第一章

第一章 1


 十六歳の高校生の女の子が実の父親を刺し殺した。

 凄惨な事件だったらしい。僕にとっては、あまり関係のない話だが。

 今日一日のすべての授業が終わりさぁ帰ろうという時に、学年ごとに集められて何かと思った。

 ひどく真剣な顔をした先生たちは学年主任を中心にマイクを握り、体育館の冷たい板の上に体育座りをした僕たちに向かい口々に言った。

「命は大切だ。君たちが今生きているのは、君たちのお父さんと、お母さんと、その前からの命がずっと受け継がれているという証拠だ。命をもっと大切にしなさい。失った命は、もう二度と戻らないんだ」

 そんなどこかで読んだことのあるような、何度も何度も耳にたこができるほど聞いた言葉の数々を聞き流し、適当に頷いて、フローリングに押し付けた腰をずらす。壇上に上がり熱弁を振るう学年主任はしわの濃い顔にさらにひどくしわを刻み、僕達中学三年生六クラス分の顔を端から端までじっと見る。馬鹿みたいだ。こんな話、まともに聞いているやつは三分の一もいないだろう。ほらみろ、隣のクラスの女の子なんて、もう十分も前からおしゃべりを始めている。僕はいつまでたっても新しい発見の来ない主任の話を聞き流し、欠伸をして頭を落とした。

 先生、どうでもいいから早くお家へ返してください。腰が痛いし眠いです。

 僕もその事件のことは知っている。今日の朝刊のトップを飾っていたのはその話だし、ニュースでも他の話題をすべて押さえて独占していた。僕と一つ違いか、と思ったのは事実だが、僕自身は壇上でマイクを握る教師のように驚愕することもショックを受けることもなかった。興味をそそられなかった、というとそれはまた嘘になるが、実際問題その事件自体はこのご時世特に珍しいことではなかった。

 十代の犯罪が新聞の社会欄のトップを飾るなんてしょっちゅうだ。つい先日は小学生の女の子が同級生をナイフで切りつけてニュースになったし、中学生が学校に放火して問題になったこともあった。

 だからこそ先生たちは、未成年者の事件が起こるたびに僕たちを集めてこういった集会やら朝会を開くのだろうけれど、その意味は正直皆無に等しい。なぜなら僕らは、先生たち大人の話を何一つまともに聞いていないから。こんな話、聞くだけ無駄だ。僕の前に座っているやつは、開始直後二分で夢の世界に飛び立っている。

 僕もまた胡坐をかいて頭を凭れた目を瞑り、頭の中で次のテストに出るであろう三平方の定理の復習をする。直角三角形の直角をはさむ二辺の平方の和は斜辺の平方に等しい。a2=b2+c2。∠ACB=90°となる直角三角形ABCにおいて各辺の長さをBC=a、CA=b、AB=cとするとa2+b2= c2になる。などと、頭の中に直角三角形の図を置いてちくたくちくたくと時間が過ぎるのを待ちわびる。

 現代社会の少年少女は、いくらか荒みすぎていると今日のテレビでニュースキャスターが言っていた。両親の不在や愛情の不足、猟奇的すぎるホラー映画や性的描写の強い少女マンガ。夢と現実の曖昧すぎる境界線。

 父親を包丁で刺し殺した女の子も学校に炎をつけた男子中学生でさえも、埼玉県の端っこで普通に普通の学校生活を送る僕にとっては全くの別世界の出来事であり、彼らは僕の前にある日常を決して壊してはくれなかった。

 僕の目の前にある期末テストだとか受験勉強だとかマラソン大会だとか服装にうるさい風紀委員だとか、彼らがどのように騒がしい行動を起こしたとしても、それらの問題は相も変わらず僕らの前に立ちはだかったままだ。

 吹き飛ばすどころか、それこそ逆にめんどくさいことを増やしくれてさえいるようで、体育館の冷たい床から解放されてやっと教室に戻った僕は配られたプリントを見て少しばかりうんざりする。「命のついて思うことを書きなさい」「今、不安に思っていることや悩んでいることはありますか」

 やめてくれよ、まじで。


 僕の後ろの席では、事件の内容を知らないクラスメイト達がうだうだと愚痴を言いながら手に持ったペンを持て余していた。

「ていうかさ、なにその事件て」

「父親が娘を刺し殺したんだって」

「ちげぇよ、娘が父親を刺し殺したんだよ」

「げぇー。まじでー?」

「つうか、超迷惑じゃね? なんで俺達こんなことしなくちゃいけねーの?」

「そうだよ、俺今日塾あるから早く帰んないといけないんだけど」

 それらの会話をすべて聞き流し、安っぽいわら半紙の上に書かれたたくさんのスペースを適当に埋めて、僕は鞄を抱えてさっさと帰る。書き終わったやつから帰っていいのなら、僕は適当に書いて早く帰る。一番早く書き終わった僕のことを、やたら感心に見てくる先生の目が気になったけどそんなこと関係ない。

 こんなもの、書くだけ無駄だ。書くだけならば誰でも出来る。こんなことをしている間にも、どこかで誰かがまた、両親を刺し殺しているのかもしれない。

 同じ学年の誰よりも先に下駄箱について、僕はスニーカーを放り投げる。あまりに強く投げすぎて、片方の靴が昇降口の向こう側に飛んで行ってしまった。僕は白ソックスの裏側が汚れることも気にせずに、片方だけ足を突っ込んでアンバランスな格好のまま泥と土でまみれた昇降口を歩いて行く。玄関の外まで来て裏返ったスニーカーを手に取ると、後ろの方からくすくすという控えめな笑い声が聞こえた。首だけを動かして振り向くと、隣のクラスの女の子が二人片足だけ靴を履いた僕のことを見て失笑していた。思わず顔を顰めると、くすくすと笑っていた女の子の片方と目が合って、気まずそうに目を逸らされた。僕が前を向いてよたよたともう片方に足を突っ込んでいると、後ろからまた

「ほらー。紗枝が笑ってるから怒っちゃったじゃーん」

「違うよー。まりっぺがずっと見てるからだよー」

 など小突きあう声が聞こえたが、無視。


 僕は受験勉強だとかテストだとか学校だとか色々なものを抱えたまま学校を後にして、いつの間にか学生服に手を突っ込み、帰路を急ぐ。

 僕が歩いた田圃と田圃の真中は相変わらず平和な田舎だったし、僕が見上げた空だってどこからどう見てもなんの変哲もない秋の空だ。僕はぼんやりと口を開けたまま十月の夕焼けにトンボが飛んでいく様を見守って、息を吐く。

 この、僕と同じ色の空の下のどこかしらに、父親を殺した女の子がいるのだなと思いながら。

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