考え込んでからサーチを見て言う。

「潜り先は軍務省だぞ。止めるのか?」

 妙に引っ掛かる言い方だったが、サーチは深く頷く。

「イエス」

「かかる時間は?」

「全てのリソースを速度優先で、およそ五八二秒です」

「分かった。頼む」

 ハロルドが言うと、サーチは僕から手を離し、銀色の壁に向かって手をかざした。

「アクセス制限を解除、防壁トラップへの攻撃コマンド使用制限解除、データ自動修復プログラムを破棄、自動バックアッププログラムを破棄……」

 言葉に合わせて、彼女の体は青白い炎のようなもので覆われはじめる。

「全ての防御機構を破棄。これより軍務省陸軍ミサイル管制室へハッキングを行います」

 防衛機構を破棄って、君――

「サーチ!」

「行ってきます。ウィル」

 そう言って、彫像のように動かなくなった。


 その後の一秒一秒は、やたらと長く感じられた。

 止まらないカウントダウンを、息を詰めるようにして睨む。

 残り、あと四八〇秒。

「……ハル、サーチは、こんなことまで出来るんですか?」

 唇を噛みしめて、震える声で尋ねる。

「俺の遠隔端末として設計してるから、ハッキングに関しては、俺の出来るようなことは大抵こなせる。ただ、ここで呼び出せるとは思ってなかった。お前、あいつを脳に受け入れるようなことを、何かしたか?」

 言いながらもハロルドは手を止めない。サーチの隣に座り込んで何かのプログラムを書いているようだった。

「脳に?」

「そうだ。この場所は特別なんだ。ここにあいつが現れたってことは、俺かお前の脳内にプログラムの一部でも埋め込まれていないと説明がつかねぇ」

「そんなこと、僕は……」

 そんな操作を行った記憶は思い当たらない。

「どうせお前、妙なこと口走ったりしたんだろ。マーキュリーAIは自己学習の上に、自己判断もするからな」

「えっ……!?」

「……まあいい。とにかく、今はそれに救われたからな」

「は、はい……」

 見守ることしかできない僕の前で、サーチの細い腕がポロリと欠け落ちた。

「あ……っ!」

 見ると、腕だけでなく身体や、髪や、顔にまで細かな亀裂が走り、そこからポロポロと体が崩れていく。これは――

「サーチ!」

「騒ぐな。こいつが働いてる証拠だ」

 慌てる僕に、ハロルドは押し殺したように言った。

「もともと、総務省関連以外に潜るようにはできてねえんだ。軍務省なんかに入れば、異物としてホストの侵入者除けトラップに攻撃される。そして、こいつは今、全ての防御機構を捨てて潜ってる」

「そんな……」

 ハロルドが話す間も、サーチライトの体はなす術も無く崩れていく。

 僕はうろたえた。サーチが壊れてしまう。

 救う手だてはないのか?

「――よし、できた」

 ハロルドが顔を上げた。

「こっちはこっちで、まだやることがあるぞ。手伝えウィル」

 強い調子で言う。

「手伝う……って、何をすれば」

「これだ」

 ハロルドは何やら、カプセル型のファイルをいくつか投げてよこす。

「攻撃目標にされてる各自治区からの異議申請……に偽装したパケットだ。ファイルに送るべきポートは書いてあるから、間違えないように押し込んで回れ」

「え……」

「俺は今から閉じたポートを復旧する。いいか、絶対間違うなよ。落ち着いてやれば馬鹿でもできる」

 念を押され、慌ててカプセルを確認する。確かに、送り出すべきポートの番号と共に、自治区の名前が記されてある。ベリス、シノニア、エウロ、トッカル……

 急げ、と、ハロルドは言った。ちらりとサーチの方を見る。彼女はやはり微かにも動かず、身体を削られながらダイブを続けている。残り時間は四〇〇秒を切っていた。

 意を決して、僕は頷いた。

「ポート番号は、触れば確認できる。お前のちょうど左後方あたり、調べてみろ」

「は、はい!」

 言われた通り、傍にあったポートの周囲にそっと手を添えてみる。フッと小さなステータスウインドウが浮かんだ。周囲のものも幾つか開いて、手元のファイルにある番号と見比べる。

「えと……あ……ありましたっ!」

「よし、じゃあそのポートにパケットを押し込め」

 確かに難しい作業ではなかったが、無数にあるポートから、たった数個を見つけ出すのは骨の折れる仕事だった。ハロルドからだいたいの位置を指示されて、必死に探す。

「そこ、終わったら右手に二ブロック移動したあたり。トッカルのポートがある」

 自分の手を止めずハロルドはどんどん次を指示する。

「ええと……トッカル……」

「間違うなよっ!」

「わ、わかってますって!」

 僕がふらつきながら全てのパケットを送信し終えた頃には、残り時間は一〇〇秒を切っていた。

「は……はぁ……終わりました……」

 ハロルドの元に戻ると。彼はまだ作業を終えていないらしかった。

「ほ、他に、何か……することは?」

 僕が言うと、ハロルドはキッパリと言った。

「何もするな。今度こそ」




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