第一章 3
僕と和泉は目と目を勝ち合わせたまま、ある意味夢のような曖昧な時間を数秒過ごす。
一定の距離を置いたまま立ち尽くして、先に口を開いたのは彼女だった。
「藤崎くん」
彼女は、ひどくぼんやりとした口調で僕の名前を呼んだ。
「どこから見てたの?」
どこから見てたって、どこからもそこからもない。
「…今、その人が、倒れてるとこから」
その前は、なにも見てない。
「私が、この人を刺すところは見てないの?」
見てないよ。
彼女はふぅん、というようにして細い顎先を動かした。
それからまた、興味を全くなくしたように、目の前に転がった男に視線を向けた。
彼女はまるで、ボールでも眺めるかのようにして意味もなくそれを見下ろして、握りしめた包丁をふらふらと揺らした。
僕は木々の間からすり抜けて、あと数メートルの距離まで近づく。
「この人、君がやったの?」
「うん」
血に濡れた包丁を持て余ましたように揺らしながら、なんでもないような口調でそう呟く彼女。
僕は小さく呼吸をして、それを問う。
「どうしたの?」
僕の根本的な疑問に、彼女は伏せていた視線を上げて、僕を見据えてあっさりとこう言った。
「殺したかったから」
僕は彼女の簡潔すぎるその言葉に、何も言えなくなる。ぐっ、と息を飲む僕を尻目に、彼女は男の元に腰を屈めた。血のついた包丁を足もとに置いて、血まみれの男の顔をじっと見つめた。
それから、まるで機械でもいじるかの様にして見開かれた瞼を更に眼球が飛び出るほどに見開かせたり、泡の噴き出た口の中をこじ開けたりと観察をしていた。
「人間の体って、死ぬと重くなるっていうよね」
彼女の問いに、僕はなにも答えない。
「私一人じゃ、動かせないかもしれない」
彼女はぼんやりとした口調でそう言うとと、両手を使いうつ伏せに倒れた男の体を反転させようとした。が、彼女の細くて白い腕では無理だったらしい。包丁で刺し殺すことはできるのに。男の太い肩は、冷たいコンクリート地面から数センチ浮いただけで終了する。
ああ、無理だ。重いね、と彼女は言った。
それから腰を下ろしたまま、上目使いに僕を見上げた。
「藤崎君、持ち上がる?」
わからない。でも、ずるずると引きずる程度ならできるかもしれない。
「“引きずる”じゃダメなんだよ。血の跡、残っちゃうじゃん」
そうだね。
「私が足の方持つから、藤崎君、頭の方持って」
血に濡れた男の体は意外なほどに重かった。
年齢でいうと、たぶん、三十~四十代くらい。たぶん、僕の父さんや担任の先生と同じくらいの年齢の男。痩せているわけではないが、特別に太っているわけでもない。本の中でよく見かける、中肉中背というのは、これくらいの体型の人間をいうのだろう。
死体は重くなるというのは本当らしい。死体でも何でも、完全に力の抜けた人の体というものは意識のある体よりもよっぽど重量がかかりやすいのだ。
先ほど魂の抜けたばかりの男の体はまだまだ生温かくて、でも、間違いなく生きている人間の体温とはどこか違っていて、僕は室温に数時間放置された鮭だとか鰺だとか、腐りかけた生魚を連想させた。
僕が頭を持ち、和泉紗枝が足を持ち移動する。仰向けになった男の体は月の光に照らされて、和泉紗枝に刺された箇所が露わになり大量に流れた血液がぬめぬめと光った。
「どこに運ぶの?」
「もうちょっと」
小刻みに支持を受けながら、僕は男の傷を観察する。刺された場所は一か所ではないらしい。ボタンの取れたスーツの真ん中は、何か所も何か所も刃物で刺されたような形跡が残されて、例えて言うならばカッターナイフで何度も刺された段ボール。
案内されたのは、公園の隅の、公衆トイレの裏の裏。ここは、滅多に誰も近づかない。周りをたくさんの木々が囲っていて、昼でも夜でも関係なく薄暗い。いつだったか、小さな子供が変質者に連れ込まれていたずらされたという話が流れたこともある。
そんな変質者の集会所のような場所に二メートルか三メートルほどの棺桶上の穴を掘り、男の体を突っ込んで湿気を含んだ土をかけた。
「藤崎君、そのパーカー」
「なに?」
「血、ついてるよ」
僕は血のついたパーカーを男の体と一緒に放り込んだ。
ざっくざっくと、目の前にある穴に土を掛けながら、僕は彼女に問う。
「この人、誰?」
彼女は、スコップを動かす僕の手をじっと見つめながら僕の質問に簡潔に答える。
「私のお父さん」
ふうん。男の全身が土に埋まる。でも僕はまだ止めない。
「藤崎君こそ、なにしてたの?」
これは彼女の疑問だ。僕はスコップを動かしながら視線だけ彼女に向けて、僕もまた簡潔に答える。
「走ってた」
「走ってたの?」
「うん」
僕の答えに納得をしたのか、それ以上興味を抱くこともなかったらしい彼女は、長い睫毛を瞬かせると、自分の目の前で埋葬されていく自身の父親にぼんやりとした視線を向けた。
「ねぇ」
「なに?」
「藤崎君て、驚かないんだね」
そう言えばそうだね。
僕は、あの噴水の前で彼女が包丁を持って佇んでいた時こそ、盛大に驚いていたし興奮したものだけど、今となっては心臓もなにも大人しいもので、動揺もしていないし興奮もしていない。今、スコップを使い彼女の目の前で彼女の父親の死体に土をかけている時もスコップを操る僕の手はがちがちと震えているわけでもないし、手足が変にぎくしゃくしているわけでもない。僕自身、まったく平静で冷静だった。普通だったら、悲鳴をあげてその場を逃げ去るか、もしくは卒倒してもいいはずなのに。
僕は今、父親を殺した殺人犯の女の子の目の前で、血に塗れた中年男の体に土をかぶせている。
男の体すべてが土に埋まり、彼女の口から「もういいよ」という言葉が発せられ、僕はスコップを下ろす。
「藤崎くん、土、ついちゃったね。家に帰ったら、お風呂入った方がいいよ」
「和泉さんも、血、ついてるよ」
僕の言葉に彼女は小さく頷いて、「大丈夫だよ」と呟いた。
「天気予報、今日の明け方から雨降るんだって」
ああ、そういうことか。
先ほどの、噴水前の男の血液も、大雨に流されてきれいさっぱりなくなるというわけか。
「この死体、見つからないの?」
「見つからないよ。だって、こんな人のこと、誰も心配してないもの」
「お母さんは?」
「うち、お母さんていないの」
ああそうなの。
泥のついたスコップを木の根元に置いて、僕は瞼を瞬かせる。
「このシャベル、どうしたの?」
「それ?」
近所にあった、道路工事のところから勝手に借りてきたやつだ、と彼女は言った。
「欲しかったらあげるよ」
いらないよ。
盛り上がった土に適当に小石やら葉っぱやらを吹きかけて、(そんなことしなくても、こんな怪しげなところにくる人なんて滅多にいないと思うけど)僕と彼女はその場所を出る。
「ありがとう」
公園の水道で血のついた顔を洗いながら、彼女は言った。
「私一人だったら、多分ここまでできなかった。ありがとう」
僕は使い道のないシャベルを持て余しながら、「いいよ」と答える。僕のその言葉に、彼女はうっすらと笑う。
「藤崎君は、毎日走ってるの?」
「うん。わりと。気分転換、ってやつ」
「藤崎君は」
「うん?」
彼女は少し目線を下げて、こう言った。
「何も聞かないんだね」
聞いてほしいのかな、と思う。
でも僕は、そんな気の利いた事を言えるほど口がうまくないし、女の子との会話に慣れているわけでもない。
「ねぇ、藤崎君」
「なに?」
「どうして、“あれ”を手伝ってくれたの?」
なんでだろう。あのときはただ、流れるままにそうしただけなのだが。
改めて言われると、僕も自分の行ったことの異常性、不可思議性に疑問を抱く。
「わかんない。なんでだろう」
暗い雲の浮かぶ空を仰ぎ、首を捻る。彼女はそんな僕の行動をじっと見据えて、何か納得をしたように「そっか」と笑った。
僕は誰に言われたわけでもなく、暗雲の濃くなった天上を見上げる。黒い雲が黄色い月を覆っていた。
「ねぇ、藤崎君」
「うん?」
「私たち、“共犯者”だね」
ああ、そうか、と僕は納得をする。
ぐるぐると夜の闇を動かしていた風が僕の頬を撫でて、彼女の長い髪をゆるりと揺らした。鮮やかな月明かりに照らされて、彼女の白い頬がうっすらと光を帯びる。
その夜、僕は“共犯者”になった。
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