第四章 2
長針が二時を指すころに、僕は「ラ・ブール」の薄汚れた扉をくぐる。彼女に指定された時間までにはあと三十分もあって、それまでコーヒーでも飲んで暇つぶしでもしようかと思っていたのだが、あの錆かけた金色のドアノブを引いた瞬間にあのカウンター席でミルクティーを飲む和泉紗枝と目が合って、急遽予定を変更する。
僕は今にも崩れそうな扉をゆっくりと閉めて、両肘をついて両手でティーカップを抱える和泉紗枝に近づいて、椅子を引いた。
「時間、二時半て聞いたんだけど」
カウンターの赤い椅子は、僕が腰を乗せることで少しだけ音を立てて沈んだ。彼女の手の中にあるカップは、もうすでに半分ほどに減っている。僕がいくらか眉をひそめてそう言うと、殺人少女はさも当たり前のようにしてこう言った。
「言ったよ」
「まだ二時にもなってないじゃないか」
「ここの時計はもう二十五分過ぎてるよ」
三十分遅れて時を刻む時代遅れの大時計を指す、彼女。まったくこの子は。僕は片手で頭を押さえ、うんざりとため息をついた。それから頭をあげて、隣で平然とミルクティーに口をつける優等生の横顔を見る。
「いつからいたの?」
「四時間目。給食は食べてないよ」
「……さぼったな」
さぼってないよ、と片手をひらひらと振る、彼女。
「私、生理痛すごく重いの。ほんと、まともにご飯も食べれないくらいにひどいの」
そういって平然とカップに口をつける彼女の横顔を眺め、『嘘つけ』と心の中で呟く僕。
もう一度盛大にため息をついて、無愛想なマスターにコーヒーを一杯頼む。頭の上にある古いテレビの中では、つい先日まで放送していた野球中継から打って変って今度は豊満な肉体が戦いを繰り広げる相撲に切り替わっていた。相撲なんて大した興味もないし知識だってほとんどないから、何が面白いのかよくわからない。初老のマスターは、以前と変わらず対して面白くもないような顔でテレビ画面に見入っていた。
肩肘をつきコーヒーが来ることを待っている僕の横で、和泉は言った。
「セイジこそ、来るの早かったじゃない。私、二時半て言ったでしょ?」
「和泉さんからLINEが来たとき、もう廊下にでてたんだ」
「え?」
「教室が大騒ぎになっちゃって。授業どころじゃなくなったから、さっさと帰ろうと思って」
僕の言葉の、一体何が面白かったのか。彼女は白いティーカップをコトンと置くと、さもおかしそうにくすくすと笑った。
「なにそれー。セイジってば、はなからやる気ないじゃーん」
当たり前だろ、というようにして僕は肩を上げる。
「うちのクラスだけじゃないだろ。学校中、あの噂で持ち切りみたいじゃないか」
僕の言葉に、隣に座っている殺人少女はそうだね、というようにして短く頷いた。彼女がカップを持ち上げると同時に、目の前に無表情のマスターが現れて白い陶器のカップを置いて去っていく。小さめのカップの中には、黒い液体がそれを対なる白い湯気をほこほこと立ちあげながら丸い丸い渦を描いていた。
ありがとうございます。僕のその言葉が聞こえたのかどうかは分からないが、マスターはいつもの定位置に着席すると誰が使ったのかわからないような食器を拭きながらその濁った眼を土俵に向けた。
僕はマスターが定位置につくまで見送って、その視線を和泉に戻す。
「森江くん、去年同じクラスだったから知ってるよ。あの子、東陽進学塾に通ってたんだよね」
東進は地元でも有名は進学塾で、テストも授業内容も難しいことで知られている。確かクラスが偏差値ごとに五クラスだか六クラスだかに分かれていて、その進み具合も授業時間もことなるらしい。
「森江君は上から二番目のクラスらしいよ。二番目のクラスは最終授業が十時とか言ってたから、森江君の帰宅時間はそれ以後ということになるね」
彼女の話による一昨日の森江宏樹の動向はこうだ。
十六時過ぎに帰宅をし、十七時半からの塾の授業に出席をした森江はいつも通り二十二時までの三コマ分の授業をすべて受けて、そのまま仲の良い塾仲間とファミレスで食事をとった。そこで小一時間話し続けて、二十三時くらいに店を出て、レンタルビデオ屋に寄り借りたDVDを返却した。ここまですべて塾の友人と一緒だ。中には同じ中学のやつもいて、証言がでている。そうしてまたコンビニによってタムロをし、結局全員と別れ一人になったのは0時近くなのだという。
まるで日本の歴史を言うかのごとくすらすらとそれらの情報を並べる彼女のことを感動すると同時に少し呆れ、間抜けにもぽかんと口を開けたまんま眺め、僕はあんぐりとした表情のままこう答える。
「なんでそんなこと知ってんの?」
普通だったら、それは知っていておかしいような情報だ。
森江が東進に通っているどうこうは別として、ファミレスで小一時間話し続け、二十三時にレンタルビデオ屋により、コンビニにたむろしただとか。まるで、三日前の森江宏樹の行動の一部始終をすべて観察していたようだ。
彼女は飽きもせずにテレビ画面を見つめているマスターの名を呼び、お代りを注文したあとに、さも当たり前のようにしてこう言った。
「おかしい?」
どう考えてもおかしいだろ。それではまるで――
(まるで?)
和泉紗枝が、森江宏樹を殺したかのようではないか。
僕の思考が飛躍してそう言った考えに辿りついたその瞬間、僕は自分の中のとある感情が跳ね上がることを確かに感じた。
森江宏樹の失踪。父親を殺した女の子。彼の動向を知る彼女。殺したのか? 誰が、誰を? 和泉紗枝が、森江宏樹を?
森江宏樹はまだ失踪したというだけで、死んだと決まったわけではない。どこか知らない友達の家に泊りこんでいるだけかもしれないし、噂通り本当に年上の彼女が妊娠をして夜行列車にでも乗り込んで駆け落ちをしたのかもしれない。
でも僕は、目の前にある『もしかしたら』という可能性にどうしようもない期待を持つ。
僕は満を持してそれらの疑問を問おうと拳を握るのだが、僕が言葉を発する前に、彼女は黒い瞳に悪戯は光をたたえてこう答えた。
「やだな。わたし、森江くんのこと殺してなんかないよ。これは、昨日うちに警察の人がきて、その人から聞いたの」
なにか面白いものを見るような表情でそういう彼女に、僕は少々がっかりする。それと同時に、彼女が森江宏樹を殺していないという事実に安心して、代わりに持った疑問を問う。
「警察の人? 来たの?」
「うん。わたしの家、西小の近くだから。森江くんちとも近いの。歩いて二十分くらい」
「へぇ……ていうか、警察の人、そんな重要な話を一般人にべらべらとしゃべるもんなの?」
「しゃべんないよ。警察の人は、そんなこと」
「じゃあ、なんで知ってるんだよ」
「警察手帳。警察の人がトイレに行っている間に、ちょっとだけ見せてもらったの」
僕は、どこまでもふてぶてしい彼女に対して心の中で拍手を送る。警察手帳を盗み見る中学生なんて、日本のどこを探しても彼女以外にいるはずもない。
僕はにやりと口の端をあげて、「よくやるよ」と呟いた。
「ありがとう」
僕と同じような笑いを浮かべた彼女の前に、何杯目かのミルクティーが置かれる。カップの柄が違う――先ほどは白の無地だったが、今度は淵の部分に小さな薔薇の絵があしらってある。
かわいい、と一言呟いて、彼女はそれを持ち上げた。一口その淵に口を付けて、水晶の瞳にあの夜を同じ色の輝きを示す。
「ねぇ、森江くん、生きてると思う?」
「……知らない」
「わたしは、思わない。森江くんはもう、生きてないと思うよ」
そう呟いてうっすらと微笑する、和泉。僕は彼女のその美しい横顔に、ぞくりという鳥肌を立てる。恐怖か、と思う。いや、違う――これは歓喜だ。新しい玩具を見つけた子供のような、新しい遊びを発見した誰かのような。
彼女は、その闇色の瞳を僕に向け、その闇の中に僕の姿を映してこう言った。
「ねぇセイジゲームしようか」
「ゲーム?」
「そう、ゲーム」
彼女はテーブルの上に両手を置くと、ずいと体を動かして僕の顔を覗き込んできた。リップクリームをつけているのだろう、しっとりとした彼女の唇が言葉を紡ぐ。
「どっちが先に森江くんを見つけられるでしょうかゲーム」
僕は、形のいい彼女の唇を見詰めたまま数秒考える。ネーミングセンスのないタイトルだ。いいや、そういう問題でもない。たかだか普通の中学生である僕たちに――例え彼女にはできたとしても――僕に森江を見つけられるとは思わない。
僕は、あまりにも近い彼女の顔から椅子を引いて距離を作ると、「無理だよ」と答える。
「そんなの、少し荷が重いよ」
顔を顰めてそう言う僕に、彼女はとても意外そうな顔をして僕が取った距離をあっさりと縮めてきた。
「セイジならできると思うよ」
「無理だよ」
「できるよ」
「なんで」
「だってセイジって変わってるもん」
そういってフイと視線を反らす、彼女。変わってるも何も、それとこれとは関係ない。僕はもう一度距離を開けて、無理だよと断言する。
何やら納得いかなかったらしい和泉はぷくうとまるで子供のようにして頬を膨らませると、まぁいいやというようにして顔を逸らし、前を向いた。それでいい。僕がいなくても、彼女一人で充分できるんだそんなこと。
それでも彼女はまだいくらか諦め切れていないらしく、薔薇の縁取りのカップを両手で抱えてこういった。
「でもセイジ、もし気が向いたらいつでも来てね」
まぁ、もしも気が向いたらね。
「もし、俺が先に見つけたらどうするのさ」
僕はこのゲームに参戦する気はさらさらないが、ゲームに勝ち負けがあるように勝者には勝者の特権がくれられて当然だ。
彼女はまるで探偵のような仕草で「うーん、そうだな」と暫しの間考えて、思いついたようにしてぽんと手を打った。
「キスしてあげるよ」
いや、それはちょっといらないかも。
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