第二章 2

 午後の授業一発目は体育だった。

 正午を過ぎたといっても雨はまったく止む様子はなくて、体育着を着た僕達は第一体育館へと移される。

 でかい体育館の真ん中をネットで区切り、二クラス合同男女別でバスケが始まった。

 男女別になりその中で更に二チームに分かれる。適当にボールを回したり打ち付けたり高い所にあるゴールに突っ込んだりして、交代する。こういう時に間違いなく張り切るのは、桑原亮二の長所でありまた短所でもあった。

 周囲に適切な指示を与えながら支持を出し、声を出す。他の人間にはなかなかできない芸当だ。桑原亮二はガッツもあるし、運動神経もいい。いざという時頼りになるのは、彼の長所と言ってもいいだろう。

 が、僕の目から見ても彼は少々熱すぎたし、周りの空気を読まなさすぎた。

 ワーワーと一人でつっぱしるやつを舞台の上から観賞し、ジャンプをしてゴールを決めたその瞬間に興味を失った僕はネットの向こうで同じようにゲームを楽しむ女の子に目を向け、改めて“和泉紗枝”という人物を観察する。

 和泉紗枝。隣のクラス。三年二組の女の子。確か、一年の終わりくらいに東京の学校から転校してきた。よくは知らない。でも、去年いつだったか同じ委員会に所属したことがあって、その時に何回か会話をしたことがある。だからお互いの名前を知っているし、顔もわかっているんだ。

 成績はいい方だ、というか、成績上位者の常連だという話を聞いたことがある。白くて細い項の辺りで長い髪をまとめた彼女は、さっ、と素早い動作で相手チームのボールを奪い取ると、それこそネズミのように素早い動作で敵の間をすり抜けて、あっさりとゴールにシュートを決めた。運動神経も悪くないらしい。ネットの向こう側から、耳の痛くなるような女の子たちの歓声が響き渡り、女子の何人かとハンドタッチをする彼女の姿が見えた。

 そんな、ヒーローにもよく似た彼女の行動を観察し、ボーっとしていると、僕の隣に座っていた石井健太いしいけんたが僕の頭をごつっと叩いた。

「こら」

「いてっ」

「さっきから名前呼んでんのに。なに真剣に見てんだよ」

「何も見てねぇよ」

「うそつけ」

 石井はそういって、僕の頭をぐりぐりと掴んだ。

「誰だ、誰だよ。須之内か、浅見か。まさか、和泉かよ」

 僕の頭をぐいぐいと押し込む石井の手を押しのけて、「そうだよ」と答える。

「そうだよって、どれだよ」

「最後の」

「和泉かよ」

 僕があっさりと答えを言うと、石井はガーン、という効果音を口で言って顔を覆った。ショック受けすぎだよ、お前。

「なんで」

 揉まれてぐしゃぐしゃになった髪を適当に直しながら、僕はそれを問う。眉をよせて発したその言葉に、石井はけたけたと表情を緩ませて両手をひらひらと動かした。

「いやいや、お前も女の子に対してそう言った興味があったんだなーと思って」

「……いや、ちょっと違うと思うけど」

「え、なんだって?」

「なんでもない」

 石井はグイ、と腕を組んで胸を反らし、胡坐をかいた足を崩す。

「でも、お前みたいな中途半端真面目くんが好きになるには、ちょっとレベルが高すぎるんじゃないんですかねー」

 どういう意味だ。

「だってあの子は、頭もいい顔もいい運動神経もいいしかも性格もいいといった三拍子も四拍子も揃っちゃってるような人間なんだぜ」

「……なにそれ? 南ちゃん?」

「そう、リアル南ちゃん!」

 石井は意味もなく親指を立てた。

 僕は、熱戦を繰り広げる桑原の向こう側にいる和泉紗枝に再び視線を向ける。彼女がもう一度ゴールを決めるさまを観察して、石井健太と視線を合わせる。

「そんな人間、いるわけないじゃん」

「いーや、いるんだなー。これが」

 なぜか嬉しそうにひとりでうんうんと頷く石井。

「見てみろよ。あの、女神のような微笑みと銅像のような美しいプロポーション。男女ともに分け隔てない、穏やかな性格」

「女神?」

「まったく、神様も不公平だよなー。神は時として、すべて完璧な人間を作り出してしまうものなんだなー」

「何お前、和泉さんのこと好きなの?」

「馬鹿お前、俺はそこまで身の程知らずじゃねえよ」

 俺が手を出すにはレベルが高すぎんだろ、と毒づいた。

「和泉が南ちゃんだったら、藤崎はせいぜい原田か孝太郎レベルだな」

「……俺が孝太郎だったら、お前はパンチか西村がいいところだよ」

 石井の言葉になんだか腹を立てた僕が拳を固めたところで、選手交代の笛が辺りに響いた。

 すれ違いざま、体操着を肩までたくしあげた汗だくの桑原に「がんばれよー」という声をかけられる。言われなくてもわかっている。

 たかだか十分のゲーム中に、僕は相手チームからボールを四回取り戻し、五回ボールを輪の中に突っ込んだ。あの時に石井の悔しそうな顔ったらない。ざまぁみろ。

 流れる汗を体操着の肩で拭いて、何気なく顔を反転させる。視線を感じたわけではない。誰かに名前を呼ばれたわけでもない。

 僕の視線の先では、普通の女の子の顔をした小泉紗枝が年相応の笑顔を浮かべて隣に座っている同じクラスの女の子と楽しそうに会話をしていた。大きな瞳をくるくるとさせて、ときどき友達の肩を叩いたり叩かれりと、どこにでもありそうな、そこにでもいそうな女の子同士のやり取りをしていた。

 ふいに彼女の隣にいた女の子が目線を反らし、また別の友達とマンツーマンの会話をはじめ、小泉紗枝の笑顔が途切れ、その目がゆっくりと伏せられて、僕の方向へ向けられる。彼女はゆっくりと瞬きをすると、長い睫毛の下から見上げるようにして僕の視線を勝ち合わせる。


 そこにあったのはあの夜と同じ、月の光のように美しく、夜の風のようにひんやりとした、父親を殺した女の子の瞳だった。


「藤崎危ない!」

「えっ……」

 僕が集中力を切らした瞬間だった。

 彼女の目に気を取られすぎていた僕はタイム終了の笛の音にも気付かずに、石井健太が半ばやけくそに投げたバスケットボールの速さに気がつくこともできず、頭のどこかにバスケ用の硬球は激突する。マンガの中でよくあるようなお星様がちかちかと飛んで、花火のような火花が飛び散る。ぐらぐらと地震のように揺れる頭を押さえうずくまる僕の周りを、何人かのクラスメイトが取り囲んだ。

「うわっ! 大丈夫かよ藤崎ー」

「今、頭当たったんじゃん?」

「ごめんっ! まじでごめん!」

「保健室行った方がよくね? ここにいたら危ないし。保健委員は?」

 ダムダムとバスケットボールが弾む音や床を蹴り上げる靴音に紛れて、両手を合わせて顔をゆがめる石井健太の申し訳なさそうな声と、他の級友のやる気のなさそうな会話が聞こえてきた。やばいな。ここにいたら危ないし。ていうか、まず迷惑だし。立たなくちゃ。あ、でも、なんか立てない。なんでだろ。

 などとじんじんと熱を持つ頭の中で考える僕の耳に、クラスメイトとはまた違う声が混じる。

「先生、私が保健室まで連れて行きます」

 女の子の声だ。結構しっかりとした、優等生っぽい高い声。あんまり聞き覚えのないような、でもどこかで間違いなく聞いたことのあるような。

 その問題の答えを出す前に、誰かの手によって腕を持たれ体を起こされる。

「藤崎、大丈夫かー? 立てるかー」

 太くて、大きな腕。低い声。この声は先生のものだ。

 それから、誰かによって体を支えられ、立ち上がり、体育館の外に出る。くらくらとする目を開き、僕の腕を持つ誰かの顔を確認する。

「大丈夫?」

 彼女はそう言って、くらくらとする僕の顔を覗きんできた。長い髪と大きな瞳。ほんのりと上気をしてピンク色に染まった頬。

 黒い水晶玉みたいな瞳の奥底にあるのは、夜の闇の色にも似た、あの日の夜の月の色。

 実の父親をその手で殺害し、僕がこの手で証拠隠滅を手伝った殺人鬼。和泉紗枝だ。  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る