第三章 3

 どこまでもついてこようとする彼女と別れて、帰宅をする。空を見上げるともう点々とお星様が輝き始めていて、夜の道へ出られないことを残念に感じる。雨が降った後の夜空は、とても綺麗に見えるのに。

 いつもは固く閉まっているはずの扉に鍵を突っ込むと、なぜかがちゃんという音を立ててロックされてしまった。不思議に思い反対側にひねり返すと、普段は見慣れないはずの靴が一足置いてあった。婦人用の、クリーム色の靴。母さんのものだ。

 今日は早いな、なんでだろうと思い、冷たい床に靴下の裏を這わせた。リビングからは母さんの声と、蛍光灯の光が漏れている。テレビの音は聞こえない。母さんは、アニメやバラエティ番組といった俗っぽいものが嫌いだから。この時間はニュースはほとんどやっていない。今日は見たいアニメがあったはずなのに、千尋はむくれながら人形遊びでもしているのだろうか。

 そんなことを考えながら廊下を歩くと、母さんの声がだんだんと大きくなり、話している内容もわかってくる。独り言でもなく千尋と話しているというわけでもなく、スマホで誰かと話しているらしい。

「……で……じゃ……でしょ? ……の? 本気なの? それじゃあ、私や千尋はどうなるのよ!」

――父さんと話してるのか?

 僕がそういった考えを起こしたところで、母は僕が帰宅したことに気がついたらしい。まるで般若のような怒りに満ちた表情を僕に見せて、そのまま急いで通話を切りスマホを後ろ手に隠した。意味もないのに。

「……え、と」

 母は、なんといったらいいのか分からないというようにしておろおろと口を隠し、きょろきょろとあたりを見回した。それから、できるだけ何事もなかったようにして

「お帰り、お兄ちゃん」

 と、張り付いた笑顔を作った。ばればれだよ。

 母さんは学校から帰宅した格好のまま冷や汗を垂らしていた。今の会話が聞かれたことを、とてもとても焦っているのだろう。

 どうするべきか。ここで、あの会話の内容を問いただすべきか。それとも、何事もなかったかのようにしてこの場を取り繕うか。

 数秒悩み、親孝行な僕は後者を選択する。

「ただいま」

 そう言って、何事もなかったことにして鞄を床に下ろした。

「今日早かったね。仕事、早く片付いたの?」

 母さんは、僕の臨機応変な態度にほんの少し戸惑ったようなそぶりを見せていたが、すぐにそれを受け入れたようだ。そうなの、と声を弾ませた。

「期末テストがやっと作り終わってね。少しだけ時間ができたのよ。すぐにまた、忙しくなるけどね」

「へぇ。よかったじゃん」

「それでね、お兄ちゃんにお願いがあって」

 僕は少し眉を寄せる。

「なに?」

「これから、学校の先生たちとごはん食べてこようと思って。ちいちゃんは今、お部屋でおねんねしてるから。起きたらごはん食べさせておいてね」

 母の言葉に僕は一瞬かちんとして――それから、諦めにもよく似た感情を抱き、呆れ半分にため息をついた。

「うん。わかった。夕食、用意してある?」

「うどんでもなんでもあるからね。カップラーメンだって用意してあるから。出前でもなんでもとりなさい」

 母さんは早口でそう言うと、手元にあった小さなカバンを手に取って足早にその場を去って行った。 ばたん、という玄関の戸の閉まる音で、家の一部分がぐらぐらと揺れたような気がした。

 僕の耳の奥に、母さんの楽しげな足音が残されているような気がして、思わず頭をかきむしる。

(なんか)

 いつものことなんだけど。

(ああいう風に、さも当たり前のようにやられると)

 すごく、いらいらする。 

 床に置いた鞄を手に取り、思わず投げつけてやろうと振りかぶると、後ろの方から「おにいちゃん」という声が聞こえてきた。千尋だ。

 僕はカバンを床に下ろし、千尋に向き直る。

 千尋は相変わらず耳の折れた兎を抱えたまま、半分ほど落ちた瞼をごしごしと擦っていた。

「おかあさんは? どこいったの?」

 半分夢見心地の状態でそう言って、きょろきょろと部屋を見渡す。

「急なお仕事が入ったんだって」

『急な仕事』そう言えば聞こえがいいものだが。仲間との付き合いも、仕事を円滑に遅らせるという意味合いでは仕事と言えば仕事なのだろう。

 千尋は、「ええー」とものすごく残念そうな顔をして、ハムスターのように頬を膨らませた。

「千尋、幼稚園から帰ってきてから、ずっと寝てたのか」

「ううん、ちがうよ。マリーちゃんみてたらおかあさんがかえってきてね。ベッドでごほんよんでもらったの」

 マリーちゃんというのは、十七時半くらいから始まる幼女向けの変身アニメのことだ。

 小さな妹は、母がまた出て行ってしまったことは不服なようだが絵本を読んで添い寝をしてもらったことには満足しているようだ。よかったな。そういって頭を撫でてやると、妹はえへへと笑った。



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