④
「おはよう、そんじゃ昨日の続きを……」
「……あの、ヘンゼルさん」
「ん?」
「昨日は結局、『小麦粉』を使われませんでしたけど……」
結局気になってしまった。だから、わざわざこのタイミングで言った。
「ああ」
「……と言いますか、昨日の話を思い出したんですけど、『クレームブリュレ』は『プリン』に似たものなんですよね?」
「うん」
「じゃあ『小麦粉』は使わないんじゃ……」
実は、その事も気になっていた。すると、ヘンゼルさんは「ははは……」と小さく笑った。
「でもまぁ、実は朝早くに『クッキー』の生地を仕込んでおいたんだけど……」
「えっ」
一応、このお店にも『米粉を使ったクッキー』がある。
しかし、ヘンゼルさんのこの言い方は、『小麦粉』を使った『クッキーの生地』を作った……という事だろう。
「使ってみたんだけど……まぁ、あれだね。今まで『小麦粉』を使っていなかったからさ、不思議な緊張感があったんだけど」
「……」
確かに、今まで避けて来ていた事に再び挑戦する時は、やはり緊張してしまうのだろう。
でも、ヘンゼルさんは小さく「フー」と息を吐いた。
「意外に……なんともなくて、あの『
「そう……だったんですか?」
「うん……。やっぱり、人って『意識』一つで変わるもんなんだなぁって」
「……意識、ですか」
そんなに「本当に、なんだったんだ?」と首を傾げているヘンゼルさんを見ながら、「本当に克服出来たんだ……」と感じた。
だって、克服していなければこんな言葉も出て来ないはずだから……。
でも、今まで出会った『人間』や『動物』たちを思い返してみると、何らかの理由で『トラウマ』を抱えている場合、時間を置いてもう一度トライして克服出来る事も多い。
「今回を通じてさ、より思ったよ」
「何でしょう?」
「何事も経験なんだな……って」
「経験者は語る……ですか?」
「克服したばかりだけど」
「調子……いいですね」
すっかり調子を取り戻したヘンゼルさんは、「お陰様で」とニコリと笑いながら昨日冷やしておいた『ボウル』を取り出した。
「それで、昨日行っていたこの辺に……」
「流し込むんですね」
ゆっくりと、寝かした生地を『ラメキン』の更に流し込み、ラップをし、前もって準備していた、湯気のたっている『蒸し器』にそっと……入れた。
「今回も蒸すんですね」
「うん弱火で15分程蒸すんだよ」
「あっ、プリンに似ているから……」
「そうそう。ここら辺、似ているよね」
火が通ったのを確認した後ラップを外した。その後、冷蔵庫に入れて冷やし、
「この間に……」
「あ……」
ヘンゼルさんは事前に用意していた洋ナシを薄く切った。
「後は、洋ナシをその『生地を流し込んだラメキン』の上に並べて、その上から『ブラウンシュガー』をかけてバーナーで『ブラウンシュガー』を溶かして完成……と」
「どうされました?」
しかしなぜか突然言葉を切ったヘンゼルさんに違和感を覚え、僕は思わず尋ねていた。
「俺が『父さん』のところに行ったらさ」
「?」
「マシュー、冬眠しているんじゃないかなぁ……って思ったんだよ」
「……そんなにかかりますか?」
僕はてっきり『お父様』のところに行って1、2週間で帰って来るものだと思っていた。
「分からない。もしかしたら、よくなる可能性も否定出来ないし、もっと早く帰って来られるかもしれない……正直、分からないんだよ」
「……」
しかし、グレーテルさんは「もう長くない」とは言っていたものの、どれくらい……とまでは言っていなかった。
だからこそ、ヘンゼルさんは「もっと長期にわたるかも知れない……」と感じたのだろう。
「だっ、大丈夫ですよ」
「えっ」
「僕は今まで1人で冬を越してきました。だから……大丈夫です」
「……そっか」
だから……大丈夫だ。
僕は母親と別れた後ずっと『1人』で生きてきた。このお店に拾われてから、1人ではなくなった。
今ではそれが『普通』になっていたけど、本当はこの状況が『異常』なんだ。
「でも、準備は必要だよね。必要なモノがあったら言ってよ。すぐに順次するし、俺も出来る限りの事はするつもりだから」
「ありがとうございます。ところで、お父様では『クレームブリュレ』以外のモノを作るご予定は……」
「……あっ、そっか。クリスマスがあるんだよね……。ケーキとか頼まれそうだな」
ヘンゼルさんはどうやら『クリスマス』という行事を完全に忘れてしまっていたらしく、僕の言葉を聞いて思い出し、何やらブツブツと呟いていた――。
◆ ◆ ◆
「そんじゃ、行ってきます」
「はい、お気をつけて」
「留守は任せたわよ、マシュー君」
「いや、冬眠していたらどうしようもないだろ」
「うーん、そうだけど一応形式としてね」
「何だよ。その形式……って」
「……」
ヘンゼルさんは呆れ切っていたが、そんな
「そんじゃ、行きましょうか?」
「はい」
グレーテルさんの言葉を受け、ヘンゼルさんは自分の荷物を手に持ち、そのままゆっくりと歩いて行った……。
「……」
静まり返った店内は、いつも以上に広く感じ、さらに沈黙を強くさせていた。
「今まで1人だったのに」
本当に今更ではあったけど、僕は随分、この『1人』の雰囲気が苦手になっていた。それに……どこか怯えていた。
もし、このままヘンゼルさんが戻ってこない。なんて事になったら……そんな根拠のないモノがこの店内の広さと沈黙によって、さらに僕を不安にさせる。
「……準備しなくちゃ」
今まで冬眠の準備も散々やって来た事のはずなのに、それを一瞬忘れてしまっている。
「いや、ちゃんと待っていれば帰って来るだろうし、さすがに春までは……」
かからないだろう……。でも、そんな……根拠も確証の何もない事を自分で言い聞かせ、そうする事で僕は自分を落ち着けさせていた。
だからこの時の僕は多分。ヘンゼルさんに出会う少し前の『冬眠中』に『住んでいた森』がなくなった……。
この『出来事』が「自分の住んでいる場所をまた……なくしてしまうのでは?」という『恐怖心』から来る『トラウマ』を僕の知らないうちに抱えていたのかも知れない。
僕は、そんな不安に
「……ヘンゼルさん、帰ってきますよね」
でも、ヘンゼルさんは……僕が『冬眠』を始める時期になっても帰って来る事はなかった。
それでも、僕は自分で作った『巣穴』に潜った時、ヘンゼルさんの帰りを思いながら、そのまま長い『冬眠』という眠りについた……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます