夜を駆ける
シメサバ
プロローグ
プロローグ
夜の冷たい空気が肌を刺していた。
一体何時なのだろう、壁に掛けられた桃色の時計がちくたくちくたくと針を刻み、静寂に包まれた世界に音を打っている。
漆黒の闇に包まれた部屋の中で電気もつけず、布団に包まったまま、彼女はがたがたとい震えていた。ひどく寒い。頭痛がする。全身の穴という穴から汗が噴き出し、充血し真っ赤になった瞳を見開いて、対して気温も低くないはずなのに。
思えば数日前から何かおかしかったのだ。時々、ふらりと眩暈やら立ちくらみを起こすこともあったし、熱もないくせにやたらと体が腫れぼったかった。妙にいらいらと殺気だって、友人に「何かあったのか」と声をかけられたりもした。
理由はない、し、熱もない。そうなる理由も見当たらないはずなのに。
厚い布団を頭から被ったまま、はーはーと荒く呼吸をして息を整え、心を落ち着けようとする。
頭が痛い。耳鳴りがする。
こんなにも静かなのに、時計の音しかしないのに。そんな、些細な時計の音が。上がった自分の息の音が。耳鳴りが。布団と布団が擦れる音さえもうるさくてたまらない。
覆った布団の隙間から目を凝らし、枕元にあるデジタル時計の文字を見る。1:22。この街の住人はきっと、すべて寝てしまっている。
もう一度布団に埋もれ、きつく固く瞼を閉じて夢の世界に飛び立とうと努力を試みる。明日はまだ学校がある。テストの追試が――塾の模試だって残っている――眠い、眠たい、眠らなきゃ。眠らなくきゃ。もし今度また、あんな点数を取ってしまったら。もしもう一度追試なんてことになってしまったら。あいつが、あいつが――
あいつが?
時計の針と、自分の荒い呼吸の音を聞きながら考える。
もしもあいつがいなかったら。わたしは、こんなにも辛い思いをしなくても済むし、些細なことでいちいち怒られなくともいい。こんなにも窮屈な生活をしなくてもいい。学校に行かなくても塾に行かなくてもいい。あいつさえいなければもっと、もっとわたしは――
重く覆った布団を剥いで、冷たい空気の這う床に素足を張り付けて、深夜の匂いの立ち込める廊下を歩いて行く。はぁはぁという呼吸を小さく響かせながら床を軋ませて、同じリズムで細い肩を上下させる。明かりはつけない――生まれてからもう、十何年も住み続けているこの家だ。明かりなどなくとも、どこに何があるのかくらいわかる。
目的の部屋の前まで辿り着き、自分の部屋のものよりも一回り大きいドアノブに手をかけてゆっくりと扉を開く。隙間から見えるのは分厚い書物の大量にしまわれた本棚と、整理整頓のされた机。その奥にある一組のベッド。
足音を立てぬように慎重にカーペットに足先を沈ませて、この家の家主の寝入るベッドの前までたどり着く。
こいつが、すべての根源だ。わたしの苦しみの、悲しみの。すべての元凶だ。
こいつさえいなければ。
唇を噛みしめ両手を握り閉めると、右手に持っていたそれを高く振り翳した。 鈍く光る、料理用の、数時間前に、母親が魚の頭を切り取りさばいていた包丁を―― 短く別れの言葉を呟くと、刃の重さにすべてを任せ、その凶器を実父の胸に振り下ろした。よく磨かれた包丁が、窓から差し込む満月の光に照らされてきらりと怪しい光を帯びる。肉に凶器の刺さる音と実父の血液の飛び散る音、驚愕と恐怖、痛みに満ちた悲鳴が響き渡った。
すべての感情を手元に預け、刃の重みに任せたまま、何度も何度も振り下ろした。手元が染まり、パジャマに赤い飛沫が飛んで、部屋のすべてが真っ赤に染まるまで。父親の声が誰かを呼んで、彼女の刃を止めるまで。群青の空に浮かぶ黄色い月が、暗い雲の隙間に隠れるまで。何度も何度も何度でも。
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