第202話 実証



「あ……ああああ……ああ……」

 冷たい体に取り縋る。服に爪を立てて泣き叫ぶ。

 嗚咽を零す彼女の感情に呼応して世界が揺れる。


 こんなことはあってはならない。

 彼が死ぬことだけは避けようと思っていた。そのために彼を神供にすることをずっと躊躇っていたのだ。

 けれど結局、そう思いながらサァリは彼を己の同族にするために一度殺した。

 己がそれをしたにもかかわらず――彼が自身を同じように扱うとは思っていなかった。

 傲慢だと言えばそれまでだ。


「……シシュ……やだ……おいてかないで……」


 零れる涙が彼の胸に滴って染みる。

 もう何もかもどうでもいい。彼がいないのなら全てなくて構わない。

 その意志が、力として発現する。


「もう、いい」


 彼女を中心に、死の大地に氷が張り始める。




「――ちょっと待って欲しいでーす」


 暗闇から軽い声がかかる。

 知らない少女の声にサァリは涙で濡れた顔を上げた。黒髪碧眼の少女と目が合う。

 見覚えがない顔で、でもどこか既視感がある。

 何よりその存在には覚えがあった。


「あなた誰? 私と同じ……?」

「あたりー」


 その意味することは簡単だ。

 サァリと同じ存在――すなわち月の神であること。

 彼女の祖母や封じられた母の半身と同じだ。だがサァリには肝心の少女が自分の何代前か分からない。

 警戒に顔を顰めるサァリへ、少女は笑った。


「初めまして。私は冬の巫、ミリヤディリーア」

「冬の巫……」


『冬』とは、月白を指す用語の一つだ。『北』がそうであるように、アイリーデにおいて神の館を示すのに使われる。ただ『冬』はその中でも特殊で、一通りの使われ方しかしない。


 


 サァリは息を詰める。期待が言葉になる。


「誰の娘?」

「あなただよ、母様。顔を見て分からない?」

「分かるわ」


 自分に似ているから、というわけではない。――彼の面影がある。

 サァリは震える手で夫の体を搔き抱いた。


「彼は助かるの?」

「そのために私が来たんです。私がいる限り父様の生存は実証されるでしょう? だから助けに行ってあげてって言われたの」

「無茶が過ぎるわ」

「それは未来の自分に言ってくださーい」


 軽い調子で流す少女に、サァリは苦味を噛み締める。


「……あなたの母親は、厳密には私ではないでしょう。過去への干渉なんて存在しない。あなたはこことよく似た別の世界、時間が先にずれてる世界から来てる。違う?」

「あっ、気づいちゃ駄目だよ。同一世界による未来確定ってことで、今の世界の実証を誤魔化してるんですから。同一じゃなくなったらここの父様死んじゃうかも」


 ミリヤディリーアは肩を竦める。その姿が実体ではないことは分かる。本当の少女は元の世界にいるままなのだろう。サァリ自身、封じられている間そうして別の世界を漂ったことがあるのだ。


 ――これは欺瞞だ。世界を騙して、ほんの細い糸で彼の命を繋いでいる。


 だが希望でもあるだろう。ミリヤの母はそうして彼を助けるために、娘をここへ寄越したのだ。

 サァリは少しずつ自分が冷静さを取り戻していることに気づく。自分が抱いている夫を見下ろす。


 そもそもここは心界なのだ。彼が真実死んでいたら、体も残らないはずだ。

 ここに冷たい体があるということ自体、彼を拾い上げられる可能性があるということだろう。

 そんなことにようやく思い至る。


 ミリヤは、ウェリローシアの刀で串刺された根の神を指差す。


「どうしても、って予定外に無茶なことをされたからぎりぎりになっちゃったけど。まだ間に合うはず。いける?」

「やるわ」


 やらない理由など一つもない。

 彼を掬い上げる。魂の一滴さえも零さない。


 サァリは意識を集中させると、彼の胸へ指を滑りこませる。

 いつかの客取りの夜のように。けれどあの時よりももっと繊細に。

 今の彼は、無数の破片に砕けてしまった硝子の器と同じだ。

 目に見えぬほど細かく散らばったそれらの粒を、全て拾う。

 ただの一つも失わなせないように。その全てが等しく彼なのだから。


 頬を汗が伝う。息は止めたままだ。

 冬の巫の穏やかな声が聞こえる。


「上手くいかなかったら、父様から遺言を預かってます」

「要らないわ。彼から聞く」


 彼が自分を助けられたのに、その逆は不可能などあるはずもない。

 誰よりも彼女が神なのだから。

 神に現実を従わせる、その意志を以てサァリは力を手繰る。

 死の国に、一際鮮やかな青い光が満ちる。




                 ※




 ――目を覚ました時にまず感じたことは「何もない」ということだった。


 何故そのように思ったのか分からない。

 真白い寝具の上に寝かされていた彼は、ゆっくりと体を起こした。辺りを見回す。

 見覚えのない部屋だ。長い年月の蓄積を感じさせる広い畳の部屋。襖や欄間などを見るだに、裕福な屋敷の一室だろう。


 覚えているのは、自分がどこか暗い岩場を歩いていたということだけだ。

 不思議な夢だった。そう自然に思ったのは、最後に見た女があまりにも美しかったからだろうか。


 彼は座ったまま夢の中の光景を反芻する。その感慨を味わっていた時、襖の向こうで人の気配がした。

 遅れてそこがゆっくりと開かれる。


 向こうにいたのは、白い着物姿の女だ。深く頭を垂れていた彼女は滑らかな動作で顔を上げた。

 青い光を思わせる碧眼。

 空よりも青く、海よりも澄んだその目に彼は見入る。


「……夢ではなかったのか」


 もしくは、今も夢の中であるのかのどちらかだ。

 声に出した時、ずきりと喉が痛む。どこか体を壊しているのかもしれない。

 彼は女に何か言おうと思って、だが何を言うべきか分からないことに気づいた。

 何も分からない。自分のことも、彼女のことも。

 ひどく自分が場違いであるような何とも言えない居心地の悪さ。それを詫びようとする彼に、女は言った。


「お待ちしておりました、旦那様」


 聞いてみたいと思った彼女の声は、抑えていてもよく響く。するりと入りこんで心を震わせるようだ。いつまでも己の内で反響し続ける。

 だが、何も言えず陶然とし続けていては無礼だ。彼は寝具から下りると彼女にならって正座した。


「すまない。挨拶をするべきだとは思うのだが、己のことが分からず……」

「構いません。わたくしが存じ上げておりますので」


 一粒ほどの曇りもなく彼女は微笑む。

 女はそして、美しい目に溢れるほどの愛を湛えていった。


「ようこそ旦那様、ここは神話の街アイリーデ。わたくしは妓館『月白』の主、サァリーディと申します。――どうぞお見知りおきを」


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