第三章 9

 安いハンバーガーで空腹を満たした僕たちは、そのあとゲーセンにより華やかなショッピングモールに寄って空いた時間で歩き回った。

 僕は、あの夢の国のネズミだとか熊だとか女の子の好きそうなぬいぐるみのたくさん入ったクレーンゲームを食いつくように見ていた和泉に「こういうのが好きなの?」と聞いてみた。すると和泉は「そんなに好きっていうわけゃないけど」と眉を寄せた。

「私、ゲーセンてあんまり来たことないの。セイジってこういうとこ、よく来るの?」

 と上目使いで僕を見る彼女。僕だって、そんなにしょっちゅうくるわけではないが、一年二年のときはクラスメイトに連れられて五百円くらいは擦っていた。

 僕はクレーンゲームの投入口にコインをひとつ突っ込んで赤いプラスチックのボタンを押す。

「どれがいい?」

「あれ。あの、隅っこの」

 違うよ、それ、その隣の。そうそう、それ。

 などという複雑なやり取りを繰り返しながら、彼女がこれと選んだのは白くてピンクのリボンをつけた、睫毛ばしばしの猫の女の子のぬいぐるみだった。クラスの女子がこれと同じ猫のストラップを携帯が垂れさがるほど付けていた記憶がある。

一回目のコインでは、クレーンの先がうまく頭の部分にかからなくてあっけなく落下した。二回目のコインでは、ちょうどよく首輪の部分にかかったのだが頭の重さに耐えられずに投入口付近で頭から落ちた。三回目のコインでうまい具合にひっかかったその猫は、どこでどうなったのか足の辺りに隣の猫のチェーンの部分をひっ付けてぐらりぐらりと浮き上がった。今にも落ちそうなくらいにアンバランスな様子で投入口まで移動して、そのままぽとんと外の世界まで舞い降りた。

 取り出してみると、ますますケバイ猫だな、と思う。目だって少々大きすぎるし、少し間違えれば厚化粧を施しすぎた中年女のようでもある。僕はその二匹の猫を見比べて、彼女がほしいといった方の猫を彼女の腕に押し付けた。

「はい」

 彼女はなぜか驚いたような拍子抜けをしたような顔で僕のことをじっと見ていて、押しつけられた派手な猫と僕の顔を何度も何度も見比べていた。

「なんだよ」

「セイジって案外器用な人なんだね」

 僕はその言葉の意味が分からずに眉を寄せて聞き返す。

「俺、不器用そうに見える?」

「違うよ。なんか、セイジとゲーセンてミスマッチな感じがする」

 彼女は派手な猫のぬいぐるみを両手で抱えたまんま「ありがとう」と目元を下げて小首を傾げた。それから、僕の手の中にあるもう一匹の猫を見て「それはどうするのか」と聞いてきた。当たり前の疑問だろう。例えばこれが彼女の友人の河内麻利なら別だけど、僕のようなもうすぐ高校生にもなる中三の男子がこんなもの抱えてどうするのか、彼女でなくても気になるものだ。

 僕はその猫のでっかくて青い目を見て、少しだけ考えて答えを出す。

「あ――……どうしよう……。妹にでもあげようか」

 千尋はまだ幼稚園児だから、妹の広くて狭い部屋にはわけのわからないお姫様の人形だとか洋服だとか、派手な配色のぬいぐるみだとかばらばらと散らばっている。そう言えば、部屋の隅にあるおもちゃ箱の中にこの猫と同じ柄のボールだか何だかが押し込められていたはずだ。

「妹?」

 僕が何気なく呟いたその言葉に、彼女が以外な反応を示した。

「セイジ、妹いるの?」

 うん、と頷く僕の顔を、和泉紗枝がまたしても意外そうな表情で見上げてきた。

 彼女は猫のぬいぐるみを両手で抱えて持ったまま、興味深そうに顔を傾けて状況の読めない僕のことを見つめている。

「なに?」

「ううん。セイジって、あんまり妹がいるように見えないから」

「そうかな?」

「そうだよ」

 じゃあ、妹がいそうな奴ってどんな奴なんだと聞き返すと、彼女は、また困ったような顔で首をひねった。

「じゃあ、セイジって四人家族?」

 お父さんと、お母さんと。セイジと妹さんで、と意味もなく指を折り、人数を数える和泉紗枝。そんな、小さな子供のようなことなどしなくても、君ほど精密な脳みそがあるのならばこんな計算0,1秒でできるだろうに。

 僕は、まるで幼稚園児のように両手を握る彼女に対しそういう感情を抱くのだが、余計なことはあえて言わずに「そうだよ」と短く返す。

「でも、実際は三人家族みたいな感じだよ」

 僕のその言葉に、和泉紗枝が長い睫毛を瞬かせる。くるりくるりと細い首を傾げてから、どこか小さな子供のような口調でこう返す。

「お父さん、仕事忙しいの?」

「違うよ。父さん、今単身赴任してるんだ。もう半年くらい会ってないし、次年末に帰ってくるかどうかもちょっと怪しい」

 ケバイ化粧の猫を抱えたまま、僕はひょいと肩を竦めた。

「母さんも母さんで、高校の教師やってるから。試験の準備だなんだって最近じゃあ家にいないことだって結構多いし。四人家族、っていっても実際は妹と二人でいることの方が多いかもしれない」

 実際それは事実だった。

 今日だってたまたま母さんが家にいて、千尋の面倒をする役がいるから僕だって今ここでこうしてクレーンゲームなんてことができるわけだし、父さんだって今年の春に一度帰ってきて三日程度で東京の赴任先へ帰って行った。夏休みに帰る帰らないという話も出ていたことが出ていたのだが、結局それも話だけで終わってしまった。

 千尋がもう少し大きくなったら僕の行動範囲も広がるのだろうが、物事の良否もよくわからないような幼稚園児をたった一人で家に残すことなんて、流石の僕もできやしない。家に帰ったら家が燃えてなくなっていただとか、そんなのごめんだ。

和泉は長い睫毛の奥から僕の表情を伺うようにして見上げると、「ごめん」と鈴の鳴るような声で呟いた。

 なんで謝るんだよ、と僕は言った。



 小さい頃は男女関係なく団体で色々な所を遊びまわったものだけど、僕たちが思春期を迎えるころにはそういうこともなくなって、同世代の女の子とこうやってどこかの町を探索するというのは正直僕にとって初めての経験だった。僕は土地感の全くない小宮市のショッピングモールを彼女に手を引かれるままに付き合わされて振り回された。

 店先にあるワンピースが可愛いといってはその店に入り試着をして、買うようなお金もないくせに年齢に合わないような化粧品やら宝石やらを見て回った。

 彼女は、本屋に置いてある中高生向けの女の子の雑誌を指さしながら僕に顔を向けてこう言った。

「ねぇねぇ、セイジって何月生まれ?」

「三月」

「三月、ってことは牡羊座?」

「違う、魚座」

「じゃあ、私の方が年上だね。わたし、六月生まれ」

 彼女はそう言って、その煌びやかな雑誌の表紙をぺらぺらと捲った。彼女の後ろからその内容を覗き見ると、「星座占いの館」と、ハートだとか星だとかが散らばったごちゃごちゃとしたページに女の子が好きそうな単語がばらばらと並んでいて、僕はうんざりとする。女の子はどうしてこうも、占いだとかなんとか判断だとか胡散くさいものが好きなのだろう。

 眉と眉の間に皺をよせて、熱心にそのページを見ている和泉の表情を盗み見る。和泉は、隣でうんざりとしている僕のことなど眼中にもないというようにして女の子の世界に浸っていた。



 十月も下旬近くになるともういい加減日が暮れるのも早くなる。十七時のチャイムが鳴る頃に下りの電車に乗り込んで、太陽と月が交差する直前に勅使河原駅の改札に出た。

 朝方よりも少しだけ膨れた鞄を抱えた彼女は、ビルに隠れた太陽に背を向けてこういった。

「今日はありがとう」

 楽しかったよ。と、鞄の間から顔を出した派手なぬいぐるみの頭をぐりぐりと撫でた。

 気に入ってくれてるらしい。和泉だったらきっと、大事にしてくれるのだろう。僕の妹の手に渡るであろうこのケバイ化粧の猫は、二、三日もすればすぐにジュースやお菓子のシミにまみれるのであろうが。

「どういたしまして。もう、そろそろ暗くなるから。気を付けて帰りなよ」

「大丈夫だよ。気をつけなきゃいけないのは、セイジの方」

 そうかもしれない。学校一の美少女とこんな風に親しくしている所を見られたら、夜道で後ろを襲われてもおかしくなんか全然ないんだ。

 でも僕は、何事もないように「大丈夫でしょ」と右手をひらひらと平つかせた。

「それだったら、和泉さんの方が相当危ないよ」

 ここでまた苦笑――笑えない冗談だ、と自分でも思う。いや、あながち冗談でもないのかもしれないが。

 そうかもしれないね、と彼女はやんわりと笑った。

「気を付けて」

「うん」

 もう、分かれるだろうというその瞬間に、和泉は黒い瞳に悪戯な光を湛えたまま僕の目を覗き込んできた。

「あのね、セイジ」

 星の瞬きが浮かぶ彼女の瞳をじっと見て、僕は「なに」というように視線だけで返事を返す。すると彼女は、ふっと小さな子どものような笑いを浮かべると、内緒話をするようにして僕の耳元に口を寄せた。


――魚座と蟹座って、相性八十%以上なんだって。


 彼女が発したその言葉の意味を、僕自身が理解をするその前に。

 和泉紗枝は「ばいばい」と言ってブーツの踵をくるりと返し、スカートの裾をひらりと靡かせた。

 僕は、鞄の中から顔を出した猫のぬいぐるみと、風のような速さで去っていく彼女の長くて黒い髪を見つめながら、日曜日の、ゆるい空気の漂う駅の前で一人ぼんやりと佇んでいた。

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