泣き虫は慟哭する。
紅茶の匂い。
ぼんやりとした視界の中、それは深く香った。厚く被った毛布を退けて、電気を灯すリモコンを探す。両鼻が詰まって息が出来ない。明日は波都大前期試験だ。
年明け、兄たちと初詣に行った。予備校の冬期講習で苦手な分野の講義をとった。
高校の教室の端に書いてあるセンター試験までの日数が段々と減っていき、センター試験を迎えた。
難易度は例年通りだと言われた。自己採点をしたら、第一志望のボーダーは超えていた。小倉さんにそれを伝えると、安堵した顔をしてくれた。
滑り止めの私大を受けて、バレンタインだからと自由登校になった高校に来たクラスメートたちにチョコレートを貰った。わたしはすっかりそんなことは頭から抜け落ちていて、ホワイトデーに返すねと言った。
学校の帰りに予備校に行くと黒岩がいた。というよりセンター試験が終わってから、殆ど予備校に入り浸って一緒に帰っていた。黒岩もボーダーは超えた。
「黒岩くん、チョコレートいる?」
「まじで。欲しい」
勿論既に黒岩の手には義理なのか本命なのか分からないチョコレートの紙袋がぶらさがっていたわけだけれど、わたしは学校帰りに寄ったデパ地下で買ったチョコレートを渡した。手作りとは程遠い手軽さだ。今日までバレンタインを忘れ去っていたのだから、その重みが違うことは自覚している。
「當金からチョコ貰うの初めてだ、嬉しい」
「そういえばそうかも」
毎年友達に持っていくチョコは用意していたけれど、黒岩に渡すチョコレートはいつも迷って、やめていた。
今年は億面もなく持って行けたのは、もしかしたらこれが最後になるかもしれないと思ったからだ。
来年は同じ大学に入れたとしても、一緒に居られるとは限らないから。
そんなバレンタインの約一週間後、わたしは熱を出した。朝から身体がだるくて嫌な予感がしていた。一昨日くらいから喉が痛くて、家で勉強していた。
朝ごはんと昼ご飯が全然食べられなくて、夕方頃に母に病院に連れていってもらうとインフルエンザだと分かった。
前期試験に間に合わない、とぼんやりした頭で考えた。インフルエンザは発症五日、または解熱後二日経過するまでは出席停止。インフルエンザの特別措置が設けられている国公立大は殆どない。それもまた運命の内だから。
波都大も例外じゃない。
帰りの車の中で、母もわたしも何も言わなかった。帰ってすぐに、わたしはベッドに潜って泣いた。リビングで母がどこかに電話をかけているのがわかった。
何が悪かったんだろう。目を開くのも億劫で、暗い視界の中で考える。
秋口で余裕な顔をして小説を読破したことだろうか、みんなが勉強している中初詣に行ったこと、それとも黒岩にチョコレートを渡したことか。
ぐるぐると考えて、夕刻に母が静かに部屋に入ってくる。
「入試、やっぱりインフルエンザだと受けられないみたい」
「……うん」
大学に電話してくれていたらしい。当たり前だと思っていたけれど、わたしはそれにまた目頭が熱くなった。
「今は治ることを優先して。滑り止めもあるし後期試験もあるから大丈夫よ」
わたしの手を握る母の手はひんやりとしていた。
大丈夫、という言葉を使う母の方がきっとそれを信用していない。わたしも聞きながら少し笑ってしまった。笑う余裕があるのだから、きっと大丈夫なのだろう。
熱は翌日には下がった。携帯を持って黒岩と赤羽にメッセージを送る。
リビングで、母の作ってくれたはちみつ生姜湯を飲んだ。テレビでお昼のワイドショーがやっていて、都内の美味しそうなお店が紹介されている。
熱は下がったものの、参考書を開く気にもなれない。ばーんとリビングに入ってきたのは柾だ。
「お兄ちゃん、静かに扉は開けて」
「あーごめんごめん。お前ちゃんと寝とけよ」
母の言葉を軽く流した柾は私の隣に座ってくる。
「横になると鼻がつまるの」
「べそべそ泣いてないで、早く治せよ」
ほら、と紙袋がテーブルに置かれる。中に入っているのはたくさんのゼリーとのど飴。柾が買ってきてくれたのか、と顔を見上げた。
「アイツ、下にいたぞ」
「あいつ……?」
「黒岩」
言うだけ言って、立ち上がってしまう。
「え、黒岩くん居たの? なんで、何か言ってた?」
「待ってるって言ってた」
べそべそなんて、していない。
ただ悔しくて、悔しくて堪らないだけだ。
ベッドに戻ると、携帯のランプが光っていた。着信も入っている。全部黒岩からだった。わたしはゼリーとのど飴のお礼を返信した。
それからまた泣いた。声を押し殺して、ずっと泣いていた。
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