第四章 4

 森江宏樹の事件は瞬く間に町中に響き渡り、市内のすべての小中高に通知され、うちの母親洩れずどこのご家庭にも知られることとなる。

 朝、眠い目を擦って階段を降りてきた僕を見て、いつものように台所で妹の弁当箱に色とりどりの野菜を敷き詰める母さんは言った。

「お兄ちゃんの友達、失踪したんですって?」

 友達じゃないよ。というのは僕の弁。朝の挨拶もなしに母さんは顔を曇らすと、「いやーねー」といって頬を押さえた。

「ほんと、物騒な世の中ねー。おちおち家も出てられないわー」

 滅多に家にもいないくせに、と声には出さず心の中でひっそりと毒づく。僕は内面を表情に出さぬように気を付けて、冷蔵庫の中から冷たく冷えた牛乳を取り出す。専用のカップを食器棚から取り出して牛乳の口を向けるのだか、いつものカップが半分ほど満ちたところで牛乳がなくなる。もう一度冷気の漂う文明機器の中に頭を突っ込ませるのだが、残念ながらあの青と白のパッケージは見当たらない。

「母さん、牛乳ないよ」

「お兄ちゃん、勉強も大変だろうけど、なるべく早く帰ってきてね。お母さん、今日も帰りが遅くなると思うから。ちいちゃんを一人にしておくのも心配だし。

 僕の言葉は全くの無視。もしかして、元から聞こえていないのかもしれない。聞こえているくせに。まぁいい、今日の帰りに買ってこよう。

 僕は食パンをトースターに突っ込んで「わかった」と短く答えた。



 和泉の家にやってきたという警察は、僕の家にもやってきた。

 その日は日曜でたまたま和泉からの連絡も入らずに、僕は今でおままごとに興じる千尋の面倒を見ながら教科書ノートを開いていた。もうそろそろ十一時を指すというころにピンポーンという呼び鈴が鳴り、誰だろう、宗教の勧誘だったら居留守を使おうとのったりと腰を上げる。

 そこにいたのは、灰色と紺のスーツを纏った警察官だった。

 警察官は二人。僕の父さんよりも年上の、たぶん五十代くらいの頭の薄い小太りのおじさんと、二十代後半くらいの痩せていて背の高い男の人。おじさんの方が胸元から出した警察手帳を玄関先に掲げている。

 その二人を見て、僕は一瞬躊躇をする。何事か――頭の中を交差する二つの可能性。ひとつはやはり森江宏樹。石井の家にも和泉の家にも来たと言っていた。もう一つの可能性が、殺人少女の和泉紗枝。可能性から考えて、おそらくこれは前者もほう。後者ではないだろう。多分。

 僕は一瞬だけ心拍数の上がった心臓を落ち着けて、浅く呼吸をして、平静を装いながら玄関の戸をあける。

「はい」

「こんにちは。わたくし、勅使河原市警のものですが」

 お母さん、いる? と言って、黄色く淀んだ目玉をぎょろりと動かした。様子を伺っているらしい。いません、と僕は言う。

「お母さん、お買い物か何か?」

「母さんは休日出勤、らしいです。父さんは単身赴任です」

 僕の言葉に、警察の人は少しだけ驚いた表情を見せて(たぶんこれは表情を『作った』だけだ。実際は驚いても何もない)「少しだけ、話をいいかな?」といって歯を見せた。

 質問の内容は簡単だった。僕は子供だという理由からか、あまり突っ込んだ質問はされなかったし大したこともいわれなかった。

 いなくなった森江君とは仲良かったの? 

 よくないです。

 ここ数日間で、誰か怪しい人とか見てない? 

 みてません。

 森江君てどんな子だった? 

 明るい人でしたよ。

 などという質問応答をして、最終的には「ありがとう、最近は物騒だから、家の戸閉まりは気をつけるんだよ」というような結論に陥った。

 刑事さん達が玄関先から外に消えて、また次の家に行く時に、僕は心底ほっとする。僕の小さな心配はただの杞憂だったようだ。よかった。長い息をついて全身を伸びきらせる僕の前では、おもちゃの野菜や包丁を相手に千尋が昼御飯の支度をしていた。僕は畳の上に寝転んだまま首を動かして、いつのまにやら正午を過ぎていることを確認する。昼飯。なんかあったっけ。ああ、確か、うどんがあった。ネギと、卵と、まぁ何かしらの野菜がある。

 僕はそう言って体を起こし、冷蔵庫の奥に頭を突っ込んだ。



 テスト勉強と森江宏樹の失踪とそれに関わる暇つぶしをしていることで、僕の一週間はあっという間に時間が過ぎて、期末テストの日がやってくる。いつの間にやら森江の話題はどこかへ消えて、僕の周りに聞こえてくるのは念仏のように唱えられる英単語・歴史上の偉大な人物・数学の重要な公式。僕は聞こえてくるそれらの呪文を振り払い、目の前にあるすべてに意識を集中させる。こういうときは、周りに気を取られてはいけないんだ。僕はそれらの知識を口には出さない。口に出して覚える方法もあるのだけれど、僕は逆にそれらを口に出そうとすると、口の先からすべての知識が出て行ってしまうような気がしてしまう。だから僕は唱えない。頭の中で何度も何度も交差させる。

 イギリスのファンデナーは電流による物質の分解を発見し、電気分解と名付けた。電解質。水に溶かしたとき、電流を流す物質。塩化銅、塩化水素、水酸化ナトリウム。非電解質。水に溶かしても、電流が流れない物質。砂糖、アルコール。あれ、今回って電離式出るんだっけ? と思い出し、机の中から教科書を取り出してページをめくる。危ない危ない。

 などということを行っている僕の頭を、誰かの指がこちんと弾いた。誰だ、と思い顔を上げる。和泉紗枝だ。

「和泉さん」

 なんで、こんなところにいるんだという視線を投げかける、僕。和泉は「セイジに会いに来たんだよー」と適当なことをいって『優等生の笑み』と作った。余裕しゃきしゃき、っていうやつか。全く、この女の子は。

 和泉はたまたま空いていた僕の前に着席すると、

「冗談。まりっぺが三組に用事があるっていうから、付添」

「ああ」

 僕は納得をして、教室の窓際の後ろの方で女子数人を盛り上がっている河内麻利に目を向ける。うるさい。黒板を引っ掻いたような高い声でしゃべっている。

 和泉は、『普通の女の子』の目をしたまま僕の顔を覗き込むと、

「いい点取れそう?」

 と言った。僕は後ろに体重をかけて背を反らすと、

「まぁまぁ。そんなに悪い点は取らないと思うけど」

「わたしは取るよ、いい点」

 彼女の言葉に、僕は鼻先で笑う。知ってるよ。そんなこと。

 授業開始まであと二分というところで河内麻利という呼び鈴がかかり、優等生の皮を被った殺人少女は「じゃあね」と言ってスカートの裾を翻した。彼女の後姿に僕も手を振る。

 どこからか、「あれっ? 藤崎っ?」という何かに気がついたような石井の声が聞こえたが、そいつの呟きも学校のチャイムと教師の声で掻き消される。

 和泉紗枝はいい点を取るだろう。そして、先ほどの余裕の表情からしてこないだの『ゲーム』についてもある程度の展開は迎えているのかもしれない。

 僕は、手元に配られるわら半紙とかけ時計の秒針の音を聞きながら、目の前のことに意識を集中させる。

 だって僕は、どこにでもいる普通の中学生なのだから。

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