第12話 ダイバーの素養-B
「…………っ!」
目が覚めた。周囲は暗く、もう夜が来ているようだった。
「あ……と……」
慌てて身を起こす。今度はすんなり身体が動いた。
「おぉ、起きたか」
寝過ぎだぞと言った声が聞こえる方を見ると、ハロルドのまわりにはホログラフィ・ウインドウが散乱していた。
「随分散らかすんですね」
改めて部屋を見回す。もう帰ってしまったのか、ゴドウィンさん達の姿は無い。
「見たいもん全部開いてる方が手っ取り早いだろ」
「そういうものですか……」
この男が自分とは桁違いの技術を持っていることはもう充分理解している。何をしているのだろうと微かに興味をひかれるが、ハロルドはまもなく、開いていたウインドウをばっと全部閉じてしまった。
「おし」
何やら満足げに言って立ち上がる。
「行くか」
明らかに自分に向けられた言葉に、ウィリアムは目を丸くして、さっさと上着を着始めている男を見上げる。
「行くって?」
「飯だよ飯。まだそのくらい時間あんだろ」
奢ってやるから安心しろと言って、ハロルドはまるで、僕が付いて来ない訳がないと知っているように、一人でさっさと部屋を出ていってしまった。
連れて行かれたのは、同じ通りにある小さなバーだった。
夜といってもまだ早い時間であるからか、薄暗い店内に客はまばらだ。適当に座れと言われ、細長いカウンターの奥におずおず座る。こういう店に来たのは初めてだった。
「お前、嫌いなもの無いな」
あるなんて言えない訊ね方だ。奢ってやると言われている手前もあり、文句は言えなかった。
「ここのカレーは美味いんだよ」
飯と言いつつ酒を飲む気かと思ったが、店主と暫く和やかに話をしていたハロルドが、何故かカレーライス入りの皿を二枚持ってやって来る。
「……セルフサービス?」
「俺はな」
スパイスの香りが心地よく空腹を刺激する。常連、もしくは知り合いの店だったりするのだろう。ハロルドの持ってきたカレーライスは確かにとても美味そうなものだったが、メニューブックのどこにも存在しなかった。
ハロルドは僕のとなりにドカリと腰を下ろし、骨ばった手でスプーンを掴むと、黙って食べ始める。僕も同じようにカレーライスを食べた。
正直、下町の怪しげなバーなんてと身構えていたのだけれど、彼の言葉通り、そこらのレストランで食べるよりもずっと美味しかった。
「あの……」
半分くらい食べ終えてから、やっと口を開く。
「何だ?」
「サーチ……ライトの、ことですけど」
その名を出すと、ハロルドも食べる手を止めてこちらを見た。目が笑っているのが気に入らないけれど、尋ねないわけにはいかない。
「どこにいるんですか? 僕……話せますか?」
「話してどうする」
「……謝りたいんです。その、困らせるようなこと言ったし……」
絶対笑われると思ったけれど、ハロルドはからかうようなことは言わなかった。
「あいつはそんなこと、気にしちゃいないぜ?」
「そう……かも、しれませんけど」
「お前の気が済まないって?」
「はい」
「はぁー……」
ハロルドはやたらと深い溜め息をつく。
「悪いですか?」
「悪くはねぇよ。ただ、子供ってのは怖いなぁと……」
「何が……」
「AIの学習相手には、大人より子供の方がいいんだよ。相手を人間扱い(・・・・)するからな。それはわかってるつもりだったんだが……いやぁ、理屈じゃねぇんだなぁ。ガキってのは……」
「……子供だったことがなかったみたいな言い草ですね」
「あはは、まぁ、怒るなよ。俺はある意味感心してるんだよ」
「とてもそんな風には見えません」
「知ってるか、ウィル。マーキュリーAIっていうのは、人を超える存在になり得るとまで言われた、一世紀前の傑作、天才にしか作れねぇ怪物だ。まぁ、俺が作ったのはせいぜい出来の悪いレプリカってとこだけどな」
自信家らしくない、謙虚な物言いだった。
「ただ、レプリカっつても、コア部分にはクライトン博士が作った学習システムを組み込んであるからな。サーチライトは人を知ろうとするし、知れば知るほどそれに近づいていく。お前と会って急に人間っぽいことを言うようになりやがって、面白かったからそのままにしてたんだが……俺は正直、マーキュリータイプのポテンシャルのでかさが怖くなった」
言いながら空になった皿の米粒を几帳面に掬いとって、ハロルドはカウンターの向こうの店主にビールを頼んだ。まもなく渡されたジョッキに口をつけて、満足そうに息をつく。
「わかんねえって顔だな」
言いながら、ビールと一緒に運ばれてきたアイスティーを、僕の前にトンと置いた。
「だって、分かりません」
「まあいい。サーチライトなら、俺は何もしてないからな。お前が呼べば出てくんだろ。話くらいどこでも出来る」
ハロルドはあっさり言った。
「何もしてないんですか?」
「ああ。俺も必要な時はいつでも使えるし」
「そ……ですか……」
拍子抜けだった。
だけど、彼女にまた会えるのだとしたら……それは、素直に嬉しい。
「あー、あと、もう分かったと思うが、ジョージのサポート無しに潜るのは、命綱無しの綱渡りと同じようなもんだ。俺だっていつでもサルベージ出来るわけじゃねえ。やめとけよ」
「あ……」
そうだった。大事なことを言い忘れていた。
「えと……」
助けてもらったからには、礼を伝えるのが礼儀だ。
だけど、何となく今更どう言えばいいのかが分からなくなっていた。ハロルドは、こっちを特に気にする風もなくジョッキを傾けている。
「あ……の……」
呼吸を置いて――
「……また、教えてもらえますか? ダイビング」
ありがとうを伝えるつもりの唇は、全く違う言葉を紡いでいた。
月曜。休み時間になっても、教室には妙にピリピリとした緊張感が漂っている。数日後には期末試験が始まるのだ。この学校では、一定以上の成績を残せないと容赦なく落第となるため、みんな必死なのだ。
「ウィルー……」
ノートを持ったエリカがぐったりした様子でやって来て、前の席に勝手に座り、背もたれ側に振り返って恨めしそうな声をあげた。
「眠そうだね」
「寝てないもの……」
皮肉のつもりで言ったのに、エリカはちっとも反応せず、ぐったりと僕の机に突っ伏して半分溶けている。彼女の手からヒョイとノートを取りあげて、パラパラとめくってみた。
「化学?」
「そー……」
そこには、エリカらしい可愛らしい文字で書かれた化学反応式がズラリ。細かく説明も書き込まれ――どうやら、化学が苦手な彼女なりに、随分真面目に勉強したらしい。
「頑張ったね。これなら試験も大丈夫なんじゃ……」
「そんなわけ無いわぁ……」
完成したノートをわざわざ見せに来て、褒めて欲しいのかと思ったのに、エリカは人の机を占領したまま足をじたばたさせて唸った。改めて、整然と埋められたノートに目を戻す。
「君、もしかしてここに書いてある内容、まだ頭に入ってないとか?」
「……意外そうに言わないでくれる」
今度は皮肉のつもりは無かったのだが、エリカはクマの酷い目を釣り上げて睨んできた。
「えー……と」
手書きのノートまで制作しておいて、内容を理解できていないというのは、僕の感覚からすると、なんとも奇妙だ。頭に入れるためにノートを書くんじゃないのか、と思うけれど、それを今口にするのは避けておこう。
「……じゃあさ、わからないところは次の休み時間に見てあげるから、とりあえずあと十分寝てなよ」
「えー……」
「いいから」
エリカはそれ以上文句は言わず、大人しくなったと思った時にはもうスヤスヤと眠っていた。まあ、せいぜい貸しを作っておこう。そんなことを考えつつ、邪魔なクラスメートの頭の上で、彼女作のきれいなノートを、次の授業の開始チャイムが鳴るまで読んでいた。
本当は、学校が終わったら今日もガイアポリスへ足を伸ばしたかったのだが、結局、放課後もエリカに付き合うことになった。
場所を教室から生徒会室に移して、化学の講義を続ける。この部屋だとホワイトボードが使えるので便利だ。
「うーん、やっぱり一人でノート作るより、教えてもらった方がはかどるわぁ」
少し寝たおかげかすっかり元気を取り戻したエリカが、勝手なことを言って満足げに問題集を眺めている。
「エリカはノートをまとめて知識を蓄えるより、ひたすら演習をこなすほうが身になるんだから。僕がどうこうっていうより、最初からそういう勉強法にすればいいんだよ」
「だって、わからないとすぐ嫌になるんだもの」
「そういうのは、まとめておいて次の日先生に聞いたりとかするんだよ」
「面倒くさい」
「……君にそういう勤勉さを求めるのは空しいってことを忘れてたよ」
こんな言い方をしても、なぜかエリカは上機嫌なままだった。その顔を見て、ふと先日のことを思い出す。
「そういえば、この間のお礼を言ってなかった」
「え?」
「ありがとう。美味しかったよ」
エリカは一瞬不思議そうに目を丸くして、それからパッと恥ずかしそうに頬を高調させて目をそらす。
「べっ、別に、あんたの分は私にとっては、おまけみたいなもんだから」
「わかってるよ」
「……じゃあ、別にお礼なんか言わないでいいわよ」
ぎこちない反応の理由はわからないが、怒っているわけではなさそうだ。
「でも、先輩にはちゃんとお礼言ったんでしょうね」
「え、あ、うん。一緒に食べたから、その時に」
「そう……ん? ううん、違うわ。先輩にはお礼言うだけなんてダメよ!」
何を思いついたのか、エリカはパッと表情を変えて言う。
「えっ?」
「何か具体的かつ、心のこもったお返しをなさい!」
……上から目線だ。
「どうして君にそんなことを命令されなきゃいけないのさ」
「そんなの、先輩が喜ぶからに決まってるじゃない!」
僕のことは爪の先ほども考えに含まれていないところが、まことにエリカらしい。反論する気も失せて明後日の方向を見つめて苦笑して言った。
「君って屈折してるよね」
「したくてしてるわけじゃないわよ」
「……そりゃそうか」
「はぁああ。ほんっとにもう、信じらんないわ」
それ以上は詳しく説明しようとはせず、エリカはムッとした顔のまま問題集のページを捲った。
エリカの勉強に付き合って校舎を出る頃には、辺りはすっかり赤に包まれていた。ひやりとしたそよ風が心地よい、秋の夕暮れである。
「やぁ、一年コンビっ」
特に会話も無く歩いていた僕たちを、背後から聞き慣れた明るい声が呼び止める。振り返るまでもなく、エンジェル先輩である。
「今帰り?」
人懐っこいニコニコ顔で真ん中に割って入る。
「先輩は部活?」
エリカはすぐに、対先輩用の可愛い笑顔で言った。
「そー。もうヘトヘト~ 君たちは?」
「テスト勉強。ねっ」
「僕は勉強はしてないよ。君の講師をしてただけ」
「教えるのってすごく勉強になるでしょ」
「それはそうだけど……」
文句を言いかけると、エンジェル先輩が僕の肩を掴む。
「エリカちゃん、だめだよ~、あんまりウィルにお願いばかりしてると、嫌われちゃうよ」
「えーっ……」
甘ったるい声で予想外のセリフを吐いた先輩に、エリカはいったん不満そうな声をあげたが、すぐに微妙に不安な色が混じり、困ったようにこっちを見た。
「め……迷惑だったとか、言う?」
意地悪な返事がいくつか浮かんだが、心なしかエリカがしおらしいので引っ込める。
「別に」
「あっ、優しいなぁ。偉いなぁ」
エンジェル先輩の茶化すような言葉は、しかしいつも妙に会話に馴染む。
「ねえねえ、この後さあ、どっか寄って何か食ってこうよ」
「私甘いものがいいな!」
「賛成~っ。ウィルは?」
「……遠慮しておきます。僕、まだ少し学校に用があるので」
「あれ、そうだったの?」
エリカが何となくすまなさそうな調子で言った。
「うん」
成り行きで一緒に校舎を出てはきたけれど、この後SiNEルームへ寄ろうと思っていたのだ。
「そっか、そーゆーことなら、仕方ないね。了・解!」
エンジェル先輩はこの間のように強引に誘ってくるかと思ったけれど、今日はなぜか、あっさりと引き下がる。
また明日と言い合って、二人とはそこで別れることにした。
「じゃあエリカちゃん、どこいこっか」
「サナエ先輩も呼びましょうよ」
「ええっ!?」
「今部活終わったところですよね、私、電話してみますっ」
「ちょ、ちょっと、勘弁……」
「だめですー」
「エリカちゃん~」
賑やかに去っていく二人の背中を見送る。フッと戻ってきた孤独感に奇妙な安堵を覚えつつ、西館の方へと歩いていった。
「お待ちしていました、ウィル」
初めて会った時と同じ、日だまりの古風な図書室で、変わらぬ優しい声が、僕を呼んだ。
「サーチ、あの……」
困ったように口ごもる僕の言葉を、サーチライトはニコニコ顔で待っている。風もないのにフワフワと揺れ動く光の色の髪。僕は、この間よりも少し君のことに詳しくなったんだよ。
「……この間、君を責めるようなことを言ってしまって、ごめん」
夢でも伝えた同じ言葉を、改めて口にする。サーチは少し驚いたようにまばたきをして、それから何度か思案するように首を傾げて、そして深く息を吐くように落ち着いた声で言った。
「マスターに、会いましたね」
「え……」
一瞬驚いたけれど、すぐに納得する。サーチライトがそのことを知っていることに、不思議は無いのだ。
「……彼から聞いた?」
「はい」
サーチライトを作ったのはハロルドだ。僕は彼の好意か気まぐれかによって、彼女を使わせてもらえているだけなんだ。分かっているけどさ。
気持ちを落ち着けようと読みかけの本を引っ張りだして腰掛ける。どこまで読んだかなと思いながらページを捲って、何だかここで本を読むことが恐ろしく久しぶりのような気がした。
以前は毎日のようにここに本を読みに来ていたのに、サーチと出会ってから、一度もこんなふうに本を開くことが無かったのだ。
「……今までは、こうやってSiNEで本を読めるだけで、すごいと思ってたはずなんだけどなぁ……」
ポツリと呟いた言葉を独り言だと判断したのか、すぐ傍に佇んでいるサーチは何も言わない。それが気になってチラリと彼女を覗き見たら、明後日の方向を見ていたサーチライトは、すぐにこちらを向いて微笑んだ。
「何か、探したいものがありますか?」
「君、僕が今何を見ているかとか、分かるの?」
「ウィルは今サーチを見ています」
「そうだけど、その前」
「ウィルの視線が、『プログラミング言語の歴史』から、サーチに移動したことですか?」
「やっぱり見えてるんだ」
「見えているというのは正確ではありません。SiNEルーム内でのウィルの行動は、全てデータ化されてサーチに伝わります」
「ほら、やっぱり見えているんじゃないか」
「見えて……」
呟いて目を丸くする彼女の表情を見ていると、やたらと温かい気持ちが滲んでくる。ハッとするほど人間らしい時もあれば、当たり前のようにこんな反応もする。
「ふふ、もう、わからなくなっちゃうよ」
「何がでしょうか?」
「君のこと」
「私の?」
「そう。あと……君が何者なのかってこと、忘れそうになる」
君は、とても高度なプログラム。だけど、僕にとってはたぶん、それだけじゃない。
「僕には……いや、誰にも、本当の君のことなんて、わからないよ」
「本当の、わたし……?」
「そうだよ。それに、君にだって本当の僕のことは分からない」
「本当の、あなた……」
頷いてみせると、彼女は地球(ほし)のような瞳にキラキラした光を宿して僕を見つめる。この光を、僕はよく知っている。
興味だ。
もっと知りたい。君のことを、世界のことを。
この、何ら切迫感の無い感情が僕を支配する理由は、たぶん、僕を取り巻く世界の全てに、まさに差し迫ったものが何もないからだろう。
そのことを唐突に自覚した。
今よりずっと幼い頃から、ただそれだけに夢中になってきた気がする。限りない興味と、知ることの快楽。
今までは、そこに理由なんて無いと思っていた。
「僕はもっと知りたいな、君のこと」
優しい家族に、生徒会の仲間。
恵まれた環境に不満は無い。けれど――
「君は知りたい? 僕のこと」
平和な日常と、曖昧に約束された将来。
そこには全てがあって、そして、何ひとつ無いのだ。
「もちろんです。サーチは《あなた》を知るために存在します」
サーチはキッパリと言った。
ハロルドが怖いと言っていた、サーチライトのコアシステム【マーキュリーAI】は、無限に自己学習と自己判断を行うという。
人を知り、人を越えると称された人類史上の傑作。僕にとっては、突然、魔法のように現れた、未知の世界への扉そのもの。
「……ねぇ、サーチ、だったらさ」
僕は、本を抱えていた手を伸ばして、彼女の白い指を掴んでいた。
「ずっと僕と一緒に居てよ」
僕の我が侭に、彼女の大きな瞳は、見開かれたままキラリと一度、光った。
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