第二章 4
どうしようかと考える。
今日の授業の七コマ分はすべて終了し、あとはもう荷物を纏めて家に帰るだけだ。
朝、母さんに早く帰って来いと釘を打たれているし、僕自身、用もないのにこんな湿気のたまり場のような所に居たくない。
僕が今いる場所というのは、学校の端の、滅多に誰もこないような、体育倉庫の裏っ側。どろどろとした地面はぬかるんで、大きな水たまりが沢山できている。天から落ちる大粒の雨は相も変わらず僕の紺色の傘を打ちつけて、複雑なリズムを刻んでいた。
なぜ僕がこんな蝸牛の宿のようなところにいるのかというと、それにもまた理由がある。その理由というのが、今僕のポケットの中に入っている大学ノートの切れ端の部分。
帰り際、中身の殆ど入っていない鞄を持って今にもカビの生えそうな下駄箱を除くと、そこに四つに折りたたまれたノートの切れ端が入っていた。ラブレターなんていう甘美なものではない。第一、それだったらノートの切れ端なんてものではなくて、ハートのマークのついたピンク色の便箋だろう。
僕はその紙切れをポケットの中から取り出して心の中で読み返す。
『今日の放課後に体育倉庫裏にきてください』
小奇麗な女の子の字だ。もしこれが本当にラブレターだったら嬉しいのだが。残念ながら、間違いなく違うだろう。
その紙切れを適当に折り畳んで、ポケットの中に突っ込んで考える。
どうしようか。
和泉紗枝。僕の隣のクラスの女の子。誰もが認める優等生。父親を殺した女の子。殺人犯。その作業を手伝ったのは僕で唯一その事実を知っているのもおそらく世界で僕だけだろう。彼女以外で。
この紙切れは、間違いなく彼女からの「ラブレター」だ。俗的に言うと、死のラブレター、っていうやつか。自分自身のネーミングセンスのなさに呆れてしまう。B級映画もいいところだ。
自分自身の最大の秘密を知っている僕を呼びだして、彼女は一体どうするつもりなのだろうか。口封じ? だろうか。保健室で、最後に何かを言おうとしていたようだったから。「言わないでくれ」と泣いて喚いて請うか、財布の中から諭吉さんを数枚取り出して口止め料でも払うのか――どっちにしても可能性は薄い。もしくは――
「殺すか?」
思わぬ答えが出た瞬間、口の端がにやりと釣り上がるのが自分自身でもよくわかった。誰も聞いていないはずの僕の言葉に返答をしたのは、いつのまにかやってきたらしい和泉紗枝。
「殺さないよ」
和泉紗枝は、セーラー服の上に紺色のカーディガンを羽織った格好で、僕の後ろに佇んでいた。
「ごめんね。急に先生に雑用押し付けられちゃって。遅れちゃった」
彼女はそう言うと、ぬかるんだ足元を慎重に慎重に気をつけながら、僕の数歩先までやってきた。頭の上に刺した傘からボタボタと水滴が落ちていく。
彼女は僕の顔をまじまじと見ると、長い睫毛の奥から覗くようにしてこういった。
「藤崎君、あの手紙読んでくれたんだね」
「なんで?」
「無視、されるかと思った」
彼女は一言そう言うと、「行こうか」といってスカートの裾をくるりと翻した。
よたよたと歩く彼女のあとを追いながら、「どこへ行くのか」と僕は言う。
いいからついてきて、と彼女は言った。
倉庫を抜けて、学校の裏門をくぐり、水の増えた用水路の脇を歩いて、どっぷりと水に浸かった田畑の横を歩いて行く。十五分か、二十分くらい歩いてついたところは僕の家とは反対側の、たぶん市内でもそれほど名の知れてない(というか、単純に知名度の低い)場所で、今にも崩れそうな廃屋のような場所。上の方にかけられた「ラ・ブール」という看板だけが、ああ、喫茶店かなにかなのだろうな、と感じさせた。
彼女は出入り口辺りで傘を畳むと、手慣れた様子で埃だらけのドアを押した。
「入って」
扉に付けられているらしい鈴が、からんという音を立てた。
扉の先は、思ったよりも随分と綺麗でさっぱりとしていた。
綺麗に拭かれたカウンターと、テレビで見たことのあるような赤くて足の長い椅子。低めのカウンターから視線を上げると、昔家庭で使っていたような小型のテレビが置いてあって、どこかで行っているらしい野球中継を放送していた。
彼女に誘導されて、足の長い椅子に腰をかけると、初老のマスターらしき人物がおもむろに水の入ったグラスを差し出した。
「ありがとう」
和泉紗枝の一言につられて、僕も「ありがとうございます」と礼を言う。
「ここね、マスター一人でやってるの。前は他の店員もいたらしいんだけど、みんな辞めちゃったんだって」
彼女の言葉に耳を貸しながら、僕は周囲をざっと見渡した。
周りにあるもの。四角いテーブルが右に四つ、左に一つ。出入り口付近に飾られた巨大な観賞植物。壁に掛けられた果物を描いた油絵と、角の生えた鹿の剥製。大きめの水槽の中には熱帯魚がぱくぱくと口を開けていた。
「他にお客がいないのは、雨だから?」
「それもあるけど。普段もあんまり変わらないよ。いたとしても二人とか、三人くらい」
「こういう所ってよく来るの?」
「他の場所は、あんまり行ったことない。ここだけ」
「……中学生の来る場所じゃないね」
僕の言葉に、彼女はぷっと噴き出した。それからははははという明るい笑い声を響かせる。
「何? 藤崎君て、そういうの気にする人? ていうか、緊張してるの?」
「……多少は」
「なにそれ。なんか、かわいいいなぁ。藤崎君て」
「だって俺、こういう所って来たことないし」
「えー、だって」
彼女はそこで頬杖をつくと、そこか面白がるような瞳で僕のことを覗き込んだ。
「昨日、全然驚いた様子見せなかったから」
瞬間的に、彼女の眼の色が変わったように見えた。が、僕はあえて、そこには気がつかないふりをする。
手元に置かれた水を飲んで、こう答える。
「そうかな?」
「そうだよ」
彼女はそこで言葉を止めて、「オレンジジュースお願いします」と声をかけた。どうするか、と聞かれ、同じでいいと返答する。
「和泉さんこそ、あれが初めて?」
「そうだよ。なんで」
「いや、なんか……すごく、落ち着いて見えたから」
僕の言葉に彼女が目を細めた。
「そう見えた?」
「うん」
また目の前に初老のマスターが現れて、何も言わずに二つのオレンジジュースを置いていく。
彼女はストローを軽く摘まみ、オレンジ色の液体を意味もなくぐるぐるとかき混ぜた。何重にもできた輪が重なって、鮮やかな形を作った。ひとしきりその作業を繰り返して、細いストローの先に口をつける。それからまた、僕の目を覗き込んだ。
「藤崎君て、ちょっと変わってるって言われない?」
僕は、口をつけようとしたストローをあと数センチの距離で止める。
「なに?」
「言われるでしょ? 変わってるって」
悪戯な光を湛える彼女の顔を数秒見つめて、僕はグラスを下ろす。
「変わってるっていうか」
「違うの?」
「ちょっと変とは言われたことがある」
僕の言葉に、和泉紗枝がまた笑い声を立てた。
「うん、やっぱりちょっと変だよ。藤崎君て」
腹を抱えて大笑いする彼女を目の前にして、ストローの先を咥える。
「藤崎君て、去年くらいにあっこに告白されたでしょ?」
「あっこ?」
「うん。うちのクラスの
僕は埋もれた記憶を掘り起こす。
そう言えば、去年の夏休み前くらいに、誰かに呼び出されてそう言うことを言われた気がする。特に興味もないし、対して仲も良くなかったのであっさりと断ったような気もするが。
「あっこ可愛いのに、あっさりと断っちゃったんだよね。山本くんて知ってる?今、二組にいる男の子なんだけど。山本君、一年のときにあっこに振られたんだけど、そのときまだ諦めてなくてね。すごく悔しがってたんだよ」
山本。あいつか。二組にいる、確かバスケ部の主将だった。
一通りどうでもいいようなことを思い出して、僕は左右に首を振る。
「覚えてないよ」
僕の一言に、和泉紗枝がまた目を細めた。
「あのねー。藤崎君」
目の前にあるストローから口を放し、顔を上げる。
「昨日、どう思った?」
彼女はゆっくりと睫毛を伏せて、半分ほどに量の減ったオレンジジュースをくるくると揺らした。
僕は瞬きをして、彼女が揺らすオレンジジュースへと目を傾ける。溶けかけた氷がからからと音を立てた。グラスの周りについた水滴がテーブルの上に落ち、水の輪を作っている。
僕はその輪がばらばらに乱れていく様子を観察して、彼女の黒い瞳を見た。
「……びっくり、ていうか、驚き、でもなくて、なんか……どきどきした」
僕の正直な感想に、彼女が目をまん丸にする。
「どきどき?」
「うん」
「こわいとかでもなくて?」
「……ちょっと違うと思う」
恐怖心は持たなかった。
あの夜に、黄色く光る月の下で、血のついた包丁を持って佇む彼女のことを見ても、決して恐ろしいとは思わなかった。白目を向いたまま出血をしている男の体を見ても逃げだそうとは思わなかった。
「殺されるとか、思わなかった?」
僕は数秒考えて、あっさりと答えを出す。
「思わなかった」
例えばもし、あの場で殺されてしまったとしても、僕はそれすら何も思わなかったかも知れない。
和泉紗枝はストローの先を噛んだまま、呆れたような瞳で僕を見た。
「やっぱり藤崎君て、変わってるよ。絶対に」
そうかもしれない。僕は少し、感覚がおかしいのかもしれない。
彼女は残ったオレンジジュースを一気に飲み干すと、「出ようか」と言って席を立った。
「今日の夜から明日の朝にかけて、また雨が強くなるんだって」
そういえば、朝の新聞にそのようなことが書いてあったかもしれない。
僕は壁に掛けられた大時計を確認する。時計の針は六時頃を指している。
「あ、それ意味ないよ。三十分くらい遅れてるんだ」
遅れた時計が、ぼーんぼーんという音を立てた。
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