第一章 2
僕が夜、受験勉強の間をぬって家を抜け出すようになったのは、今年の八月になってからだ。
理由は簡単だ、切羽詰まっていたことと、単なる気分転換。
高校受験を目の前に控えた僕らというのは、学校でも家庭でも、僕は通っていないけど塾だとしても――大抵の場合、あーだこーだと手足を縛られて自由を拘束され続けているのだ。
そうして、何大付属の何高校とかそういうのを目指して期待されちゃっているような頭の良すぎる奴の中にはそういったプレッシャーに答えられなくてぐだぐだになっちゃうようなメンタルの弱い奴もいて、僕の周りにもそうして登校拒否になっているような奴もいる。実際に。
だから僕は、こうして深夜、誰も起きていないような曖昧な時間に布団の中を抜け出して街へ繰り出すことにしているんだ。
時計の針が午前0時を指す頃、僕はいつも眠りに落ちた家を出る。
町全体が寝静まっていることを確認し、僕は重い腰を学習机の椅子から下ろしてクローゼットの中から濃紺のパーカーとグレイのウィンドブレーカーを取り出す。
芒の生い茂るこの季節の月は非常に鮮やかで美しく、机の上に開かれたノートと参考書が月の光に照らされてきらきらと輝いていた。
物音を立てないように慎重に部屋の扉を開けて、意味もなくきょろきょろと廊下の隅から隅へ視線を巡らせる。息を潜めて隣の部屋の奥から聞こえる妹の寝息を確認し、ゆっくりと傾斜の緩い階段に足の裏を這わせる。
水を打ったように静かな家の中には、カシャカシャというウィンドブレーカーの擦れる音、きしきしと小さく床が軋む音が聞こえていた。
玄関先でもう一度慎重に家の中の空気を確認して、僕は靴箱の中から薄汚れたスポーツシューズを取り出した。これは今年の誕生日に買ってもらったものだ――緑色の柄のついたもので、学校での需要も家での需要の低いはずなのに、学校で使っているものよりも汚れていた。
夜の街は素敵だ。排気ガスをまき散らすような車は走っていないし、ごみごみとした人間も吐息をまき散らして歩いていない。普段危なすぎて歩けないような道路のど真ん中だって縦横無人に走れるし、どんなに危なっかしいところを走ったとしても、誰に咎められることもないんだ。絶対に。この時間、深夜の僕を見ているのは夜空に輝くお月様とお星様、それと誰でもない僕自身なのだから。
僕の住む
しん、と静まりかえった街を駆けながら、僕は色々なことを考える。
さっき机の上で解けなかった方程式。紙の上に書かれた有名な偉人の名言。昔の本の有名な一節。意味の捉えられないような文章や数字の一つ一つを頭の中に思い浮かべて、溶かしていく。予習と復習。学校の先生は、アニメとか漫画とかにうつつを浮かさないで真面目に勉強しろと、集中しないといい点は取れないというけれど、たまには気分転換も必要なんだ。全身に力を抜いて、体をほぐして、血のめぐりをよくする。そうすることで、僕の精神状態はちゃんと安定できるんだ。少なくとも、僕にとっては。
リズミカルに左右の足を動かしながら、時折僕は月の輝く夜空を見上げる。今日は少し、風が強い。確か天気予報では、今日の明け方くらいから土砂ぶりの雨が降り出すようなことを言っていた。きらきらと光るお月さまの前を、濃いめの雲が何度も何度も通り過ぎて地表の上に影を作っていった。
カシャカシャという音に僕の呼吸が混ざり合って、不可思議なリズムを作り出した。
夜の街は非常に不思議でミステリアスで、昼間あれほどまったりとした日常からは考えられないほど幻想的な世界を作り出す。
数時間前まで真っ赤なお日様に照らされてあかあかと光っていた木の葉も公園のベンチでさえも、夜の闇に紛れてはその輝きも美しささえも見ることができない。
昼間、近所の奥様だとか参考書に縁のない小学生たちで賑わっているはずの公園も、太陽の恵みがなければ昼間の社交的は雰囲気などどこへ行ったのか、ぐるりと周囲を取り囲んだたくさんの木々がひどく濃い暗闇を作り出して些か陰湿な雰囲気を作り出していた。
――お化けでも出そうだな。
そんな非科学的なもの、この年齢にもなって信用しようとか思わないけど。お化けとか幽霊だとか、この時期にはもう季節はずれもいいとこだけど。素肌にコートを羽織った変質者の一人や二人存在しても、不思議ではない。
僕としては、それほど変質者に興味があるわけでもないしそんなものに会いたいわけでもないのだけれど、会ってみたいという気持ちがないと言えばまた嘘になる。
僕は、こうして誰もいない夜の街を、街灯の下を走ることで、僕の未だ見たことのない何かに出会えることを心のどこかで期待している。
例えばそれが夜空に光る流れ星だったり、田んぼの水で輝く虫の色だったり、公園で密会を繰り広げるカップルでもなんでもいい。なんでもいいんだ。僕の日常にはありえない、未知の何か。
僕は日常にはない未知の世界を求めて夜の街を駆けているんだ。
月夜に照らされた深夜の街は、当たり前だが人がいない。木々の生い茂る公園には、僕のウィンドブレーカーの擦れる音だけが響き渡る。
しゃかしゃかしゃか。
しゃかしゃかしゃかしゃかしゃか。
腕に付けられた時計を見ると、0時30分を過ぎていた。そろそろ帰ろうか。明日も早いし、もうそろそろ寝ておこうか。
くるりと踵を返して出口の方向へ爪先を向けると、どこからが誰かの言い争うような声が聞こえてきた。
何を話しているのかはよくわからない。わかるのは男の人、と、たぶん女の人。男の人は結構大きな声で話しているのだが、女の人の方はごにょごにょという呟きにもよく似た話し方をしていて、僕の耳にはいまいちちゃんと届かなかった。
そのうち、男の人の声がだんだんと大きくなって、悲鳴に代わり、その声が途切れる。 僕の心臓がびくんと跳ねて、出口に向かっていたはずの僕の両足が動きを止める。
――なんだ?
男女の諍いだったらこの数カ月で何回か遭遇したことがある。変質者にはまだないけれど。
――また、カップル同士のいざこざだろうか。
まさか。たとえそれがそうだとしても、あんなにも激しい叫び声を残しておいて、そのあとこんなにも急に静かになったりもしないだろう。
まさかという疑問――もしくはそれにもよく似た淡い期待を胸に抱いて、叫び声の聞こえた方向へ足を進める。心臓がとくとくと脈を打って、全身がふるふると震えていた。
生い茂った木々の向こう側では、丸い形の噴水が天使の羽をつけた子供の像の中央から水を噴出していて、透明な水が月の光を反射させてきらきらと輝いていた。
その、きらきらと輝く水の前では一組の男女が佇んでいた。
いや違う。「佇んでいた」わけではない。
一組の男女がそこに存在していたというのは、それは事実だ。
僕とほとんど年齢の変わらないであろう、若い――言い方を変えればただ単に幼い――女と、灰色のスーツをキチンを纏った男(こちらはそれなりの年齢になっているのだろう) は上等なはずのスーツを血の色に染めて、公園の冷たいコンクリートの上に転がっていた。木々の間に佇んでいる僕の場所から、その女の表情はよく見えない。見えたのは、地べたに転がった男のぎょろっと見開かれた白い眼、血に濡れたスーツ、そこから流れる血液だけだ。
その男のことを冷たい瞳で見下ろすのは、髪の長い、小柄な女。可愛らしいともいえるであろうその顔に、男のものであろう血液を付着させて、目を見開いて地べたに這い蹲っている男のことを凝視していた。月の光を反射させるほどに白くて細いその手には、学校の授業で使うような長くて細い包丁を握っていて、ぎらぎらと輝くその先からはぽたぽたと音を立てて鮮血が滴っていた。
僕は思わぬ光景に声も出ずに、状況を把握することさえもままならず、ただただぼんやりとその光景を眺めていた。しゃぁぁぁぁ……と噴き出す泉水と目の前に転がった鮮血、それを照らす月光が、それらのことをひどく曖昧に見せていた。
ざり、と僕の右足が一歩踏み出して、木の葉を踏んで音を立てる。
その音に気がついたようにして、目の前の女が感情のない瞳を僕に向ける。
現実感のなさすぎるその光景に、僕は目を反らすこともその場から逃げだすことも起さずに、そのまま色のない水晶玉のような彼女の目線を勝ち合わせる。
そして彼女の顔がどこかでみたことがあると、心のどこかで認識する。
あの時、昼間の学校で。スニーカーを放り投げた僕を見て笑っていたあの女の子。
僕の学校の、隣のクラスの女の子だ。
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