第三章 6
僕らが暮らす勅使河原市は埼玉県の端の端の方にあって、電車に揺られて三十分も下ればすぐに群馬やら茨城やらに行けるような田舎町だ。
中学は田圃の真中に立っているし、大きなスーパーだって駅の近くに二つしかない。現代社会の財産であるコンビニエンスストアだって、いつ潰れても可笑しくないほどすかすかの状態だったし、商店街に並ぶ飲食店はいつだって閑古鳥を啼かせていた。勿論、映画館なんて洒落たものはなかったし、映画を見に行くのならわざわざ電車に乗って三十分揺られ移動して、きらきらと輝くネオンの光る小宮市に行かねばならなかった。
次の日曜日、和泉から「これ」といって例の映画のチケットを押し付けられた僕は、勅使河原駅の階段前に佇んでいた。
時計を見ると朝の八時半。流石に十月の下旬ともなると朝の気温も下がってきていて、僕は息を吐きながら黄色いパーカーをすかすかとする首元に寄せる。
日曜日の朝というのは、非常に静かだ。普段は賑わっているはずの駅も、休日くらいはゆっくりと休みたいということか。いつもはデンデンデンと連なっているタクシーでさえも今は一つしか並んでいなく、閉められた車内では初老の運転手が座席を落とし、煙草を吸いながら転寝をしている。普段濁りきっているはずの空気だって、朝だからという理由か、それとも人間が二酸化炭素を吐き出していないからというからか。いつもよりも、大分空気が澄んでいるような気さえする。
一時間に一本あるかないかというバス停に一台のワゴンが止まったと思ったら、青いスポーツバックを背負った高校生がおにぎりを片手に飛び出した。まるで台風のような勢いで僕の方向へ走って来たと思ったら、そのままの勢いで低い階段を三段抜かしで駆け上がって行った。
僕はその高校生の姿が消えるまで眺めて、目線を逸らし、ポケットの中から彼女に押し付けられた映画の割引き券を取り出した。
「赤い運命」――これがその映画のタイトルだ。
前回彼女がみたいといってきた映画は、さすがにいつの間にか上映期間が過ぎてしまっていたらしく、新しく彼女が探してきた。前回は洋画だったが、今回は邦画の、またよくわからない趣旨の代物だった。あらすじを見る限り、ホラー映画ではないらしい。だからと言って、腹を抱えて笑うような代物ではないし、甘い砂糖菓子のようなラブストーリーではないだろう。ミステリ、か、サスペンスにも近いようだ。雑誌に載っていた有名人の批評によると。だからと言って、あまり人前に出るほどメジャーなものではないし、最近流行りの俳優たちが出演しているというわけでもない。マイナーだ。B級、C級もいいところだ。だからこそ、彼女は僕なんて人間を誘ったのだろうが。
僕はその薄い紙きれをしばらくの間眺めて、それをまたポケットにしまいこむ。結構寒い。ポケットに手を突っこんだまま肩をあげて、高い場所に付けられた時計を見上げる。
和泉紗枝はまだこない。八時半に駅前に来いといったのは彼女の方だ。時計の針は、もう九時近くを指している。
新たに時間にルーズな面を見せた殺人少女に多少のいらだちを覚えた僕は、催促の電話の一本でもかけてやろうかとセピア色のスマートフォンを取り出してパスワードを解除する。登録者検索。和泉紗枝。三プッシュで彼女の名前を弾き出し、発信する。
トゥルルル…… トゥルルル……
和泉紗枝はまだ出ない。もう家を出てるのか? 今、こちらへ向かっているのだろうか。
五回目の音で「はい」という女の子の声が聞こえた。和泉だ。
「もしもし? 和泉さん? 今、一体どこに――」
「あれぇ、藤崎じゃん」
いらだちを抑えきれなくて思わず声を荒げた僕の鼓膜に飛び込んできたのは、電話の奥にいる女の子の声ではなくて、毎日毎日鬱陶しいほど聞いている、クラスメイトの声だった。
思わぬ呼名に目を開いてパーカーに巻かれた首を左に回す。真っ黒に日焼けした顔と、いかにもという感じの短すぎる黒い髪。サッカー馬鹿の桑原亮二だ。
桑原は、「勅使河原中サッカー部」とロゴの入った青いジャージに身を包み、でかいスポーツバックを抱えて僕の眼の前に立っていた。
思わぬ相手との遭遇に、僕は思わずスマホから耳を放し、眉を寄せて顔を顰める。
「おーっす。偶然じゃん。どうしたのー?」
何も考えていないような顔で、厭味ったらしいほど朗らかに僕の肩を叩いてくる桑原。僕は、電波の向こうから聞こえてくる彼女の声を振り切って、通話を切る。 本当に偶然だ。神様のいたずらもいいところだ。
僕は無意識のうちに顔が歪むのを自覚しながら「おはよ」と返す。
「友達と映画見に行くんだ」
「映画? いーなー。俺、これから強化練習会いってくるんだ」
「強化練習会?」
「そう。全国から、すげーサッカーのうまいやつが集まって練習すんの」
僕は、その屈託のない笑顔に呆れると同時に怒りにも似たいらだちを覚える。
桑原亮二は頭が悪い。ほとんど筋肉でできているようなこいつの頭の中は、サッカーとサッカーと食欲でできていて、先日のテストの成績だって散々なものだったはずだ。それこそ、一日の授業が終わり部活の前に呼びとめられて、うちの担任に職員室で小一時間説教を受けるほどに。
夏休み前の三者面談が一番長引いたのも桑原だし、桑原が長引いたせいでとばっちりと食らったのも僕だ。
期末テストはもう、二週間後に迫っている。私立高校の受験だって早いところは十二月の半ばに始まってしまうのに。この、全身サッカー男は一体いつ勉強をしているのだろうか。
「桑原って、高校でもサッカーやるの?」
「やるよ」
素朴な疑問に、桑原はさも当たり前というようにして胸を張った。
「だって俺、お前みたいに頭良くねーし。俺からサッカー取ったら何も残んねーもん」
と、口を尖らせるクラスメイトを前にして、僕は少しばかり感心する。
いくら全身が筋肉でできていると言っても、少しくらいは自分自身のことをわかっているらしい。ほんの、数百分の一くらいは。
「藤崎はどこの高校行くの?」
「東高。受かるかわかんないけど」
「東? あそこ、人気あるみたいだよな。宇津木も受けるって言ってたし」
宇津木か。あいつもまた、阿保な癖にプライドだけが妙に高くて、二つだか三つだか塾をかけもちしているだとか聞いたことがある。
強敵だな、と、心にもないようなことを言う、僕。すると、桑原はどこか驚いたような表情をして、それからカラカラと太陽のように明るく笑った。
「何言ってんだよ。藤崎だったら受かるよ。どこだって」
級友のその言葉に、僕は少しばかり首を傾けて口の端を上げる。どうかな、と呟いて。
それから桑原は、腕に付けていた安っぽい時計の針に驚いて、「じゃあな」と言ってばたばたと階段を駆け上がって行った。途中で一度振り返り、まるでゴールを決めたサッカー選手のようなポーズを取り笑いを誘う。馬鹿だ。なにしてるんだあいつは。
遠くなる青いジャージを見送って、再び眠りこけたタクシー運転手の方へ顔を向ける。
「あ」
顔を向けると、その怠惰なタクシーの前には近頃の女の子らしい服装に身を包んだ和泉紗枝がどこか驚いたような表情で佇んでいた。
遅いよ、と僕が言うと、彼女は気がついたようにしてぱたぱたと数歩近づいてきた。
「ごめん。遅くなっちゃった」
「八時半に来いって言ったのは和泉さんじゃん」
「ごめんってば。だって、セイジがあんまり楽しそうに話してるから」
彼女はそう言って悪戯な笑みを浮かべ、歯を見せた。
楽しそう?
「見てたの?」
「うん。練習がどうのこうのいってる辺りから」
彼女の返答に僕はため息を吐く。そんなに早く来てたのなら、声を掛けてくれればいいものを。
うんざりと眉の間に皺を寄せる僕に、和泉は肩を竦めて「ごめんっていってるじゃん」と口を尖らせた。
そんな子供のような表情を浮かべる彼女に対し、僕はこれ以上彼女のことを咎める気もなくなり、ポケットに手を突っこんだまま踵を返してゆっくりと薄汚い階段を上がっていく。彼女は、ぱたぱたと軽くブーツの音を響かせながら僕の跡をついてきた。
「あの人、セイジのクラスの人だよね」
友達なの? と、どこか面白そうな瞳で聞いてくる彼女。僕は視線だけで彼女の表情を盗み見て、少しだけ考える。こんなこと、考える必要もないと思うけど。
「友達なの?」
二度目の彼女のその質問に、僕は「違うと思う」と短く答えた。僕のその素っ気ない答えに対し、彼女はただ「ふぅん」というどうでもいような言葉を発した。
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