第204話 もしもあなたが



『心界とはいわば、人間が肉体を持っては入れぬ別の空間です。夢であったりあの世であったり神の領域であったり……そういったものの総称ですね』

「なるほど。人外はどうして心界を持っているんだ?」

『そこから彼らが生じたから、でしょうか。或いは本質が在る場所か、帰りたいと願う場所か。彼らの本性と密接に結びついているのが心界です。彼らは己の半分を常にそこに置いているのですよ』

 そんな会話を誰かとしたことを、シシュは覚えていない。

 ただそれを聞いた時、「妻はあの冷たい石室に半分いるままなのだろうか」と思っただけだ。

 彼の手が届くのは残りのもう半分しかない。


 それとも彼女の同族となった今は、石室にいる彼女の孤独に少しでも寄り添えているのだろうか。



 記憶はない。願いも祈りも流れてしまった。




                 ※



 ――彼女の目を見られなくなった。

 原因は分かっている。自分の娘だという不思議な少女に妻になるはずの女のことを聞いたからだ。

 顔から火が出るとはああいうことを言うのだろう。ただもう恥ずかしかった。自分がまるで、泥だらけの手で繊細な細工菓子を掴み取ろうとする野卑な者に思えて仕方なくなった。

 ただでさえサァリは食事から着替えに至るまで彼の世話を焼いてくれていたのだ。それは彼女が寛大で、自分に恩を感じてくれているからで……彼から欲を向けられるなどとは想像もしていないだろう。シシュ自身も、庭先に落ちている石に好かれたり憎悪されているなどとはいちいち想定しない。それと同じだ。


 だからもう、自分の浅ましさが耐えきれずに消えてなくなりたくて、そのことを翌日サァリに切り出した。


「――この館を出たい?」

「ああ、勝手な申し出ですまないが……」

「どうして?」


 即座に問うてきた声は、彼の初めて聞くものだった。

 取り残された子供のような、なくなっていたものに気づいたような。

 完璧であるはずの彼女の、綻びを窺わせる声音。

 うつむいていたシシュは、その声につられてつい顔を上げる。


 彼女の青い瞳は、虚ろのように大きく見開かれて彼を見ていた。

 予想外の申し出をされて驚いているのだろう。シシュはその反応にまた申し訳なさを味わう。確かに彼も、庭先の石に「庭から出ていきたい」と言われたら驚く。


「いつまでもあなたの手を煩わせるわけにはいかない、と思う。一人で生活できるようにならなければ」

「わたくしは構いません。旦那様、あなたはいつまでもここにいらっしゃっていいのです」

「さすがにそれは……」


 たまたまあの暗い世界で、自分が彼女のもとに辿りついただけだ。

 確たるふさわしさがあるわけではない。着替えることさえ、人の数倍の時間をかけて休み休みようやくできるくらいだ。

 今はそれを彼女が手伝ってくれるが、彼女の手をそんなことに煩わせたくない、と思う。一人で暮らしていくなら、自分事に時間がかかっても気にならない。それが己だからだ。


 サァリは沈黙する。

 とても長い沈黙の後に、彼女は言った。


「あなたは、できること以上のことをしてくださった。その結果が今です。あなたのお体のことは、あなたご自身の価値には関わらないのです」


 よく通る声での、まっすぐな断言。

 それはいかにも彼女のものであると思う。

 慈悲深く、気高く、公正である。

 彼女はだから、決して自分から彼のことを切り捨てたりしないだろう。それが分かるからこそ、彼は己のことを己でしなければならない。


 シシュは可能な限り上体ごと頭を下げる。


「ありがたいお言葉だ。だが、俺自身が心苦しい。申し訳ない」


 慈悲を断ることは無礼でもあるだろう。

 けれど程度の問題もある。一生甘えて生きるなど無理だ。

 下げた頭に、サァリの深い溜息が聞こえる。


 彼女はしばらくして、とてもとても穏やかな、愛しげな声で言った。


「あなた様は、そういう方でいらっしゃいましたね」


 少し寂しげな、けれど何よりも納得したような。

 そんな言葉をかけてもらったことを、一生の思い出にしようと、彼は思った。



 サァリが彼のために、館から離れた一軒の家を用意してくれたのは、その翌日のことだ。



                 ※


「――やっと出てきたか! いやよくないんだが! 全然よくないんだが!」


 そんなことを叫びながら、見知らぬ男が玄関を開けて入ってくるのを、シシュは目を丸くして見やる。

 サァリが用意してくれた一軒家は、空き家であったものを整えたものだという。人通りの少ない裏通りに面しているが、表の色々な店に近く、行き来しやすいように部屋や玄関の段差も少ない。あちこちに手すりがつけられている。最大限、彼の生きやすさを考えて用意された家だ。


 そこにやってきた男は、何故か酒瓶を抱えていた。端的に自己紹介をしてくる。


「お前からすると初対面だな。俺はトーマっていう。よろしくな。お前の友人で、サァリの兄。あ、兄っていうのは身内だけしか知らない話な」

「……はじめまして、ですまない」

「いい。もっと早くお前と話したかったんだが、サァリが厳重に囲って出さなかったからな。事態は相当こじれてるけど、そのまま籠に閉じこめられるより全然マシだ。あ、肴は持ってきてるから座ってていい。俺が準備する」


 口を挟む間もなくてきぱきと座卓に酒の準備をする男は、サァリにあまり似ていない。

 ただその気さくさはどことなく安心するものがあった。対等な関係である、という空気が感じられるからかもしれない。

 トーマは包みを広げて魚の酢漬けを座卓に置くと、二人分酒を注いだ。それをシシュに勧めながら言う。


「……ありがとう」

「上手いぞ。神酒だからな。あ、でもお前は酔うと変なこじらせ方するからほどほどにな」


 そう思うなら水も用意して欲しいのだが、相手に言うことではない。シシュは一杯飲んだら水を汲みに立とう、と決めた。持ちやすいようにか、取っ手のある器に注がれた酒を手に取る。


「で、記憶のないお前に言うのも酷なんだけどな。――サァリをなんとかしてくれ」

「なんとか、とは」


 何ともしないために館を出てきたのだが、どういうことなのか。

 トーマは手づかみで酢漬けを一切れ自分の口に放りこむ。


「今のあいつは、まったく制約のない神なんだ。楔が外れてる。このままじゃこの大陸に神が君臨するぞ。さすがにそんなのを野放しにできないだろ」

「……神だったのか」


 驚きはしなかった。さもありなんと思った。

 むしろ彼女はそれ以外の何物でもないだろう。シシュは心から納得する。


「だが、それは彼女の意志で自由だろう」

「火が燃えてるのが火の自由だとしても、延焼は防ぐのが人間だろうが」

「それは……彼女にお願いすればいいんじゃないだろうか」

「俺の話は聞かなかったの! あいつに軛打てるのはお前くらいなんだよ。だからお前の方に頼みに来たの!」


 トーマはどんな鬱憤が溜まっているのか声を上げると、「あいつ、小さい頃は素直だったのに」とぼやいた。色々複雑な兄妹らしい。

 だがそれはそれとして、シシュにも譲れないところはある。


「俺は、些細な恩をかさに着てこれ以上彼女に何かを要求するつもりはない」

「二十五年の何が些細だ」


 苦々しげに吐き捨てられた言葉は、トーマ自身への憤りのようなものを感じさせた。シシュが驚く間に、トーマは深く息をして平静な顔を取り戻す。


「あのな、お前のやったことは些細じゃない。むしろ重すぎるんだ。だからもっとサァリに要求していい」

「言い直す。重い恩をかさにきて要求するつもりはない」

「言い直すな! 面倒くさい夫婦やめろ!」


 トーマの叫びが小さい家にこだまする。

 もう何かを食べていた方が話さなくて済むかもしれない。シシュはゆっくり魚に手を伸ばしかけて、そこで気づいた。


「夫婦? 何が?」

「お前たちが。お前たちは夫婦なんだよ。普通に連れ添ってた。その頃からお前はサァリにベタ甘だったけどな」

「は?」


 手が止まる。思考が硬直する。顔から血の気が引いた。

 ――以前の自分は、どれほど身の程知らずだったのか。

 だが同時に、彼女がどうして自分に手を尽くしてくれたかようやく理解する。一度は夫婦になったから、その情で面倒を見てくれていたのだ。

 そんなことも知らずに……自分が恩を着せたからだと思っていた。彼女の慈悲はもっと仕方がない、家族に対するようなものだったのだ。


「……消えてしまいたい」

「もうつっこまないぞ俺は。結論だけ言う。あいつと契ってこい。もう一回人間の約で縛れ」

「絶対にしない……」


 過去の自分がどういう経緯で彼女を妻にしたのか。

 きっとろくでもない経緯だ。神を貶めるなどそうでしかありえない。記憶がなくてよかったし、そんな不敬な記憶を忘れて彼女に接していた自分に腹が立つ。酒をまだ飲んでいないのに吐きそうだ。

 顔色をなくしてしまったシシュは、座卓に肘をついて崩れ落ちそうな自分の額を支える。


 その時、玄関の外から少女の声が聞こえた。


「いれてくださーい! 父様いれてー!」

「……ミリヤか」


 門の外でぶんぶんと手を振っていた少女は、シシュが「どうぞ」と言うと跳ねるように開けたままの玄関から入ってきた。行儀よく草履を脱ぎながら言う。


「この家すごいねー。母様の結界が強すぎてわたしでも許可がないと入れないよ」

「シシュ、この訳ありっぽい娘は誰なんだ?」

「俺の未来の娘だそうだ」

「月白の次代でーす。伯父さん久しぶり!」


 軽く挨拶されたトーマは唖然として少女を見上げたが、何も言わないままかぶりを振った。

 すぐさま割り切ったらしい男は言う。


「ほら、娘がいるだろ? なら夫婦でいいだろうが。俺が主の間に放りこんでやる」

「因果関係がおかしい……」

「父様、記憶がないとこうなっちゃうんだね。母様ってそんな立派なひとじゃないよ? 短気だし、好戦的だし、容赦ないし、独占欲強いし、執念深いし、割と荒ぶる神だよ」

「それは相手が無礼を働いているからだろう……」


 少なくともシシュの知るサァリは真逆だ。

 穏やかに凪いで月のように美しい。あの光を見た時と同じだ。


 ――自分はあの光を追って彼女に辿りついて、充分に満足だったのだ。


 それ以上を求めようとは一切思わない。なのに目の前の二人は「もっともっと」と押してくる。足跡をつけたくない新雪の庭に押し出されようとしている気分だ。絶対に踏みこまないぞ、という決意だけが固くなる。


 ミリヤは実体がないというのに、魚の酢漬けを一切れ摘まんだ。


「わたしの父様は、母様のこと可愛らしいってよく言ってるよ」

「それは俺じゃないんじゃないか……? 人間違いじゃないか?」

「寂しがりなのに一人で頑張ろうとしてるところが気になったんだって。裏切られたり失敗して悲しんでるところが放っておけなかったって」

「それは彼女じゃないんじゃないだろうか」


 シシュの知る彼女は一人で完璧だ。どこも欠けていない。むしろ自分が傍にいればそこが欠けているという感じだ。

 ようやく気を取り直して酒を手に取るシシュに、ミリヤは「うーん」と思案の目を向ける。


「――父様さ、そんなに今の母様と合わないなら、別の母様紹介してあげよっか」

「え?」

「今日はそのために来たんですー。あっちの準備ができたっていうから」


 ミリヤは立ち上がると笑顔でシシュに手を差し伸べる。


「もっと別の、若くて、可愛らしくて、素直な母様にすればいいよ。大丈夫、どの母様も父様のことを好きになるから!」

「は? いや……」


 何を言われているか分からない。トーマも呆気に取られている。

 改めて意味を問いただそうとした時、けれど冷え切った鋭い声が飛んできた。


「――何をしている?」


 玄関先に、一人の女が立っている。

 銀髪を結い上げて、風呂敷に包んだ重箱を抱えているサァリは、爛々と青く光る眼で少女を睨んでいた。

 ミリヤはけれど、一切ひるむことなく女に笑って返す。


「母様がわたしを生むつもりがないなら、父様は別の母様のところに届けてあげる! 出会えない世界だってあるんだから、その方が全員のためだよね!」

「お前っ!」


 怒気を隠そうともしない神の声。

 ぴしぴしと、空気が震える。

 シシュはサァリに何かを言わなければ、と思う。

 けれどその時には既に、少女の手が彼の肩を掴んでいた。

 世界が、変わる。


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