第203話 千年


 暗い、どこまでも暗く、熱気に満ちた岩場。

 死の敷き詰められた根の国。

 そこにサァリは立って、黒い大樹を見上げている。

 大樹と一体化している女は、胸を神殺しの刃に貫かれたままだ。

 だが死んでいるわけではない。それは誰よりもサァリが分かっている。

「お前の相手は後でしてあげるわ。必ず」

 それは宣戦布告だ。かつては人との契約の綻びをつかれ、不覚を取った相手への戦意。

 今のサァリはけれど、あの時とは違う。

 青い瞳が爛々と輝いて女を見据える。

「楽しみに待っているといい。お前がその刀を抜いた時が最期だ」

 サァリは優美に身を翻す。その姿がふっと消える。

 あとには沈黙だけが残る。



                 ※



 神話の享楽街、アイリーデ。

 その成り立ちは説明された。神への返礼として作られた街で、三つの供物を継いでいるのだと。

 ただ今は、永い眠りから覚めたばかりで客はいないのだという。

「街が眠る、か……。不思議な話だ」

「それを可能にしてくださった方がいらっしゃいますので」

 女はたおやかに微笑む。その笑顔に見惚れてしまったシシュは、我に返るとすぐに視線を逸らした。己の不躾さを反省する。サァリは、体のあちこちが上手く動かない彼に手を貸してくれているのだ。今も、左足が動かない彼の杖代わりになって庭の散歩に付き合ってくれている。


 ――永い眠りというなら、彼自身も数日寝込んでいたらしい。

 あの不思議な夢は心界という場所でのできごとで、あそこでの無茶が体に響いたのだという。サァリは「体にお怪我はないのですが、それを動かす魂が足らなくなってしまっているのでしょう。申し訳ございません」と言っていた。彼女のせいではないというのに不思議な話だ。


 今の彼は、体の約四割の自由が利かない。少し動いただけで内臓が痛み、息切れがする。サァリや下女たちの手を借りてなんとか生活している状態だ。

 けれど彼女は、それを苦にする様子もない。細やかに彼の世話を焼いてくれている。

 それをありがたいと思う以上に、申し訳なく思う。


「旦那様、蕾がついていますわ」


 サァリは庭木を指差す。そこに小さな薄紅の蕾を見てとってシシュは頷く。

 口に出して返事をしなかったのは、喉がずきりと痛んだからだ。サァリはすぐにそれを察したらしく「少し休みましょう」と、近くにある東屋へ彼を連れて行って座らせた。


「白湯を持ってまいりますわ。少しお待ちください」


 楚々とした様子で彼女は館へ戻る。その姿を見送ってシシュは息をつく。

 ――彼女が何者なのか、詳しくは知らない。

『人間ではないのです』と微笑んで言われたことがあるだけだ。

 自分が、この館の客の一人であったことは聞いた。記憶がないのは、彼女を助ける際に魂ごと零してしまったからだということも。

 ただ全ては実感がないままだ。目覚めてから数日、この屋敷から出たことのない彼は何もかもが分からない。ただぼんやりと感じるのは「自分は役目を果たし終わった」ということで、満足感と共に、どうして死ねなかったのか、とも思う。あの時死んでいれば、今、彼女の手を煩わせることはなかったはずだ。


 けれどそれを口にすれば、彼女を困らせてしまうだろう。だからできるだけ早く、自分のことは自分でできるようにならねば。彼は自分の左膝に触れる。

 その時、隣に一人の少女が座った。


「調子はどうですかー?」

「あなたは」


 細い足をばたつかせて笑うのは、心界で会った少女だ。

 あれが夢ではなかったというなら、彼女も夢ではなかったのだろう。突然現れたのには驚くが、シシュはその驚きをすぐに「そういうもの」とのみこんだ。


「あの時はありがとう。助かった」

「いいえー、それがわたしの役目だったので。あとはあなたたちが落ち着くのを見届ければ終わりなんだけど」


 少女は花弁のような口をとがらせて嘯く。


「落ち着く、とは?」

「元鞘? あれ、この言い方違う? じゃないとわたしが生まれないから」

「……あなたは誰なんだ?」


 目覚めてから、相手に一方的に知られていることばかりだ。相手のことも知ろうとするシシュに、黒髪の少女は屈託なく笑う。


「あなたの娘ですよー」

「そうだったのか……。申し訳ないことを聞いてしまったな。忘れていてすまない」


 年の差は十歳ほどしかないように見えるが、ありえないことではない、ような気がする。今まで父親に忘れられていたというのは負担だっただろう。真剣に反省するシシュに、少女は眉を寄せる。


「あれ、なんか違う風に受け取ってない? いくらなんでも大きすぎるとか思わない?」

「そんな疑いは失礼だろう」

「失礼とかじゃないと思うな!! 未来に生まれる娘です!」


 少女は跳ねるように立ち上がるとシシュの前に立つ。そして白い手をおもむろに振った。

 途端、その腕がすっと透けて半透明になる。目を瞠るシシュに、彼女は「ほらー」と言った。


「実体じゃないの、存在の情報なの」

「そう、なのか……すごいな」

「誰が母親なのか知りたい?」


 教えたくて仕方がない、というように少女は含み笑いをする。

 その表情に複雑なものを覚えてしまうが、今の自分が誰かと所帯を持って子を得るのは難しいのではないだろうか。そんな疑問でシシュが押し黙っていると、少女は聞いていないのに言う。


「あなたが助けたあのひとだよ。この館の主人。ほら、似てるでしょう?」


 無邪気に自分の顔を指す少女を、シシュは虚をつかれてまじまじと見つめる。

 確かに、少女とサァリの顔立ちは似通っている。目の色も同じだ。

 ただそれ以上に――


「……それは、駄目だろう」

「え?」


 自由になる右手で口元を押さえる。恥ずかしさがそれ以外の感情か、自分の耳まで熱くなるのが分かった。

 顔を覆ってしまったシシュに、少女はあわてたように言う。


「え、なんで? 母様から聞いてない? 何がだめ?」

「……許されないだろう……俺ごときが彼女に触れるなど……」

「え!?」


 彼女は、貴い存在だ。穢れ一つない神秘だ。本来なら人間が目にすることすらできない。

 そう肌身に沁みて感じる。言われずとも理解している。

 そんな女をただのひとの、それもこんな自分の妻になど、ただひたすらにあつかましい。

 これが無意識の願望だというなら、今すぐこの館を出て二度と彼女を見ぬところに行きたい。分相応な余生を送りたい。


「やはり夢か……恥ずかしい……」

「なんで!?!? 父様予想以上にめんどくさくない!!?」




                 ※



「――どうしてあいつを元に戻さない?」

 白湯を手にしたサァリが裏に戻ろうした時、そう言っていたのはサァリの兄だ。

 アイリーデを閉ざしていた氷は、サァリの目覚めと共に解け落ちた。今は、街の復興のためにウェリローシアをはじめ、あちこちと連絡を取っている最中だ。

 その多忙を担う筆頭であるトーマは、苦い顔で妹に言う。

 サァリは感情のない目で兄を見上げた。


「元にって? 体は直せないよ。どこも悪くないんだもの。魂が足らないだけ」

「違う。神供になんで戻さないかってことだ」


 兄の指摘にサァリは目を細める。


 心界から目覚めてすぐ、彼の体を探して引き取りに行った。

 彼はウェリローシアが保護していたが、混乱したサァリが彼を捜しあてるには時間がかかった。神供としての繋がりが切れていたからだ。


「人間に戻るなんて、そんなことできるんだなって驚いたの」


 彼は、サァリと契った際に人ではなくなった。

 仕方がなかった。そのことを誰よりも後悔していたのはサァリだ。


「シシュは充分やってくれたよ。もういいでしょう。神供にはしません」


 彼が人として、老いて死ぬまで。

 何一つ不自由はさせない。愛を以て寄り添い続ける。彼がそうしてくれたように。


 トーマはしかし、険しい顔を変えないままだ。


「神供にしないって……次代はどうする」

「要らないでしょう。私がずっと務めるわ」

「は?」

「百年でも千年でも、私が一人で月白の主で居続ける。別にいいでしょう? アイリーデが普通の街じゃないって大陸中に知れたわけだし」


 この街が真実、神話の街であると、二十五年間で誰もが思い知ったはずだ。

 その街にサァリはまったき神として座する。

 彼を神供にはしない。彼以外を神供にもしない。

 ――それが、彼女のために失いすぎてしまった男へ返す約定だ。


「彼を二度と戦場には立たせない。後のことは私がやるわ」


 根の神と相打った時とは違う。

 人間による軛を受けていない神は、そうして美しく微笑んだ。


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