恋々に嵐。(中)


鍵を開けて先に入れられる。黒岩が肩を小さく震わせて笑っているのを見た。


「ちょっと……ひっくり返った傘見て、目輝かす當金思い出して……」

「そんなに笑わなくても」


と言いながらわたしもつられて笑っていた。一頻り笑い終える。


「あー面白い。狭いけどあがって」


完全に使い物にならなくなったビニール傘をどうにか畳み、黒岩がスニーカーを脱いだ。わたしも靴を脱ごうとして、俯くと髪の毛から水滴が落ちる。

先にあがった黒岩がタオルをくれて、有り難く受け取る。


「着替え……Tシャツはあんだけど、下がなー」

「え、いいよ。タオル貸してもらえるだけで」

「だめ。てか風呂溜める? 唇蒼くなってる」


勿論首を振った。他人様のお風呂に浸かれるほど、図太い神経は持っていない。ましてや黒岩の家の、なんて。


「下さ、俺のジャージでも良い?」

「これ、新品じゃない? 開けても良いの?」

「好きだったバンドのTシャツで、なんかずっと着る機会なくて開けてなかっただけだから、寧ろ開けて」


透明なビニールの中に入った黒いTシャツに書いてある文字はバンドの名前らしい。黒岩からジャージも貰って、風呂場に向かう。パタン、と扉を閉めて、しゃがんだ。


ちょっと、待って。

どうしてわたしはのこのこ着いて来ちゃったのだろう。何度か誘われても行こうとしなかった黒岩の家に、二人きりになってしまった。

落ち着こう。落ち着け。もう別に、何もないのだし。外の天気が落ち着いたらさっさと帰ろう。不安か何からか分からないけれど、少し涙で視界が滲んで、気分の方が落ち込む。

ここに何人女の子は来たのだろうとか、わたしが赤羽でも撫子でも仙斎でも同じ扱いをするのだろうとか、考えるだけ無駄だ。

他人と感情が一致することは殆どないと白峯は言った。それからずっと、その意味を考えていた。黒岩が本当にわたしのことを嫌いでなく好きでいてくれるのなら、それはきっと付き合わなくて良いくらいの『好き』なのだろう。

でも人と人はずっと一緒には居られないから。これから就職したり院に進んだり、皆違う進路を決めていく。わたしと黒岩も、きっと違う道を選ぶ。


風呂場の外で物音がして、我に返る。ガスコンロを点ける音。

今朝、シャワーを浴びたのだろう。風呂場のタイルが少し濡れている。わたしは下着以外身に着けているものを全部脱いで、黒岩から借りた衣服を着る。案の定ぶかぶかだけれど、袖と裾を折れば大丈夫だ。

風呂場を開けると、着替えた黒岩がキッチンの前に立っていた。こちらを振り向いて、居間の方を示す。


「ストーブの上あたりに濡れた服かけといて」

「あ、うん」

「腹減ってる?」

「ちょっとだけ?」

「なんで疑問形なんだ」


笑いながら沸騰した薬缶の火を止めた。わたしは言われた通り、居間に行って点けられたストーブの上にあったハンガーに自分の洋服をかける。少しその場に留まって、暖かさを占拠した。

畳の感触が裸足に優しく、黒岩がこちらに来るまで部屋の中をぐるりと見回す。テーブルと低い本棚とローベッド。必要最低限のものが置いてある。全部から黒岩の匂いがした。それがまた、頬を熱くする。

部屋の端に水槽があった。赤いひらひらとしたものが泳いでいる。花火大会のときの、金魚。モミジだ。


「とりあえずコーヒー」

「あ、りがとう」


テーブルに置かれたマグカップの取っ手を持つ。黒岩が座ると、途端に部屋の中がしんとした。閉められた雨戸が時折がたがたと鳴って、わたしは何故か必死に話題を探した。


「そういえば、白峯先輩にこの前会ったら、頬っぺたに痣作ってたの。近所の犬に押し倒されたって言ってたんだけど、わたしには犬好きとは思えなくて」

「先輩と会った?」

「うん、同好会室で」

「仲良いな」


突き放すような言い方に、違和感を覚える。わたしは何かまずいことを言ってしまっただろうか。黒岩はマグカップの中身を見ていた。


「あの怪我、俺だよ」


その視線が動かないまま、言葉は紡がれた。

意味を捉えるのに数秒かかって、暫し停止。怪我、俺って。


「俺が殴ったからできた」


緊張なのか諦めなのか、自嘲げに笑って黒岩が話す。



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