第三章 2
少年法。
少年とは元来心身の未成熟な男女のことを指す言葉だが、日本の法制化で少年というときは二十歳未満のものを指す。
少年犯罪に関わる中核的な法律は少年法であり、これは昭和二十三年当時の政府内閣が「少年の健全育成」を理念として制定したものだ。
犯罪を起こした少年少女は、成人の起こした犯罪とは違い基本的に刑事制裁を受けることはない。罪を起こした少年たちは保護観察処分を受け児童福祉支援施設に送られ、一般刑罰に比べ教育的、福祉的に対処される。というのも、それは二十歳以下の少年少女に物事の善し悪しを判断する能力がないからというわけではない。その一つが、少年は人間としてはまだ経験も人間としての能力も未熟だということだ。社会経験が不十分なために犯罪に走ってしまうことがある、だからこそ色々な試練を与え一人前の人間に育てなければいけないということ。二つ目が少年の場合は人間的に未完成な反面、その分可塑性に富むということで教育の効果が期待できるということだ。柔らかいものを叩けば変形し、どんな形にすることもできる。
少年犯罪が起こった場合、最も適応されるのが保護観察処分。これは、通常の社会生活を送らせながらなおかつ監視の目を光らせて、指導や監督をするものだ。家庭裁判所が検察官へ逆送――家庭裁判所が検察官に事件を逆送致することにより刑事処分相当と認めたということにもなる。先に触れた通り少年には刑罰を科さないことが原則だが、ここ数年の凶悪な少年犯罪の増加によってそれも多少異なっては来ている。
いつだったか、鹿児島市でバスジャック事件を起こした十六歳の少年は持っていたナイフで女性を三人突き刺して一人を死に至らしめた。
近所にいた野良猫の舌を掻き切ってクッキーの箱の中に集めていた十五歳の少年がデパートのおもちゃ売り場で遊んでいた男の子を誘拐して首を絞めて公園に埋めた。
都内に住む十九歳の少年(青年?)がフられた腹いせに大学の屋上から元恋人の少女を突き落とした。この事件では確か少年は自首をしてきたはずなのだが、裁判中に首を吊って自殺をしたはずだ。
僕は、連日テレビとマスメディア・コミュニケーションを騒がせるあの事件の犯人を思い出す。ベッドの上で寝ているはずの父親の腹を刺したのは、十六歳の女の子だ。
少年の場合死刑になることはまずないが、その内容と程度によって刑罰が科せられることもあるという。十数年ほど前にどこぞの地方で凄惨な事件を起こした十四歳の少年は保護観察処分ですんだらしいが、あの事件を皮切りにして少年法の改正の声が上がっている。
これらはすべて犯人がひとりで犯罪に走った場合の事例だが、例えばこれが『共犯者』の場合だとどうなるのだろうか。次のページをめくろうと指を動かした瞬間に、開ける者などいないはずの扉ががらりという音を立てて開かれる。びくりと肩を跳ね上げて後ろを振り向くと、怪訝な表情をした和泉紗枝がカバンを持って佇んでいた。
間抜けな表情を浮かべた僕とすっとんきょんな表情を浮かべた和泉が意味もなく数秒間見つめ合い、最初の一言を発したのは僕だった。
「なんだ」
ほっとしたような声を出し、肩を撫でおろす。
「和泉さんか。あんまり驚かないでよ」
僕は開いていた本の表紙をぱたんと閉じて、机の上にかけていたすべての体重を背中にかけた。傷だらけのパイプ椅子がぎしりと鳴った。
和泉紗枝は、はっ、という風に長い睫毛を瞬かせると、「ごめん」といって図書室の扉を後ろ手で閉めた。それから、ぱたぱたと小走りで窓際に座っている僕の所にやってきて、前の席の椅子を引いた。
「なに?」
「セイジのクラスの人に聞いたらここにいるって。驚かせてごめん」
彼女は持っていた鞄を下ろし頬杖をついた。
「でも、セイジだって悪いんだよ。北校舎の図書室なんて、こんな気味の悪いところくる人なんているわけないんだから」
僕たちが今向いあって話している場所というのは、北校舎四階の端にある第一図書室。今はもう、ほとんど誰にも使われていない。と、いうのも、南校舎二階にここよりももっと広くて明るくて本がたくさんある第二図書室が設備されているからだ。
第一図書室は薄暗く、狭くて、薄汚い昔の本や中学生にはあまり縁のなさそうな小難し本ばかりが並んでいる。平たく言えば雑書倉庫。一応、月に一度か週に一度か図書委員だか生徒会だかが掃除をしているらしいのだが、こんなとこ、受験まっただ中の三年でも滅多なことではきたりはしない。勉強をするのなら塾でもどこでももっと居心地のいい場所でやるだろう。
「だからいいんじゃん」
「薄暗いから? セイジって狭くて暗い所が好きなの?」
「違う。人が来ないから」
僕の言葉に、和泉紗枝が笑う。まったく、僕はこの子に笑われてばかりいる。 けたけたという笑い声をあげていた彼女は、僕の肘の下の本を見てその内容に気がついて、僕の顔とその白い表紙を交互に見つめた。
「なに、セイジってそういう人?」
にやっ、と先ほどとはまた違うニュアンスで歯を見せる彼女。僕は少しだけ眉を顰めて首を振った。
「どうだった? 私たち」
彼女は少し身を乗り出して本を手に取ると、ハードカバーのその表紙をぺらりと開いた。
僕は、特に興味もなさそうに活字に目を走らせる彼女の様子を伺いながら返答する。
「よくわからない。でも、十八歳未満は法律で守られてるから。刑罰を受けることはほとんどないんだって」
ふうん、と口先だけで返事をして、適当にページをめくっていく和泉。頬杖をついたまま右手の指だけを動かしていく。僕はパイプ椅子に体重を掛けたまま、彼女の細くて白い指が薄い紙の端を撫でるさまを眺めていた。
彼女の指は細くて白い。他の女の子の指がどうだかなんて知らないけれど、少なくとも彼女の指は、僕なんかよりも全然細い。千尋が七五三で貰ってきた、甘い味のする千歳飴みたいだ。そんなことを考えながら、僕はまた、あの日の夜に彼女が握っていた、血のついた包丁を思い出す。
あんなに細くて綺麗なのに、ちょっと握って力を入れたらあっという間に折れそうなのに。彼女はあの夜あの指で、実の父親を刺し殺したんだ。昔誰かが言っていた――先生だったか母さんだったか覚えていないけれど。
『カッター一本あれば、人なんて簡単に殺せるんだよ』
彼女はこの手で、実の父親を刺し殺したんだ。
無表情でページをめくる指先を見詰めていた僕に気がついたのか、彼女は不思議そうな瞳を僕へ向けた。
「なに?」
彼女が小首を傾げると同時に、黒い髪がさらりと落ちる。その髪が光を反射して、僕の視界をちらつかせた。
「別に」
ちかちかとする瞼を擦り、返答する。
「その手で、人を殺したんだなーと思って」
僕の言葉に、彼女がまた意味ありげな表情を浮かべた。ハードカバーの表紙を閉じて、机の上で腕を組む。
「こわくなっちゃった?」
彼女の言葉に首を振る。
「違うよ。そんなに細くて綺麗なのに。そんな手で包丁握って、人の体刺したんだなーって。殺したんだなーって思って。そんな風には、全然見えないなーと思って」
ブラウン管の中で話題になっているあの少女は、前の日の夜までどこにでもいるような普通の少女だった。普通に学校へ行って、友達と会話をして、家族で夕食を取り、寝床についたはずだった。
普通の少女だった女の子の歯車がどこかで取れて、外れて落ちて、包丁を持ち実の父親の腹部を裂いた。
その女の子の指だって、それほど太いわけでもないし固いわけでもなかっただろう。僕のものよりもずっとずっとしなやかで、細く、柔らかかったはずだ。
「なんか……」
誰にでも、できるんだよな。
包丁を持つことも。足を踏み外すことでさえ、彼女でなくとも誰でなくても。
「簡単に、できるんだよな」
無意識のうちに目の前にあった彼女の手を取って、確認するようにして指先を撫でてみる。彼女の指は、妹の小さな手のひらよりもずっとずっとひんやりとしていたけれど、僕のものよりも随分細くしっとりとしていた。
何回か撫でているうちに、段々と彼女の指先が熱を帯びてきたようだ。摩擦熱か、と思い前を見ると、白いはずの頬っぺたをリンゴのように紅潮させた和泉紗枝が僕の手の中にある指先を見詰めていた。
「……なに?」
どうかした?と僕が言うと、
「なんでもない」
と言って、ふい、とそっぽを向いた。
僕らが図書室を出たのはそれから三十分ほどしてからで、時計の針は十七時半を指していた。
この時間くらいにもなると、部活生も含めた大体の生徒は殆ど帰宅を始めていて、校舎に響き渡るのはカラスの声とかつかつという僕らの上履きくらいだ。
「今日も走るの?」
夕陽も沈みかけた下駄箱で。赤い光を背中につけた和泉紗枝は、僕の顔を覗き込んできた。
僕はじっ、と見つめ続ける彼女から目を逸らし、スニーカーに指先を突っ込んだ。半分くらい足を入れて、とんとんとんと爪先を地面に打ち付ける。
「走んないと思う」
今朝もそうだったが、雨上がりの地面というのは非常にぬかるんでいる。
僕の走る場所というのは大抵田んぼのあぜ道か歩道の横か、水たまりのたくさんできているような足場の悪いところが殆どなのだ。いつだったか、雨上がりの夜道を走っていたらでかい水たまりに足を突っ込んで顔面からこけたことがある。 それ以来、雨上がりのランニングはやめにしているのだ。
「体、鈍んない?」
鈍らないよ。
「今日は普通に勉強だけしとく」
「期末、結構範囲広いもんね。そう言えば」
何か思い出したように動きを止める、彼女。
「セイジってどこの高校受けるの?」
スニーカーに踵を押し込んで、曲げていた腰を上げる。
「東高」
「東高? 結構偏差値高いね」
「まあまあじゃないの」
僕の少し先で待っていた彼女に並び、前に出る。そのまますたすたと歩いて行くと、追いかけるようにして泉が小走りで近寄ってきて僕に並んだ。
「そういう和泉さんこそどこ受けるの?」
彼女は、「私?」というような目で首を傾げ、そのまま正面を向いて少し考えた。それから、冗談のような口調で
「じゃぁ私も東高」
「はぁ?」
『じゃぁ』ってなんだよ『じゃぁ』って。
「冗談だよ、冗談。私は、藤華女子」
ああ、あのお嬢様高か。と、少ない女子高の知識をかき集める。あそこは確か、名門で古株の進学校だ。中高大とエスカレーターで登れる一貫校。あそこならば、この、優等生で美少女の和泉紗枝がいても全く不思議でもなんでもないんだ。
「の、はずだったんだけど」
ふと、彼女の声のトーンが落ちて、声も小さくなる。右隣りを見ると、数センチ下にある彼女の顔が、心なしかくもって見えた。
「……無理、かもしれない」
下を向いて呟いた彼女の言葉に、僕は又顔を顰める。何のことだが意味が分からずに思わずそれを聞き返す。
「なんだって?」
詳しいことを問いただす前に、彼女はばっと顔をあげてにこっと笑った。そして、くるしと並んでいたはずの僕の前に立ち、スカートの後ろで両手を組んだ。
「あのね、私セイジのこと名前で呼んでるじゃない」
「あ?……え、うん」
「セイジも私のこと、名前で呼んでいいよ」
はぁ?
僕はまた、彼女の思わぬ発言に眉を寄せる。
「呼んでみてよ。ほら、“さえ”って」
「……遠慮しとく」
ずいずいと詰め寄ってくる彼女から顔を反らし、体位を移動させて彼女の先を歩いて行く。
さっさと早足で大股で進んでいく僕の後ろから、女の子の高い声が聞こえてくる。
「ほら、呼んでみてよー。さーえーって」
「呼ばないってば」
意味が、わからない。
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