第三章 7
僕は和泉紗枝に連れられるがままに小宮駅の南口改札を出て、高いビルの間を抜けて、きらびやかな建物の裏を通り、薄汚い犬の漁るごみ箱の隣を歩いた。
小宮駅は県内でも大分垢抜けた場所で、新幹線や在来線が複雑に交差する交通機関の要所となっているということで大規模な映画館はあるしキラキラと光るショッピングセンターだって軒並み連なっているはずのなのだけれど、僕の前を行く彼女はそんな華やかさとはおよそ無縁のような、ホームレスや野良猫の戯れるような薄汚い淀んだ空気の居場所を求めて歩き続けた。彼女の細い足ががざがさと俗っぽい雑誌の端きれを踏みつけて、皺を作る。その音に驚いた黒い猫が短く太い尻尾をふるわせ、コンクリートの奥へ走り抜けて消えていった。
細いビルの間を歩いて二十分、三十分ほどか。ブーツの先を止めた彼女が「ここだよ」をいって指したのは、いつ潰れてもおかしくもないような、まるで昭和の映画に出てくるような小さな小さな映画館だった。店先には雨に打たれて風に吹かれてぼろぼろになった映画館の看板が取り付けられていて、その看板だって元の場所よりも十五度斜め右に傾いていた。
店の先では化粧の厚い三十代くらいの女の人が女性向けの雑誌を読んでいて、和泉が「中学生二人」というと、きつく睫毛の付けられた目元を揺らし、何も言わずに紙切れを二枚差し出した。
外観だけだはなくて、館内も十分狭かった。薄暗い店内には僕たちも含めて五人の観客しか存在していなくて、席の数もそれほどないはずなのに幅を取れるスペースは充分あった。観客は僕達二人と、平日なのに上等そうなスーツをぱりっと纏った中年の男。大きく胸の開いた赤い服を着た三代くらいの女の人。目も見えなさそうなくらいに瞼の垂れ下った腰の曲がったおじいさん。
予想通り、映画の内容はそれほど大したようなものではなかった。
ある所に、ある兄妹が父親と母親と四人で暮らしていたのだが、ある日その父親が何者かに車で跳ねられて死亡する。そのうち母親が会社の同僚である男と結婚し義父ができるのだが、その義父が実はとんでもなく乱暴な男で、母親にDVを繰り返し、兄に煙草の火を押し付けて、挙句の果てに妹に強姦を施そうとしたことから、兄による復讐劇が始まるというようなストーリーだ。
ついでにいうと、兄弟の父親を殺したのはその義理の父親であり、義理の父の目当てはその実父の生命保険。復讐の鬼になった兄がその義理父を刺し殺し、そんな相手と結婚をした母親も刺し殺して、炎の燃えたかる家の中で兄も自分自身の心臓を突き刺して一家心中のような形でラストを迎える。じゃあ妹はどうなったのかというと、唯一兄の加護を受けていた妹は殺されることを免れて、最後のエンディング近くで一人どこぞの丘の上から燃え盛る炎を見つめている――
好きな人は好きなのかもしれないが、流行の俳優がでているわけでもないし、ストーリー自体も稚拙なものだった。演技だってまるでどこぞの学校の演劇部に少し毛の生えただけのようなちんけなものだったし、セリフひとつとっても、まだ千尋の見ているアニメ声優の方がうまくやっているというような感じだ。面白みに欠ける。途中、展開が見えてきた僕が隣に座っているはずの彼女の顔を盗み見ると、女の子がラブストーリーを見るような瞳で食い言ってスクリーン画面を見つめていた。手元にあるポップコーンは半分ほども減っていない。
おいおいおい、そんな夢見る乙女のような目をしていても。見ているのは、血糊の飛び交うC級映画なんだから。まったく、たまったもんじゃない。
狭いスクリーンの画面いっぱいに脂ぎった父親の顔が映り、台本に書いてある言葉をそのまま叫んでいる。僕は、父親や兄や妹の言葉をBGMにしながらゆっくりと船を漕ぎ出して、夢の世界へ飛び立つ。夢の世界なら、こんな安い映画よりももう少しマシな物語が見れそうだ。
映画館の温度がちょうどいいくらいに暖かくて、薄暗くて、色んなことを抱えた僕にとってはちょうどよい催眠効果を齎してくれている。久しぶりの映画館。久しぶりの薄暗い場所。自分の頭が傾いていくことを自覚しながら、僕は重い瞼を下ろした。
頭の中が湯たんぽのように暖かくなり、僕の意識がずぶずぶと沈んでいく。羽毛布団にくるまれているような感覚に包まれて、僕は不思議な夢を見る。
僕はいつものように夜の街を走っていた。夢の中の僕は手も足も小さくて、小学生くらいの小さな子供の姿。短い手足を振り回し、それでもなぜか呼吸も心拍も激しくならないままで走り続け、僕はひとつの家の前に辿りつく。目の前にあるはずの大きな家は決して僕の家ではなくて、それどころか今まで見たこともないくらいに大きくてどこかのお屋敷みたいな家なのに、夢の中の僕は躊躇することなくその家の中へ入っていく。その家の内側は、まるで外の夜がずっと中まで続いているんじゃないかというくらいに真っ暗で静かだった。テレビや机などの家具もないし、人っこ一人見当たらない。小さな僕は声を張り上げて探すのだが、返事は一切返ってこない。沢山ある扉をひとつひとつ開けては閉めて頼れる人を探すのだが、僕以外の人の影は残念ながら見当たらない。蝋燭のひとつもないのだろうかと探してみるのだが、生憎ながらそんなものがあるわけもない。ひとりでいるのもいい加減辛くなって、僕は大声で喚きだす。そのまま、暗い暗い夜の家で泣き叫んでいると、誰かが僕の名前を呼んだ。その声は間違いなく聞いたことのない声なのに、夢の中の僕はなぜかその声の主を知っていて、頼れる誰かが来たことに僕はひどく安心する。泣きやむ僕の前にその人物が現れて、人間の掌が差しだされる。顔を見ようと見上げるのだが、その人物は背が高すぎるのと部屋全体が暗いのでよく見えない。僕は、その手を取ることをほんの少し躊躇する。どうしようかと迷っていると、その人物がもう一度僕の名前を呼んだ。
「青児」
僕は闇の底から響くようなその声に、一瞬びくんと全身を跳ねあがらせて、もう一度差し伸べられたその掌と目の前に佇む誰かの顔を見上げてみる。顔が見えない。表情が分からない。
僕はその指先に触れる瞬間で手を止めて、それからまた表情の見えない相手の顔を見上げてから、差し伸べられたその手の中に小さな僕の掌を収める。暖かくもないし冷たくもない。温度は一切感じない。僕は手をその人物に握られたまま、その暗い家を後にする。 どこへいくの? と、僕は聞く。その手の主は僕の方へは目もくれず、暗い暗い闇の底を見つめたまま呟くように「わからない」と答えた。僕はその返答になんの疑問も戸惑いさえも感じぬままに、引かれるままに歩きだした。
どこへ行くともわからない、誰も知らないその方向へ。
「―ジ、セイジ」
名前を呼ばれ、僕は、記憶の渦から這い出すようにして、目を開いた。
鉛が乗ったように重い僕の目を、整った顔の同世代の女の子が覗いてくる。彼女は長い睫毛を上下させながら、僕のパーカーの袖をちょいちょいと引っ張っていた。
「映画終わったよ。起きて」
「ん……」
僕は、ぼんやりと霧掛かったような瞼をごしごしと擦り、ぼんやりとした頭の中で現実の再認識を行う。
寝てた? 寝てた。寝る直前までの記憶は、ちゃんとある。夢、見てた? 見ていたような気もするが、内容はよく覚えていない。きつく目を閉じて正面を見ると、広いスクリーン画面には穏やかな曲とともにキャストスクロールが流れている。映画は終わった――どれくらい寝てた?
「寝るのはいいけど、セイジってば寄りかかってくるんだもん」
びっくりしちゃった、と全く驚いていないような表情で言う、彼女。僕はいまだ冷めきっていない目をしょぼしょぼとさせて、呟くように「ごめん」と答える。
彼女は、まるで母親のようにして「もう」というと、隣の座席に置いてあった可愛らしい鞄を手に取った。
「ほら、起きて。もう、出よう」
「ん……」
ごしごしと子供のように目を擦る僕の腕を、彼女がひっ掴んで持ち上げた。僕も緩慢な動作で腰をあげて、立ち上がる。
お腹空いたー、などと言いながら先を行く彼女のあとについて、僕も鞄を持ち上げた。
映画のエンディングが終わると同時に劇場全体の照明がついて、周囲の様子が露わになる。
赤い服の女と、スーツ姿の男はもう劇場にはいなかった。瞼の垂れた老人だけが、何も映っていないスクリーン画面に目(といっても、瞼で隠れてよく見えなかったが)を向けていた。
――何を見ているのだろうか。
まだ冷めきっていない脳みその中でそういった疑問を浮かせるのだか、僕の名を呼ぶ彼女の声にせかされて、スニーカーの底を急がせた。
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