「おはよう、そんじゃ昨日の続きを……」

「……あの、ヘンゼルさん」


「ん?」

「昨日は結局、『小麦粉』を使われませんでしたけど……」


 結局気になってしまった。だから、わざわざこのタイミングで言った。


「ああ」

「……と言いますか、昨日の話を思い出したんですけど、『クレームブリュレ』は『プリン』に似たものなんですよね?」


「うん」

「じゃあ『小麦粉』は使わないんじゃ……」


 実は、その事も気になっていた。すると、ヘンゼルさんは「ははは……」と小さく笑った。


「でもまぁ、実は朝早くに『クッキー』の生地を仕込んでおいたんだけど……」

「えっ」


 一応、このお店にも『米粉を使ったクッキー』がある。


 しかし、ヘンゼルさんのこの言い方は、『小麦粉』を使った『クッキーの生地』を作った……という事だろう。


「使ってみたんだけど……まぁ、あれだね。今まで『小麦粉』を使っていなかったからさ、不思議な緊張感があったんだけど」

「……」


 確かに、今まで避けて来ていた事に再び挑戦する時は、やはり緊張してしまうのだろう。


 でも、ヘンゼルさんは小さく「フー」と息を吐いた。


「意外に……なんともなくて、あの『蕁麻疹じんましん』はなんだったんたって感じだよ。脱力しちゃったよ」

「そう……だったんですか?」


「うん……。やっぱり、人って『意識』一つで変わるもんなんだなぁって」

「……意識、ですか」


 そんなに「本当に、なんだったんだ?」と首を傾げているヘンゼルさんを見ながら、「本当に克服出来たんだ……」と感じた。


 だって、克服していなければこんな言葉も出て来ないはずだから……。


 でも、今まで出会った『人間』や『動物』たちを思い返してみると、何らかの理由で『トラウマ』を抱えている場合、時間を置いてもう一度トライして克服出来る事も多い。


「今回を通じてさ、より思ったよ」

「何でしょう?」


「何事も経験なんだな……って」

「経験者は語る……ですか?」


「克服したばかりだけど」

「調子……いいですね」


 すっかり調子を取り戻したヘンゼルさんは、「お陰様で」とニコリと笑いながら昨日冷やしておいた『ボウル』を取り出した。


「それで、昨日行っていたこの辺に……」

「流し込むんですね」


 ゆっくりと、寝かした生地を『ラメキン』の更に流し込み、ラップをし、前もって準備していた、湯気のたっている『蒸し器』にそっと……入れた。


「今回も蒸すんですね」

「うん弱火で15分程蒸すんだよ」


「あっ、プリンに似ているから……」

「そうそう。ここら辺、似ているよね」


 火が通ったのを確認した後ラップを外した。その後、冷蔵庫に入れて冷やし、


「この間に……」

「あ……」


 ヘンゼルさんは事前に用意していた洋ナシを薄く切った。


「後は、洋ナシをその『生地を流し込んだラメキン』の上に並べて、その上から『ブラウンシュガー』をかけてバーナーで『ブラウンシュガー』を溶かして完成……と」

「どうされました?」


 しかしなぜか突然言葉を切ったヘンゼルさんに違和感を覚え、僕は思わず尋ねていた。


「俺が『父さん』のところに行ったらさ」

「?」


「マシュー、冬眠しているんじゃないかなぁ……って思ったんだよ」

「……そんなにかかりますか?」


 僕はてっきり『お父様』のところに行って1、2週間で帰って来るものだと思っていた。


「分からない。もしかしたら、よくなる可能性も否定出来ないし、もっと早く帰って来られるかもしれない……正直、分からないんだよ」

「……」


 しかし、グレーテルさんは「もう長くない」とは言っていたものの、どれくらい……とまでは言っていなかった。


 だからこそ、ヘンゼルさんは「もっと長期にわたるかも知れない……」と感じたのだろう。


「だっ、大丈夫ですよ」

「えっ」


「僕は今まで1人で冬を越してきました。だから……大丈夫です」

「……そっか」


 だから……大丈夫だ。


 僕は母親と別れた後ずっと『1人』で生きてきた。このお店に拾われてから、1人ではなくなった。


 今ではそれが『普通』になっていたけど、本当はこの状況が『異常』なんだ。


「でも、準備は必要だよね。必要なモノがあったら言ってよ。すぐに順次するし、俺も出来る限りの事はするつもりだから」

「ありがとうございます。ところで、お父様では『クレームブリュレ』以外のモノを作るご予定は……」


「……あっ、そっか。クリスマスがあるんだよね……。ケーキとか頼まれそうだな」


 ヘンゼルさんはどうやら『クリスマス』という行事を完全に忘れてしまっていたらしく、僕の言葉を聞いて思い出し、何やらブツブツと呟いていた――。


◆ ◆ ◆


「そんじゃ、行ってきます」

「はい、お気をつけて」

「留守は任せたわよ、マシュー君」


「いや、冬眠していたらどうしようもないだろ」

「うーん、そうだけど一応形式としてね」


「何だよ。その形式……って」

「……」


 ヘンゼルさんは呆れ切っていたが、そんな姉弟きょうだいのやり取りも、見ている側からは微笑ほほえましい。


「そんじゃ、行きましょうか?」

「はい」


 グレーテルさんの言葉を受け、ヘンゼルさんは自分の荷物を手に持ち、そのままゆっくりと歩いて行った……。


「……」


 静まり返った店内は、いつも以上に広く感じ、さらに沈黙を強くさせていた。


「今まで1人だったのに」


 本当に今更ではあったけど、僕は随分、この『1人』の雰囲気が苦手になっていた。それに……どこか怯えていた。


 もし、このままヘンゼルさんが戻ってこない。なんて事になったら……そんな根拠のないモノがこの店内の広さと沈黙によって、さらに僕を不安にさせる。


「……準備しなくちゃ」


 今まで冬眠の準備も散々やって来た事のはずなのに、それを一瞬忘れてしまっている。


「いや、ちゃんと待っていれば帰って来るだろうし、さすがに春までは……」


 かからないだろう……。でも、そんな……根拠も確証の何もない事を自分で言い聞かせ、そうする事で僕は自分を落ち着けさせていた。


 だからこの時の僕は多分。ヘンゼルさんに出会う少し前の『冬眠中』に『住んでいた森』がなくなった……。


 この『出来事』が「自分の住んでいる場所をまた……なくしてしまうのでは?」という『恐怖心』から来る『トラウマ』を僕の知らないうちに抱えていたのかも知れない。


 僕は、そんな不安にさいなまれながらも僕はヘンゼルさんの帰りをずっと待った。それは、『冬眠』になるまで……


「……ヘンゼルさん、帰ってきますよね」


 でも、ヘンゼルさんは……僕が『冬眠』を始める時期になっても帰って来る事はなかった。


 それでも、僕は自分で作った『巣穴』に潜った時、ヘンゼルさんの帰りを思いながら、そのまま長い『冬眠』という眠りについた……。

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