運命なんて、

 ただ、人の温もりが欲しいと思った。

「おにいさん」

 冬。雑踏。嫌悪感。誰も僕の存在なんて証明してはくれない。それでも腹は空いてくるし、人肌が恋しくなったりもして、漏れなくそういう感情によって、自己を卑下する。

 閉塞感。疎外感。絶望感。言葉でなら幾らでも存在するけれど、僕の心の内側をそっくりそのまま表せる言葉なんて何一つなくて。それは僕を世界がグルになって迫害しているかのようで。それが被害妄想でしかないことも分かってはいるのだけど、でも、それでも。

「おにいさん、ってば」

 ジャンパーが突如、ぴん、と引っ張られた。ぐいん、と体が束の間自由を失う。


「……誰?」


 明らかに薄着すぎる女性が僕の裾を掴んで引っ張っていた。知らない人だ。多分。人の顔を覚えるのが苦手な僕としては自信はない。けれども多分、僕を知ってる人なら名前を呼ぶし、僕の知ってる人の中にはこんな風に僕を呼び止める人なんかいない、はず。

 ところが僕の問いかけなんて無視した女性はこう言った。堂々と言ってのけた。


「おにいさん、私のこと、買いませんか」


***


 温もりなんか、要らなかった。ただ、安らげる場所が欲しかった。


『あれはウチの子じゃありませんから』


 嫌な言葉はなかなかこびり付いたまま消えやしない。それでも私は息を辞めることが出来ないのだ。心が死んでも、体は生きることを放棄したりしない。何度も何度も願ったし、実行だってしたのに、私は未だにこうやって二本の足で立っているんだもの。

 そろそろ所持金も底を付いてしまいそうだ。衝動的に飛び出した施設。持っていたお金なんてたかが知れていた。服装だって着の身着のまま。流石に冬の、年末近くの外を、防寒着はパーカーのみだなんて自殺行為にも近いのだろう、擦れ違う人が私を哀れんだり訝しんだりしているのだろう、変な顔をしながら通り過ぎていく。そう。どんなに気に止めたって、変な顔をしておしまい。その程度の存在でしかないんだよね、私は。

 何だかとっても疲れてしまって――何しろ施設を飛び出してから碌に眠っていない――、お腹も空いているし――この街に二四時間営業のファストフード店が山ほどあって助かった。安価で、そして人の流れも激しいから私一人くらい誰も気にしない。かといって成長期のこの体はそんな程度の食事では満たされない――、何でもいいからとにかく腹に詰め込んでゆっくり眠りたかった。その為ならこの体くらい、どうなったって。それが本末転倒だと分かってはいるけれど、でも、そうでもしないと自分の価値が何一つないまま、あの人達の言葉が、表情が、脳裏に焼き付いて離れてくれないから。

 ふと、顔をあげた。気分だったのか、必然だったのか、はたまた、運命か。いや、そんなものないって分かってる。だからそれはきっと、ただの気紛れだったんだ。それでも、そこにいた人に心も目も奪われてしまったのは、嘘なんかじゃないって、誰か、肯定してよ――。

 何も無かったようにすれば、いい。何も行動しなければ、きっと、痛い思いなんてしなくて済む。頭では分かっていて、体を留めようとするのに、なのに。


「おにいさん」


 私の足は一歩を踏み出し、喉が勝手に発声する。自分より少し年上くらいかな。優しそうな瞳はマスクで隠れた口元の不安を掻き消す。けれど振り向いてはもらえない。そのまま気付かないでいて、という心と裏腹に、体は尚もその人を追う。

「おにいさん、ってば」

 ジャンパーの裾を、掴んでしまった。思っていたよりもおにいさんの体が私へ傾いて、焦る。力、強かったのかな。変な子って思われる、よね。懸念通り、振り向いたその人の眉間には皺が刻まれる。


「……誰?」


 あ、痛い。その視線は、痛い。


『別に必要ないので』


 うるさい。今は蘇らないでいて。

 お願いだから、私のこと、必要としてください。あなたの為なら私、なんだってしますから。

 そんなこと思ってしまった自分に恥じらいを覚える。そして、驚く。私、そんなにこの人のこと、好きなの? 今初めて見かけただけの人が? まさか、この私が、一目惚れ? いやいや。有り得ない。今なら、人違いでしたー、って立ち去ればいい。そうだ。そうしよう。これ以上惨めな気持ちでいるのは、嫌だ。

 と、決意したはずなのに、私の言葉は更に可笑しなことを紡ぐのだ。


「おにいさん、私のこと、買いませんか」

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