第二章 3
保健室には誰もいなかった。
扉を開けた瞬間に飛び込んできたのは、大きな棚に収納されている大量の薬品のにおいと、壁一面に張られたエイズやら虫歯やらなんとか週間やらのポスター。
和泉紗枝は、ふらふらと左右に揺れる僕の腕をひっぱりながらベッドまで誘導し、保健室のやたらと白い扉を閉めた。
「保健の先生、今いないんだって」
彼女はそう言ってどこからか氷嚢を取り出すと、ベッドの上に腰を沈め頭を押さえる僕の手の中にそれを収めた。どうやらコブになっているらしい辺りにそれを当てて、「ありがとう」と答える。僕の言葉に、彼女は少し笑った。
それから、色々な資料の乗っかっている先生の机の一番端の引き出しから、ぼろぼろになった大学ノートを取り出して何かを書きだした。
いくらかぼんやりとする脳みそを動かして、もくもくと入室記録を書く出す彼女を観察する。
普通の子だ。彼女が顔を上下に揺するたびに、前髪がさらさらと揺れて波を作る。先ほど、一瞬だけ見せた殺人犯の瞳は手の下の大学ノートに向けられている。時々、壁に掛けられたカレンダーやら時計やらを確認して、こと細かく正確に書き込んでいく。
藤崎君、と彼女が僕の名前を呼んだ。
「今日の体調は?」
記録ノートに書くのだろう。僕は少し考えて、こう答える。
「悪くはないよ」
「熱とか、腹痛は?」
「ないよ」
「ご飯は食べた?」
「食べた」
「今日は何時に起きた?」
「朝の、六時半くらい」
「昨日の夜は、何時に寝た?」
彼女はペンを休めない。僕は、さらさらと流れるように書き込んでいく彼女の横顔を眺めながら、こう答える。
「夜の、三時くらい」
僕の返答になんの反応も示さぬまま、彼女はペンの先を動かしていた。質問はまだ終わらない。
「今の体調は?」
「頭は痛いけど」
「気持悪いとかはない?」
「ない」
「これからの授業受けられそう?」
「大丈夫、だと思う」
彼女はそこまで書きむと、白い猫のキャラクターのついたボールペンを机の端に置かれた鉛筆立ての中に突っ込んだ。ぱたん、という音を立ててそのノートが閉じられる。
彼女は、ゆっくりとした動作でシーツの上にしわを作る僕に向き直ると、口の端と端をあげてゆっくりと微笑んだ。
「結構、寝るの早かったんだね。私は、昨日の夜寝てないよ」
そう言うと、細い両足を組んで机の上に頬杖をついた。
普段の彼女からは想像もできないような怠惰な体勢に、僕はほんの少し眉をしかめてこう切り返す。
「ベッドの中でだらだらしてたら、いつのまにか朝になってた」
僕の言葉に、彼女はまた目を細めた。
「藤崎くん、体育の時、ずっとこっち見てたでしょ? すごく、熱い視線感じてた」
気が付いていたのか。何でもないような顔をして。
僕は氷の位置を少し変える。
「そう?」
「うん。先に気がついたのはまりっぺだけど。すごく見られてるよー、って。冷やかされちゃった」
まりっぺ。っていうのは確か、今日の朝昇降口で和泉紗枝と熱いハグを交わしていたあの子か。
「俺も冷やかされたよ。クラスのやつに」
「なんで?」
「……和泉さんにずっと見られてるって」
本当は逆なのだが。僕のその言葉に、彼女はからからと笑い声を上げた。
「ほんと? 気づかれてないと思ったんだけど」
「……まじで?」
まじで?
その言葉を僕は、「本当に見てたのか」という意味で言ったのだが、彼女は違うニュアンスで受け取ったらしい。
冷たい椅子から腰を浮かし、水滴の付いた窓辺によると、閉められたカーテンをがーっと開けて僕の方へ向き直った。
「うん。絶対に、気づかれない自信、あったんだけど」
そう呟いて、苦虫をつぶしたような表情を浮かべた。
僕はじゃらじゃらと氷嚢をずらし、雨の降りしきる外の世界へ視線を向けた。
広い天上は厚くて大きな黒い雲に覆われて、この世のストレスをすべて吸い込んだような湿気が世界を取り囲んでいた。何重にも何重にも重なった暗雲からは、岩ほどの大きさがあるであろう雨水ががんがんという音を立てて下界を打ちつけている。
地面に落ちた雨水は、地表を溶かし河川を氾濫させ泥水を流し――彼女が殺して僕が埋めた男の死体を、血液を洗い流していく。
「雨、止まないね」
「止まないよ。昨日の夕方の天気予報で、明日明後日くらいまでずっと降り続けるっていってたもの」
一向に変わる気配のない景色から目を背け、真っ暗な校庭を眺め続ける彼女に視線を寄せる。
全く変化の現れない彼女の横顔を観察して、僕は言う。
「計画的?」
「なにが?」
「……昨日の」
僕の言葉を聞いて、彼女は少し視線を泳がせる。それから、質問の意図を読み取ったようにしてうっすらと微笑する。
「半分くらいは。やれたらやろうとは、前々から思ってた」
そう言って窓枠に寄りかかり、体重をかけて腰のあたりで腕を組む。
「でも、あそこで藤崎君にあったのは、本当に予定外」
自嘲気味にそう言って、鼻で笑う。
「あそこ、夜になると変質者が出るっていう噂があるし。まさか、あんな夜遅くに誰かに――学校の人に会うなんて、考えてもいなかった。考えても見てよ。夜の2時近くとか言って、普通に考えて中学生の出歩く時間じゃないじゃない」
そこまで一息でそう言って、はぁ、と大きくため息をついた。
僕は、じゃらじゃらという音を立てる保冷剤を頭から下ろして、ベッドの脇に置く。
「それは、俺にだって言えることだけど」
まさか僕だって、あの日の夜にあんな時間に、血のついた包丁を持ってぼんやりと佇んでいる人間に遭遇するなんて思ってもいなかったし、その殺人犯がまさか同じ学校の優等生だなんて夢にも思っていなかった。
「第一、 君だって中学生じゃないか」
「まさか、深夜徘徊の癖がある同級生がいたなんて。本当、信じられない」
僕の意見をあっさりと無視をして、頭を抱える和泉紗枝。
僕だってまさか、同級生に人殺しがでるなんて考えもしなかった。
彼女は頭を覆っていた掌を放し、再び腰のあたりで腕を組む。
「誰かに言うの?」
「何を?」
「……昨日のこと」
――言ってもいいのなら言うんだけど。
残念ながらそれはできない。殺したのは彼女だが、それを埋めたのは僕だ。
今にも噛みついてきそうな瞳でそういう彼女に、僕は首を振る。
「言わないよ。だって、俺たちは“共犯者”なんでしょ?」
僕のその言葉に、彼女は拍子抜けをしたようにして大きな瞳をぱちくりさせ、ふっ、と鼻で笑った。
彼女がもう一言、何かを言おうと口を開きかけた瞬間に、閉められていた保健室の扉がガラガラガラという音を立てて開かれる。
「紗枝ー!」
という声を上げながら入ってきたのは、彼女の友人であるまりっぺこと
河内麻利は、ばたばたと上履きを鳴らし賑やかしい音を立てながら、“普通の女の子”の顔に戻った和泉紗枝の手を引いた。
「次の授業、理科室だってよー。あ、藤崎君大丈夫?」
いかにも“ついで”といった感じでかけられた言葉に、「大丈夫」と返す僕。
いつもの明るい表情に戻った和泉紗枝は、河内麻利と笑い声を立てて、「じゃぁね」と言って踵を返した。
「私、もう戻るから」
気を付けてね。
ひらひらを右手を振る彼女の背中を見送って、僕は清潔な匂いのするベッドの上に寝転んだ。
――“気を付けてね”
その言葉は、どういった意味で取ればいいのだろうか。
五十分の授業一コマ分の睡眠時間があれば、体力は十分回復することができた。やはり、少しばかり寝不足だったらしい。
六時間目終了のチャイムとともに体を起こし、教室へ戻る。机の上でまだ板書を映している石井健太が、タンコブを抱えて戻ってきた僕に食いついてきた。
「お前、和泉さんと何話したんだよ」
天気予報の話だよ、と僕は言った。
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