第四章 5

 恐怖という感情はどこからくるのだろうと考えたことがある。

「お前、全然緊張してないのかよ」

 そう言ったのは、期末テスト直前でがちがちに固まった石井健太だ――あいつの場合は、傍から見てもだれの目から見ても緊張しまくっていた。おそらく、勉強も何もしていなかったのかもしれないが。

 僕だって今まで、たがだか十数年しか生きていないような短い人生の中で、恐怖という感情を経験したことがないと言えば嘘になる。パッと思い当たるだけで数回、考える時間があるのなら十数回。不安や緊張なども『恐怖』と同じと考えるのならばもっと多い。

 幼いころ、まだやっと父さんと母さんの布団から抜け出して、自分の部屋を持つようになってたったひとりで夜の闇の中を過ごさねばいけなくなったころは、夜の世界ですら怖かった。幼いころは、今よりももっともっと夜の気配が敏感に感じられたし、それと同様に夜の闇の中に生きる何かしらの畏怖の生き物の存在を、当時の僕は完全に信じていた――し、全身の感覚で感じていた。いると思っていたんだ。幽霊だとか妖怪だとか、そういった曖昧で幻想的な生き物が、部屋の隅に溜まっている暗くて黒い空気の底から、床を這いずってでてくるのではないかと毎晩毎晩気が気ではなかった。それだけではない、あの時の僕は、夜を這いずる闇の音とか、そこらじゅうを漂っている黒い匂いだとか、そういったものを完全に感じることができたのだ。

 今僕が感じるもの。眠りこけた町の音。道路の通っていない透きとおった道路の空気。さわさわと葉と葉と撫でる木々の声。地表を照らす月星の光。今日と明日の境目の時。こっそりと鳴り響く虫の羽。かしゃかしゃと擦れるウィンドブレーカー。地面を蹴り上げるスニーカー。どくどくという音を立てる僕の血流。静脈と動脈。生命の音。昼間、ごちゃごちゃとした街の中では決して感じることのできないような、一秒一秒を間違いなく刻み続けるそれらの息吹。

 あの日。今から大体一か月くらい前か――もしかして、もう少し前なのかもしれないが。

 あの公園で、包丁を持って噴水の前に佇み、きらきらと光る彼女に出会ったのも今日のような夜だった。 

 あのあと僕は、彼女にその感想を直に聞かれてこう答えた。

――どきどきした。

 そう言う僕に、まだ親しくもなんともない彼女はひどく驚いたように長い睫毛を瞬かせた。こわいとかじゃなくて? 違う。恐怖心は持たなかった。恐ろしいとか逃げ出したいだとか、そういった感情以前にまだ、きっと思考が追い付いていなかったのだと言えばその通りなのだが。

 今となってはよくわかる。あの時彼女は、間違いなく『夜の住民』になっていたんだ。

 そうすれば全ての合点がいくんだ。僕の感情。彼女の存在。包丁に光る真紅の血液。

 あの時、娘に突き刺された哀れな父親は、あと数秒でしかない儚すぎる自分の命を、精一杯伸ばし生きようとしたんだ。それこそ、この地に潜む夜の音のようにして。彼女だって同じだ――彼女こそ、その時すでに『畏怖の住人』として、この夜の街に溶け込んでいたんだ。

 おかしくもなんともない。だからこそ僕はきっと、それらの存在に対し恐怖を抱くこともなく、むしろ夜の神秘によく似た感情を抱かせることに成功した。

 僕は笑う。いいじゃないか。面白い。僕の隣にある、すぐ横の、反対側の世界。まっすぐに行き来のできる、境界線の向こう側。

 夜の街は、本当に僕のすぐ隣っ側にあるんだ。

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