愛の呼ぶ方へ。
當金とは同じ塾だった。
小学校、中学とサッカー部に入っていた。運動はそれなりに得意で、机に向かって勉強するよりもずっと楽しい。勉強をしなさすぎてまずいと感じた祖父が俺を学習塾に入れた。
そこにいたのが當金だった。
中間試験前、分からないところが出てきたので塾の先生に質問に行くと、誰かと話していた。個別塾だったので、自分を受け持つ先生が違う生徒を受け持っていることの方が多い。
ひょい、と顔を覗くと見慣れない制服が最初に目に入った。
「せんせー、ここ分かんね!」
「はいはい、ちょっと待ってね」
當金が振り向く。大きく黒い瞳がこちらを見上げる。
「明華の制服だ」
「あ、うん」
「へー、なに質問してんの?」
先生が咎める声も聞かず、俺はその隣に椅子を持ってきて一緒にいた。
それが、一番最初に話したときだ。
中学二年の春、一緒に住んでいた祖父さんが死んだ。急性心筋梗塞だった。庭で倒れていたのを近所のひとが見つけて病院に運ばれた。
学校にいた俺は父親に連れられて病院に向かったけれど、もう遅かった。
桜が舞う春のことだった。
物心ついたときには母親はいなくて、母の父である祖父さんと、父親の三人暮らしだった。仕事で忙しい父の代わりに家で俺を面倒みてくれた祖父さん。
サッカーを薦めたのも学習塾へ入れたのも祖父。ある意味母親の代わりのようで、居なくなってから母親の穴よりも大きいと気づいた。
祖父さんが死んで、俺はサッカーを辞めた。自分の世界の外で起こる大きなことを知ってしまって、夢中になっていたものがちっぽけに感じてしまったからだ。スタメンも練習もチームメイトも全部捨ててしまった。
サッカー部を辞めたのを知って、父は何も言わなかった。俺は塾も辞めるつもりだった。勉強は好きじゃないし、馬鹿な俺が通っていても金の無駄だと、子どもながらに思ったからだ。
祖父のいろんなことが終わって、何週間かぶりに塾へと行った。担当している先生に言わないと、と思って自習室を覗く。大きく黒い瞳が見えた。
あ、當金だ。
「黒岩くんだ。久しぶり」
ふわりと笑った。俺の周りの人間には無い雰囲気。
それがなんだか新鮮で、見かけるといつも声をかけていた。
話してみると楽しくて、同じ中学の奴らが言う「明華の生徒は高飛車なお嬢様」という幻想を打破した。
「久しぶり。元気?」
「うん、元気。黒岩くんは……」
じっと俺の方を見る。當金は続ける。
「あんまり元気じゃなさそう」
言い当てられた。どきりとする。
当たり前だけど、ここを辞めたら當金とは会わなくなる。
「塾、辞めちゃうの?」
少し無理に作った笑顔で當金は尋ねる。どうしてそこまでして笑顔でいるのか、その時は不思議だった。今なら分かる。俺がもっと落ちないように、だ。
返事が出来なかった。無言を肯定と取ったらしい當金は、瞬きを一度する。
その瞳には決意が見られた。
「黒岩くんが辞めたら寂しい」
「……そんなこと、」
「一緒にいると楽しいよ。それを思うのはわたしだから、誰にも否定できない」
さらりと正論を言ってくる。返す言葉も持たない。
正論に勝るものはない。そんなことを考えながら、結局俺も當金に会えなくなるのは寂しかったんだと思う。
サッカーを辞めて塾を辞めなかったことに、父親は不思議そうな顔をしたけど、深く突っ込んでくることもなかった。俺もそれに関して何か言われても、困った。勉強はそれほど好きではないけれど、やっぱり當金と過ごすのは楽しかったから。
「今更なんだけど、色々ごめん」
手を繋いだ先の當金がこちらを見上げる。あの頃はそんなに身長差はなかった。
「……いろいろって?」
少し構えて聞く。景色に高層マンションが増えてくる。
「高校のとき、修羅場に巻き込んだこととか、ラウンジで修羅場に巻き込んだこととか」
「黒岩くんに修羅場という認識があったことの方に驚いてる……」
「あるよ、そりゃ」
苦笑して「大丈夫。わたし、悪運強いからね」とよく分からない大丈夫が返ってくる。
マンションについた。いつ見てもでかいマンションだなと思う。
「あと、色んなこと言って傷つけた」
立ち止まって言うと、當金は俺の顔を覗いた。
「傷付けられても、わたしは黒岩くんのこと好きなのは変わらなかったよ」
「うん」
「わたしも黒岩くんのこと傷付けたから、ごめんね」
赦すとか赦さないという話をしない。當金は半々にして相殺した。さすがだと思う。
するりと手が離れていこうとしたのを、握る。細い指が絡まって止まる。
「黒岩くん、帰るの遅くなっちゃうよ?」
「遅くなるのは別に良いんだけど」
「授業あるから学校で会えるよ」
それはわかってるんだけど。
この目前にいる美しくて可愛くて世界一愛しいきみを、本当は何もない世界へと攫って行きたい。二人だけで、時間も寿命もない世界で、ずっと生きていきたい。
そんなことを言ったら、當金は笑うだろう。
「どうしたの?」
當金が首を傾げる。
「當金を攫って行きたいなと思って」
正直に言う。
やっぱり笑った。
「わたしも今、攫って欲しいと思ってたの」
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