第四章 6

 丸い月が頭の上に駆け上がった。

 僕は、前後させていた足を止めて天上を見上げる。

 今日は少しばかり風が強く、灰色に陰った細長い雲が、いくつもいくつも月の前を駆け抜けた。薄暗い雲が丸い月に影を作り、そのせいで月がにやりと笑っているようにも見えた。生ぬるい風がひんやりと頬を撫で、前髪をさらりと揺らした。僕は、目を凝らしてそれを見る。明日の天気はあまりよくないのかもしれない。

 今日で三日間すべてのテストの日程はすべて終わり、後はもう、テストの結果を待つだけだ。石井健太は休み時間のたびに悲鳴をあげていた。「うぉー。おれ、全然できなかったー」「ちくしょー、ぜんぜんわかんねー」もう諦めろ、と周りのやつから言われていた。

 僕はというと、まぁまぁ。それほど悪くもないだろう。上出来、と言えば上出来か。だからこそ、こんな風に夜中の街を徘徊していたりもするんだが。

 和泉紗枝は相変わらずの余裕っぷりだ。今日の帰り、下駄箱辺りで「どうだった?」ということを聞かれ「まぁまぁじゃないの?」と答える僕に、いつものにんまりとした笑いを返す彼女。その顔から、彼女にとってどれだけ楽なものだったのか伺えるから嫌味なものだ。

 森江宏樹は未だに行方知れずのままであり、結局テストは受けずじまいだった。

同じクラスのやつの話だと、一応出席では名前を呼ばれてテスト用紙もすべて用意されているということなのだが、三日間の授業に置いて彼の席はすべて空席だったという。

 森江宏樹が失踪して、もうそろそろ二週間が経つ。さて、森江宏樹はテストも受けずに家にも帰らず、この十一月の寒空の下どうやって過ごしているのだろう。

 以前テレビにでていた小学四年の女の子は、どこをどうしたのは自分の足で東京の町中から栃木の山の山の奥に歩いていって、失踪→通報→捜索から一週間と少し経った頃に家出として発見された。なんでも、前日に家のことで父親に怒られたことが原因だったのだという。

 その女の子がどれほど逞しかったのかということは別にして、僕は今生きているか死んでいるのかわからないような森江宏樹が、事実どうしているのか単純に気になった。

 生きているのか?死んでいるのか?

『ゲームしようよ』

 そう言った彼女は、そのゲームを見事にクリアすることに成功しているのか?

そのゲームをあっさりと戦線離脱してしまったのは誰でもない僕なのだが。

『森江くんはもう、生きてないと思う』

 和泉紗枝の言葉に反し、森江本人の両親はいまだに息子の生存を信じていて、駅前でチラシを配ったり情報提供を求めたりと涙ぐましく活動を続けている。その様子があまりにも痛々しくて、ついつい森江の生存を信じていたくもなるが、そう言った感情を削除すると出てくる素直な感想は、やはりもう森江宏樹は生きてはいないのではないかということだ。

 僕は、教室でエロ本を読みまわすような同級生に、埼玉→栃木まで徒歩で行けるような度胸があるとは思えないし、どう考えても年上の彼女と駆け落ちするほど根性のある男には思えないのだ。

 僕は肩を上下させ、浅く深く呼吸をし、排気ガスの紛れていない透きとおった空気を肺の奥まで吸い込む。それから、体の奥底にある不要な老廃物を吐き出して、いるものといらないものを交換する。

 昔話とか童話では、死んだ人の魂が夜中寝ている家族のもとへやってきて、伝言やら何やらを伝えるというエピソードがよくある。

 漫画とか都市伝説でも、たった一人山道やら自宅やらで亡くなった人が自分の死体を見つけてほしいとばかりに火の玉になって、道行く人の気を引くという話も使われている。

 ベタ、といったらベタなのだ。そういう話題は。

 でも、こうやって誰もいない闇の中を駈けていると火の玉の一つや二つ、出てきてもいいのではないかとも思ってしまう。自分の死体があるすぐ横の道路を駆け抜ける通りすがりの住人に助けを求める、哀れな魂。いいじゃないか。

 そこまで考えて、自分自身の幼稚な考えに苦笑する。馬鹿か俺は。空想好きの、甘いものと怖い話が大好きな女の子か。

 道路のど真ん中で立ち止まり、折れた膝を押さえて腰を丸め、にやりと歪んだ口を押さえる。俺だって、相当おかしいんだ。

 僕はくすくすと漏れる笑いを押さえ、曲がった膝を伸ばし、折れた腰を元に戻す。凭れた首を起こして天を見上げると、黄色い月は頭の上よりも少し外れて東の方向へ落ちていた。しっとりとした風が灰色の雲を足早に動かして、地表にいつくもの影を作る。

 そろそろ帰るか。だいぶすり減ってきたスニーカーの底を蹴って、くるりと踵を方向転換させる。

 と。

 僕はそこに、いまだかつて見たこともないようなものを発見する。

 僕がくるりと振り向いた、そこにあったもの。白い、先日の体育で使ったサッカーボールほどの大きさの、球状に光る淡い光。家に付けられている蛍光灯よりも穏やかで、夏に輝く蛍よりも落ち着いた光の色。僕は、突然の出来事に驚いて目を開く。車や自転車のライトではないかときょろきょろと頭を動かすのだが、残念ながら深夜の街を徘徊しているのは中学生の僕一人だけのようで、明かりを作るようなものは何一つ見当たらない。

 僕は目を見開いてぱちぱちと瞼を上下させ、ジンワリと汗のにじむ手の平を握り、それに触れてみようと恐る恐る人差し指を差し出してみる。が、その光まであと数センチという距離でぽわんという音を立てて僕の頭上に舞い上がった。2つ目の月。その丸い光は、まるでスライムのように形を変えて、大きさを変形させた。サッカーボールほどの大きさかと思ったら、スポンジが水分を含むように膨張してバスケットボール程の大きさになり、そこから先端だけが尖がってラグビーボールのような形になった。そこからしゅわしゅわと恥ずかしがっているように波を作り小さくなって、手毬程の大きさになり僕の目の前でふわふわと揺れた。

「なにこれ?」

 僕は、突然目の前に現れたそれに対し誰も答えるはずもない疑問を声に出す。不思議なものだ――虫の光? まさか。虫にしては大きすぎるし、変形をしすぎている。どこかで誰かが新しい多機能型の懐中電灯で遊んでいるのではないかと疑って周囲を見回るが、残念ながらどの家も戸をしめ切って夢の世界に飛び立っている。

「……ひとだま?」

 まさか。僕はそう思い、汗の滲んだ両手のひらを光に翳す。暖かい、というか生温い。冷蔵庫から出して一時間くらい常温に放置しておいた牛乳くらいの温度だ。

その、囲った右手と左手の距離を縮めようとした瞬間に淡い光はもう一度ふわりと飛び立って、僕の真後ろに移動した。のったりと体を反転させると、白い光はまるで僕のことを待つかのように僕より二2メートルほど離れた場所でぼんやりと浮かび上がっていた。

(もしかして、待ってるのか?)

 まさか、このよくわからない白い光が? 僕のことを?

 僕がそれを口に出す前に、その淡くて白い光は僕の心中を察したようにして、ぐるんぐるんと全身を回転させた。僕は右構えになっていた体を正面に向け、眉を寄せたまま止めていた足を一歩踏み出す。と、その白い光はどこかへ誘導するようにしてふわりと浮いた。僕は目の前を行く光を追う。白い光は時々立ち止まって僕を待ち、僕をどこかへ先導させた。

(ついてこいっていうことか)

 心の中でそう呟くと、浮いた光はそれを肯定するようにしてグルンと回った。



 公園の端を行き、中学校の前を走り、田んぼの隣の畦道を通る。滅多に行かないような所を行くから、時々ふいに現れた大きな穴だとか巨大な岩だとかにつまずきながらも、なんとか光を見失わずに走っていけた。月の光と、暗闇に慣れた僕の視力の良さのおかげだ――まぁるい光は、時々速さをあげたりゆるめたり、時には立ち止まって僕がやってくるのを待っていたりと、僕をじゅんぐりじゅんぐりと誘導させた。

 どれくらい走ったのだろうか。低いビルの間をすり抜けて、電気の消えた家の前を走りぬけ、やって来たのは九十度曲った看板の張り付いた廃工場だった。雨水で溶けかけて汚れきったその看板には、こう書かれている。

『西野セメント工場』

 夜の中に佇む巨大なビルは、映画に出てくるホラーハウスにもよく似ていた。割れた窓ガラス、適当に生えた雑草、そこら辺に散らばった大小の小石。

 錆びついた門の前で佇む僕を尻目に、白い光は締め切った門の間をすり抜けて、工場の中へはいって行った。僕はその、未知の世界の入り口でごくりと喉の奥を鳴らし、その、錆びついた工場の入口に手をかける。

 キィ……

 一応、鍵は掛けられていたようだったのだが、酸性雨に打たれて腐敗していたらしい黒く変色をしたそれは、僕が少し手をかけるだけであっさりと施錠をはずし、僕を中に招き入れた。堅苦しい扉の前で待機をしていたらしい白い光は、僕が門の施錠を外して誰の私有地ともわからないような場所に足を踏み入れたことを確認し、それからまた、閉め切られているはずの工場の扉をすり抜けて、工場の中の向こう側へ消えていった。僕はその白い光が扉の向こうへすり抜けたことを確認し、コンクリートの地面を蹴り上げて先を急ぐ。ばたばたという音を立てて先ほどまで光の浮き上がっていた場所に立ち、思った以上に呼吸の上がった息を整える。はぁはぁと肩を上下させ、それかた重くて大きな扉に手をかける。ぐいぐいと押したり引いたりひっぱったりとして見るのだが、大分厳重に施錠がしてあることと、もう錆びついて腐りきっているのだろう。僕の手に赤錆びやら汚れやらがべたべたとつくばかりで、その硬い扉が開く気配は一向にない。

 もういい加減手の平の皮が向けそうになって、食いしばった奥歯も痛くなってきて、僕は錆びついた底から手を放し背中を逸らしため息をつく。

 一体何なんだ。あの火の玉も、この工場も。

 思い切り眉を寄せ、首を傾げ、自分自身に問いかける。

「……俺、なにやってんだ……?」

「ほんとに何してんの?」

 何気なく呟いた自身の言葉に帰って来たのは、どこかで聞いた女の子の声。

 僕は思わぬ返答に驚愕して、思わず肩を跳ね上げる。

 どくどくと高鳴る心臓を押さえつつ、突然のことにびくびくとしながら後ろを振り向くと、そこにいたのは闇色の髪と同じ色の瞳を持つ殺人少女。

 他の誰でもない和泉紗枝だった。

「ちょ、和泉……」

 そこにいたのは見知った顔であることに僕は少しだけ安心し――いや、もしかしてこの世で最も危険な人物なのかもしれないが――僕はほっと胸を撫で下ろした。

「なんだよ。驚かせるなよ」

 ほっ、息をつく僕の前で、殺人少女は大きな目をぱちくりと瞬かせた。

「え、あ、ごめん」

 なんとなくノリで言ってしまった、というようにして謝罪の言葉を述べる彼女。

僕はまだ心拍数の上がっていることを隠して平静を装いながら、月に背を向けている彼女に向き直る。

「まったく、こんな時間にこんなとこで何してんだよ。もう、0時過ぎてんだろ」 僕の言葉に、彼女はいくらか不服そうに口を窄める。

「セイジこそ何してんの。ここ、廃工場なの見てわかるでしょ? また、例の徘徊癖?」

 相変わらず彼女はまったく失礼なことばかりいう。徘徊癖とかいって、失礼な。

「違うよ」

「違わないじゃない」

「俺はただ、人魂につれられて――」

 つい感情的になり思わず言ってしまったその一言に、僕は思わず口を閉じる。しまった。人魂とかいって、普段の僕らしくもない言葉じゃないか。目の前では例の殺人少女が整った顔に不思議そうな表情を載せて上目使いに見上げている。

 可愛らしく小首を傾げ、睫毛の奥から覗き見る、彼女。

「え? 人魂?」

 言ってしまって、しまった、と思う。僕は左手で口を押さえ、右手をぶんぶんと振る。

「あ、違う違う。間違えた」

「今、きっちりヒトダマっていったじゃない」

「違うって。聞き間違え。忘れてよ。うん、忘れていいから」

 思い切り否定する僕のことを、和泉紗枝が怪訝な表情で見上げてくる。明らかに納得をしていないという、そんな表情。

 まずいな。僕は内心冷や汗を垂らし、動揺する。「あー」とか「うー」とかそんな言葉を発しながら、話題を反らす。

「和泉さんこそなにしてんだよ」

「わたし? わたしは――」

 彼女は何やら不審者でも見ているような目で僕をじっと見つめていたのだが、僕の問いにふいっとまた表情に変化を出して言葉を切る。じっ、と射るような視線で僕を見つめるとぼんやりと、けれど呟くようにして、どこか面白そうな口調でこういった。

「宝探し」

 は? 

 先ほどと変わり、今度は僕が彼女に眉を寄せる番。彼女はひらりと前髪を掻きあげると、月の光を湛えたような鮮やかな瞳で、僕のことを覗き込んできた。

「セイジ、まだ帰んないでしょ?」

「え、あ、うん」

「真夜中デートしようか。私と一緒にさ」

 デート? 違うだろ、と僕は思う。彼女は今、明らかに何かを『握っている』。それがいいものか、悪いものかは別として。決していいものではないとは思うが。

 僕は少し考える。選択しなんてどこにもないがほんの数秒考えて、から「いいよ」と短く肯定する。僕の言葉に、彼女はゆったりと笑った。

 和泉紗枝はほんのりと目を細めたままくるりと踵を回転させて、黒い髪の毛をなびかせる。高い空の上では黄金の月が彼女を照らし、にんやりと笑っていた。

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