第二章

第二章 1

 朝が来た。

 枕もとに置いておいた目ざまし時計がぴぴぴぴ……という小鳥の囀りを基盤としたアナログな声を出す。

 きっちり五回目の音で僕はベッドから抜け出して、丸型の時計の頭を押して、目を細めて時刻を確認する。六時半――いつも通りの時計だ。

 体を覆っていた柔らかい毛布から離れると、部屋の空気がいつもよりも冷たく湿っているという事実に気がついて、両手を抱え身震いをした。

 冷たい床に素足を這わせ、窓先へ寄って薄い緑のカーテンを開ける。

 外の世界では、大粒の雨がざぁざぁという音を立てて地面を濡らしていた。

 僕は濡れた窓辺にもう一度カーテンを引いて、沢山の衣類が掛かった箪笥を開ける。紺色のパーカーは掛けられていなかった。


  制服に着替えて階段を降りると、母さんがとんとんとんと小刻みに包丁の先を動かしていた。牛乳とパンの置かれたテーブルの上には、小さなピンク色のお弁当箱が置いてある。 妹の、千尋のものだ。

 千尋はまだ起きていない。保育園は八時からだから、七時に起きればちょうどいいんだ。

「おはよう」

 僕の言葉は母の背中越し返される。

「おはよう」

 僕は、とんとんとんという人参を刻む音をBGMにして食パンをトースターに突っ込み、牛乳をカップに注いだ。生ぬるい牛乳を喉に流し込み、新聞を手に取り社会面を開く。

 今日のニュース。欧州の景気後退。ユーロ導入後初のマイナス成長。パトカーと郵便局員の接触事故。北朝鮮の拉致問題。都内のビルで女子高生が2人飛び降り自殺。etc、etc……などという半日常的なニュースを読み飛ばして、僕はおそらく僕が求めていただろうという記事を発見する。

「大阪府で女子高生が父親刺殺」

 一昨日深夜未明、大阪府●●市男性会社員(四十五)の自宅で「高校生の娘が父親を刺した」と男性の妻(四十)から110番があった。男性は病院に運ばれたが、間もなく死亡。●●市警は、現場にいた高校生の長女(十六)が殺害を認めたため、殺人未遂の現行犯で逮捕した。長女は調べに対し、「お父さんを包丁で刺しました」と供述しているという。同署は容疑を殺人に切り替え、動機などを捜査している。調べによると、男性は胸部から腹部にかけて料理包丁で十数か所に亘り刺されていた。妻が夫の悲鳴を聞き男性の寝室へ行くと、男性がベッドの上で血を流して倒れており、長女がその脇に座り込んでいたという。


――チン!


 そこまで一気に読み進めて、パンの焼きあがる音が僕を現実に呼び起こした。

 僕は新聞を適当に折り畳み、パンを取り出してバターを塗ってチーズを載せた。

「ねぇ、お兄ちゃん」

 僕がもぐもぐと顎を上下に動かしていると、母が僕の名を呼んだ。

「お兄ちゃん」

 その名前は正式に言うと僕の名前ではないんだけれど、妹が生まれてからは家族の間ではそれが僕の正式名称のようになっている。

「なに?」

 もごもごとパンを噛み、牛乳で飲み下してそう答える。母は妹の小さな弁当箱にこれまた小さなウインナーを詰めながら言った。

「お父さん、今本当に仕事が忙しくてなかなか帰れないみたいなの。お母さんも今、三年生の担任してるから。今日も遅くなるかもしれないから。お兄ちゃん、早く帰れるようあったら早く帰って、ちぃちゃんの面倒見てあげてね」

 母さんは県内にある私立の高校で英語の教師をしている。三年生の担任をしていて、中間テストだ模試だ就職だと色々と大変なのだという。

 千尋の通う幼稚園はカトリック系の福祉法人の経営する私立の幼稚園で、毎日毎日決まった時間にクレヨンしんちゃんに出てくるような派手な色のついたでかいバスが出迎えに来る。

「うん、わかった」

 僕の顔を見ようともしない母さんの背中にそう言って、僕は席を立った。歯を磨いて顔を洗い、家を出る前にまだ寝室でぐっすりと眠っているはずの妹の部屋を覗いておく。

 千尋はピンクのリボンのついた兎をきつく抱きしめたままベッドの上に転がっていた。寝像が悪いのか、目に痛い配色の毛布がベッドの脇に落ちてぐしゃぐしゃに丸まっている。夢の世界に飛び立っていても、現実世界の空気の冷たさがわかるのか。千尋は、不細工に顔を歪めて体を縮こませた。

 僕は落ちた毛布を千尋の体にかけて、部屋を出た。



 雨は一日中降り続けた。

 僕の灰色の傘は冷たい雨に打たれて、ボタボタボタボタと重たい音を叩きだした。

 学校近くまで来ると、赤やら青やら黄色やら色鮮やかな傘たちが校門辺りを占領して、三階辺りから見たらまるで花畑みたいなのだろうなと感じる。

 下駄箱付近は予想通り、水と泥、湿気を大量に含んだ空気で大変なことになっていて、僕が傘を折りたたんで靴から上履きへ履き替えるまでに三人生徒が転んで悲鳴を上げた。阿保だ。その、転んで悲鳴を上げたうちの一人がなんとかっていう、名前の知らない女の子。確か隣のクラスにいる、何回か会話をしたことがある女の子だ。その子が転んだ時に彼女の小さな体を支えてあげたのが、和泉紗枝いずみさえだ。

 和泉紗枝は、その女の子のスニーカ―の踵がつるりと滑った瞬間に、彼女の体が完全に転倒しないように素早く彼女の腕を掴んで引き寄せた。

 きゃっ、と僕には絶対に出せないような甲高い声を上げた彼女の体をしっかりと止めて、ふっ、と安堵の息を吐く。それから、ふわっと目元を緩めて驚きで目を見開いている友人の声をかける。

「大丈夫ー? まりっぺ」

 気をつけなくちゃだめだよー、などと言いながら、アンバランスな体制をとる友人の体を立て直す。

 和泉紗枝によって持ちこたえた女の子(まりっぺとかいったか)は、はぁー、という長めの息を吐くと、「ありがとー、紗枝ー」といって、女の子同士でありがちな抱擁を交わした。

 僕はその、和泉紗枝とまりっぺのやり取りの一部始終を眺めてから、こういった感想を弾き出す。

(普通、なんだな)

 今更普通も何もないだろうが。

 僕がけたけたと笑い声をあげる女の子たちに興味を失って、下駄箱から出した上履きを乱雑に湿った床の上にたたき落として片方の足を突っ込むと、朝連をしていたらしい桑原亮二くわはらりょうじが「おはよう」と話しかけてきた。

「おはよう」

 桑原亮二はサッカー部に入っていて、春夏秋冬季節に全く関係なく一年中日に焼けた肌の色をしている。例えるならばコンビニで売っているようなミルクチョコや、もしくは薄めていないウーロン茶。

 この雨の中朝練をやっていたのか、桑原の短い髪の毛からはぽたぽたという水滴が滴ってただでさえ湿っている床を更に潤していた。

「サッカー部って朝練あったの? この雨の中?」

 桑原の成りに多少の驚きを覚えた僕は、スポーツタオルでぐしぐしと頭を拭くクラスメイトにそれを問う。

 桑原は、音楽室に飾ってあるバッハの肖像のようにスポーツタオルを頭にかぶったままこう答えた。

「違うよ。自主練」

「はぁ?」

「だから、自主練だってば」

 僕は思い切り眉を寄せる。

「ほら、うち今度全国予選でるじゃん? それの特訓」

「……雨、降ってるのに?」

「こんな雨くらいなんでもねーって」

 馬鹿だなこいつ。人のやってない時に練習するっていっても、体調崩したらどうしようもないだろう。勉強しろ勉強を。

「風邪引くんじゃねぇの?」

 その、心配と呆れたのと半々ぐらいが混ざったような僕の言葉に、桑原亮二はなんでもないというような口調でこう言った。

「バーカ。ヒーローはこんなことじゃ死なねーんだよ」

 馬鹿はお前だ。


 そのうち、話の繋がらない阿保の相手をすることに疲れた僕は、びしょびしょと水分をまき散らす桑原亮二を置いて教室へ向かうことに決めた。階段付近でクラスメイトに迷惑がられる桑原と他の級友の声が聞こえてきたが、無視。


 教室の時計が八時半を指して、先生が教室に入り、日直が号令をかけて一日が開始される。


 いまは昔、竹取の翁といふもの有けり。野山にまぎれて竹を取りつゝよろづの事に使ひけり。名をば、さかきの造となむいひける


 なんてことを適当に耳に書きいれながら教科書にマーカーを走らせる。いいですか、ここ、大事ですよ。テストに出ますからね、としつこくしつこく何度も口走る教師を半眼で見て、時々窓の外へ視線を傾ける。

 雨はいつまで降るんだっけ。今日と、明日。明後日はやむんだったかな。とりあえず、今日一日はずっとこんな感じだろう。

 雨はやむどころか、時間がたつにつれ段々と大きく強くなっているような気さえする。

 この雨は、昨日和泉紗枝がまき散らした彼女の父親の血液を綺麗さっぱり溶かし流しているのだろうか。

(和泉も)

 隣の教室の窓から見ているのだろうか。この、地表を打ちつける雨水を。

 

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