第二章 5

 初老のマスターは最後まで愛想のないままだった。

 古ぼけたレジで小銭を払い、「ごちそうさまでした」といって外へ出る。外はまだまだ大雨が降っていて――むしろ、先ほどよりも強くなっているような気さえした。

「じゃぁね、私の家、こっちだから」

 僕のよりも一回りくらい小さな傘を差して、彼女は言った。

 僕は、保健室で言われた言葉をそのまま返す。

「うん。気をつけてね」

 僕の言葉に、彼女はほんのりと目を細める。それから、何か思い出したようにしてこう切り出した。

「藤崎君て、名前なんていうの?」

「名前?」

「そう、名前」

 僕の名前なんぞ聞いて、彼女は一体どうするつもりなのだろう。

 そういった疑問を胸に抱きつつも、だからといって断る理由があるわけでもない。

 僕は少し考えて、こう答える。

青児せいじ

「せいじ?」

「そう。青いに、児童の児って書いて、セイジ」

 セイジ、フジサキ、セイジ。

 がつんがつんと雨が叩く傘を押さえながら、彼女は何回か、口の中でその言葉を唱えたようだ。それから、ぱっと顔をあげてこう言った。

「わかった。ばいばい、セイジ」

 そういった言葉を残し、ぱたぱたと水飛沫を立てながら帰って行った。

 僕は彼女のその行動の意図がわからずに、段々と遠く小さくなる彼女の背中をぼんやりと見つめていた。



 僕が差していた傘は途中からその意図も意味さえも見失って、段々と強くなり打ち付ける雨に耐えきることができずに、見事全身びしょびしょの状態で帰宅する。

 ただいま、といって家の玄関の扉を開けると、一人で留守番をしていたらしい千尋が廊下の奥からぱたぱたと駆け出してきた。お気に入りの兎のぬいぐるみが、千尋の腕の間からはみ出ている。

「おかえりなさーい」

 さみしかったのだろう、部屋の奥からは大音量のテレビの音が聞こえてくる。やたらと高い女の声と、それに紛れて光線銃のような音。多分アニメだ。最近幼稚園で流行っている魔法少女が主人公の変身アニメ。

 千尋はとてもうれしそうにして僕の足もとへ走ってきて、それから水を被ったように(実際被ったに等しいのだが)全身ずぶぬれの僕の姿を見て悲鳴を上げた。

「お兄ちゃんびしょびしょだよー」

 まるでマンガのように目をぱちくりさせる千尋。僕は少し笑って、「洗面所からバスタオルを持ってきてくれ」と千尋に頼む。

 短い脚をばたばたさせて持ってきてくれたのは、幼児用の、兎のプリントの入った千尋のお気に入りのものだ。ちょっと小さいかな、とか思いつつも、ありがとうといってそれを受取る。

 がしがしと水の滴る頭を拭きとる僕を見上げ、妹が小さな眉を顰めた。

「お兄ちゃん、そのまんまじゃ風邪引いちゃうよー」

 ああ、そうだな。このまんまじゃ、熱のひとつやふたつ引いてもおかしくなんかない。

 僕は濡れた上着を抜いで、それをそのまま玄関の脇に置く。

「千尋、兄ちゃん風呂入るけど、一緒に入るか?」

 僕の提案に、妹は「入るー!」と言って短い手を高く上げた。着替えを取りに行ったのだろう、またそのまま部屋の奥へすっ込んでしまった妹の背中を見送って、僕は靴下を脱いで濡れたスポーツシューズを下駄箱へしまう。母さんはまだ帰っていないらしい。出勤用の、白い靴が置いていない。今日もまた遅くなると言っていた。

 そうこうしている間に、お風呂セット(という名前のおもちゃ)を抱えた千尋がまた飛び出してきた。

「夕御飯、少し遅くなるけど大丈夫だよな」

 ゴム製のアヒルと金髪の人形を抱えた妹は、「いいよっ」といって歯を見せた。


 それから簡単に夕飯を作り千尋に食べさせて、九時になる前に妹を寝かす。すーすーと静かになった妹の寝息を聞いて、僕は妹の部屋を出る。

 家の外ではまだまだ大雨が続いているようで、室内にいるというのにもかかわらずざぁざぁという音が鼓膜を刺激した。

 明後日は知らない。まだまだ降るかもしれないし、ぴったりと止んで真っ赤な太陽がさんさんと降り注ぐかもしれない。

 洗濯物も乾かないし、僕としてはろそろ止んでほしいかなと思う。布団だって湿ってしまうし、制服だって乾かない。

 でも僕は、それと同時にまたしても、雨が降り続けることを期待していた。

今日の夜は外に出れないな。そう思った。  


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