第四章

第四章 1

 それからまたいつくかの夜を越えて、和泉の鞄に自分でつけたらしいチェーンでぶら下げられたあの派手な猫のぬいぐるみを見つけ、また時々喫茶店「ラ・ブール」でお茶を飲んだり第一図書室でぼんやりと過ごしたりとしているうちに教室の隅に掛けられているカレンダーは一枚捲られて季節は十一月を迎える。期末テストまであと数日となって、受験を間近に控えた中学三年生は慌ただしくも参考やらノートやらを眺め書き写して無駄な知識を無駄に貯めこんでいた。やはりそれは石井健太や桑原亮二も例外ではないらしく、なんだかんだと言いながら教科書が真っ赤になるほどマーカーで書きこんでいた。

 僕はざわざわと浮き足だっているクラスメイト達に紛れるように、まるで影になるかのようにして狭苦しい教室の隅でぼんやりと教科書を眺めていた。冷戦=Cold War。1945~1989。アメリカ合衆国(資本主義・自由主義)とソ連(共産主義・社会主義)の対立構造。直接武力を投じる戦争を伴わなかったため、武力戦争(熱い戦争)に対してこう呼ばれる。ソ連、ではないソビエト連邦。テストでは全部正式名称で書かねばいけない。関連語。ウィンストンチャーチル。英国首相。イデオロギー。

 などという単語を脳内にまき散らしている僕から見ても、和泉紗枝は相も変わらず落ち着いているような様子だった。

「勉強しなくていいの?」

 放課後の、第一図書室で。枕草子の一文を噛み砕く僕の前で頬杖をつく彼女に対して投げかけたその疑問に、当の本人はさも意外そうな顔をして長い睫毛を瞬かせた。

「なんで?」

 それはこっちのセリフだ。僕は赤字の引かれた教科書から視線を上げると、頬杖をついて目の前で首をかしげる彼女と同じような態勢をとる。

「だって、和泉さんてばテストまであと少しだっていうのに全然勉強してないじゃないか」

「してるよ。セイジのほうこそ、他の人に比べて全然余裕しゃきしゃきじゃない。だってセイジ、塾とかいってないんでしょ?」

 和泉紗枝はそう言うと、机の上に置いていた肘を伸ばして体重を背もたれにかけ背中を伸ばした。ぎしり、というのは錆びたパイプ椅子の軋む音。

 僕はシャーペンの芯をかちかちを押して、「そうでもないけど」と呟いた。

「だってセイジ、他の人に比べて全然焦ってもないじゃない。すごくぼんやりしてるし、超マイペース」

「そう見える?」

「見える」

 彼女が細い首を揺らすたび、まっすぐにたらされたストレートヘアーがさらさらと揺れた。サイドの髪の毛が頬に触れるたび、鬱陶しそうに掻き上げる。切ればいいのに。すると彼女は

「だめ。今、願かけてるんだから」

 と言って黒い髪を押さえた。


 そうして時は過ぎていき、僕と彼女も僕らの周りもだんだんそんなに落ち着いた雰囲気ではいられなくなり、テレビをつけたり消したりもして、色々なニュースが僕らの周りを飛び交って、それらを聞いたり聞き流したりしているうちに、期末テストが一週間後に迫ってきたある日のこと。意外な話が飛び込んでくる。



 同級生の森江宏樹が行方不明になったのだという。



 それは突然の話だった。朝、いつものように欠伸をしながら学校に来て、埃ばかりの目立つ下駄箱にスニーカーの爪先を突っ込んだとき、珍しく早く来たらしい石井健太が「おはよう」と言いながら僕の隣に並んだ。そうして、期末テストの話だとかもういい加減朝が寒いだとかそういう話をした後に、石井健太はこう切り出した。

「そういや、知ってるか? 藤崎」

「なにを」

「五組の森江、一昨日の夜から家に帰ってないんだとよ」

「……はぁ?」

 話によるとこういうことだ。

 三日前の夜、地元で有名な進学塾での講習を終えた森江宏樹は同じ塾の仲間と一緒にファーストフードで夕食を取り、そのまま別れ、行方不明となった。

 僕は森江とは一年の時一度だけ同じクラスになっただけで、それほど深い繋がりがあるわけでもないが、石井の方はというと何でも小学校が同じで母親同士も仲がよいらしく、昨日の夜警察が聞きこみに来たことでそれが発覚したのだという。

「ほら。ここ二、三日急に自習になったり先生たちも結構ばたばたしてたじゃん?

テスト前なのになんでだろーとか思ってたんだけど。今、結構物騒じゃん?森江の父さんも母さんも仕事休んでまでして必死で探してるらしいぜ」

 石井は特に悲しげなそぶりを見せることもせず、ただ単にどこか遠いところで起こった噂話をするかのような口調でそう言って、穴の空いた上履きを床の上に放り投げた。


 つい数時間前までは秘密だったその話題も風船よりも口の軽い中学生にかかってしまえばあっという間に広がるもので、時計の針が十二を差して僕らの前に給食のトレーが並べ終わるそのころにはもう、勅使河原市立東中の生徒はほぼ全員がその話題に食いついていて、僕らの話題はその話でもちきりになる。

「受験ノイローゼで失踪したらしいよ」

「この前、塾のテストですげー悪い点とったんだって」

「年上の彼女と駆け落ちしたんだって」

「違う学校の彼女が妊娠したらしいよ」

 噂には背びれ尾ひれがつくものだ――まったく、噂話というものは面白いくらいに飛躍をして膨張するものだ。伝言ゲームもいいとこだ。

 挙句の果てに、五時間目の数学の授業の時にクラスのやつが「森江君が彼女と駆け落ちしたって本当ですか」といって教室全体が大騒ぎになり、先生がパニックに陥って、学年主任が乱入して大混乱になった。大概みんな噂話が大好きだ。男子も女子も、先生だってそうだ。知らぬふりを決め込んでいても、誰もが誰もその真相を知りたがっている。

 あまりにもミーハーな周囲にいい加減うんざりとした僕は、鞄を抱えて混乱する教室を出ていく準備をする。先生だってパニクって泣き出すような状況だ。こんな中、態度の悪い生徒の一人や二人いなくなってもわからないし対して変わらないだろう。

 乱れた隙間を通るとき、傷の付いた机の上に堂々と漫画本を広げている桑原亮二だけ僕の様子に気がついたらしく「藤崎、帰んのー?」と間抜けにも声をかけてきたが、それもざわめく教室の音に掻き消されたということで、無視。

 他の教室はいたって静かで(それでもたまに、廊下側の窓から手足を出しているような奴もいたけれど)僕はひんやりとする廊下の温度を感じながら学生服の詰襟のホックを外す。少しだけスースーするけど、堅苦しいよりまだましだ。冷たい廊下を蹴り上げていると、ズボンのポケットに突っ込んだスマホがぶるぶる震えた。誰だ。こんな時間、僕に連絡をよこすような奴は一人しかいないけど。LINEが来ている。和泉紗枝。やっぱりな。それから表示画面を開いて内容を確認する。



『2時半にラ・ブールに来てください』



 その一文に、僕は苦笑する。まったく、あの殺人少女も同じようなことを考えてるらしい。二時半だとか言って、普通だったら授業中だ。この不良優等生め。

 僕は口の端がにんまりと上がっていることを自覚しながら、画面を閉じてズボンのポケットにそれを突っ込む。行方不明の同級生と、父親を殺した殺人少女。面白い。あんなざわついた教室でごちるよりも、よっぽど有意義な時間が過ごせるだろう。

 僕はにやつきを押さえられない口元を押さえ、冷たい廊下の先を急ぐ。

 すり減った靴の底を蹴り上げた。

   

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