必要として、

 あの日、あなたと初めて出会って、誰かの心に初めて触れた気がして。そして私にも心があることを知ったのです。


***


 おにいさんに連れられるまま、そこそこ高層のマンションに飲み込まれていく。オートロック、っていうんだっけ。大きなガラス張りの入口は侵入者を拒絶する。それに比べたら明らかにサイズ感の間違えている小さな黒い箱状のものに、数字キーが並んでいて、見ていても分からないくらい慣れた手付きで彼はロックを解除した。四桁くらい押した気がするけど、見えなかった。なんだそれ、魔術か、かっこいいな。


 そうこうしていたら、手を引かれるままに連れられ、そして開いた扉に向かって、グイーっ、と押し込まれる。どうやらエレベーターのようだ。

「ちょっと、」

 文句を言おうとすると、彼は自分の口をマスク越しに手で覆い、眉を顰めて言う。

「お願い、この中では喋らないで」

 理由は分からないけれど随分深刻そうなので黙って頷く。おにいさんは安心したように目を閉じた。相変わらず口元は抑えたままだけど。扉と反対側がガラスになっていて、外が見える構造になっていた。思わず歓声を上げそうになって、ハッと気付いて彼を盗み見る。大丈夫、バレていない。でも彼は大丈夫そうじゃなかった。気分が悪いのか目を閉じたまま

青白い顔をしている。エレベーターが怖いのかな。なら何故こんな高い所に住んでいるのだろう。家族が住んでるのかしら。

 二十六階。エレベーターが止まると真っ先に降りるだろうと思っていた彼は、どうぞ、と私を促してくれた。自分が弱っているのに気遣いまで出来るなんて。私は相当な当たりを引いたのかもしれない。少し歩いて突き当たり。おにいさんはストラップなどが一つも付いていない、剥き出しの鍵をポケットから取り出して扉を開け、また私を促した。

「お邪魔しまーす……」

 他人の家、というもの自体初めての経験だ。否応なくびびってしまう。

「ごめんね、スリッパ、予備がないんだ。僕のを使って」

「お、お構いなく……?」

「だめ。女の子が体を冷やしちゃいけない」

 まただ。優しい。……彼女とか、いそう。だとしたら、彼女さんに申し訳ないな。悪いことは多分しないと思います、万が一何か起きたらごめんなさい。と、いるかどうかも分からない相手に本気の謝罪をしてから、そのスリッパに足を入れた。

 おにいさんは随分とテキパキ動き、部屋の暖房を入れたり、お湯を沸かしたり、私に上着やら毛布やらを持ってきてくれたり。それからお風呂を沸かしてくれて、その間にクッキーと紅茶も頂いてしまった。至れり尽くせりすぎて、戸惑いしかない。一体私はどうすればいいのだ。こんなにあれこれしてもらっては、罰が当たる。怖い。

 忙しなく動き続けるおにいさんを止めるべく、廊下で目の前に踏み込む。うおっ、と小さく驚いて彼は、なに、と優しく問いかけてくれる。……覚悟を決める。言葉を発さなければ。でも出てきたのは威嚇じみた一言だった。

「で」

「……で、というと」

「買われたからには服従します、何をすればいいですか、何でもします」

 なんだか、変な顔をされてしまった。と言っても、軽蔑とか憐れみとか、そういうんじゃなくて、なんていう感情なのか今の私にはさっぱり分からないのだけど、とにかく彼はすごーく変な顔をして、一言だけ零す。

「……君って変わった子、だね」

「そうでしょうか」

「言われたことなかった?」

 言われたこと、と考えてみて、すぐに諦める。

「そもそも他人と関わることがなかったので分かりません」

「あー……そういう感じね……」

「そういう感じ、とは」

「いや、気にしないで」

「……そうですか」

 おにいさんの言葉の意図が分からない。分からないから困惑するしかできない。いやだ。私は分かりたい。なに? この表しきれない感情は。痒いような、痛いような、甘いような、苦いような、この心地は。

「とりあえず、もっと気軽に話しませんか」

「気楽に?」

 彼は私を誘導し、再び暖かい部屋へと押し戻す。ソファに座らされ、まだ残っているカップを渡された。おにいさんは私の左手の床にしゃがみ込む。床と言ってもそこには、ふかふかのマットが敷いてあるから彼の方も寒くはない。

「ええ、友達みたいに」

「……友達」

「買う買われるではなく、友達になりましょう、……どうです?」

 巫山戯ている、ことはなさそう。本気で言っているみたいだ。自分で言うのもなんだけど、得体の知れない変な女だと思う、そんな人間に自分の欲望をぶつけるならいざ知らず、「友達になろう」?

 この人、相当、変だ。

 でも、とても面白い。

「……あなたがそう言うのなら」


 名前も知らない誰かと私は、「友達」になることにしたのでした。

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