第201話 約定



 穏やかに流れる川の只中に、立ち尽くしていた。

 いつからそこにいるのか、何故ここにいるのか分からない。

 川の水は温かい。流れの向かう先は安らかだ。それは分かる。周りを何人もの気配が流れていく。

 だから、自分もこのまま流れて行っていいのかもしれない。そう在ることが自然だと感じる。

 けれど彼は顔を上げる。


 川向うに、青い光が見える。

 何があるのかは知らない。

 ただ、綺麗だと思う。その光に惹かれる。

 だから光の根本を見たいと思った。


 一歩を踏み出す。

 足は思ったよりも重くなかった。むしろ余分なものを全て削ぎ落したかのように軽い。

 軽く、溶けていく。


 それでも彼は次の一歩を踏み出す。

 青い光が美しいから。その光に焦がれて進む。

 一秒ごとに、自らが踏み出した理由を忘れる。

 それでも次の一秒で新しく恋をする。


 あの光に、触れてみたいと。

 ささやかな理由で進む。水をかきわけて前へ。

 たとえあの光が己を灼くものなのだとしても。

 安寧の川を流れるより惹かれてしまうのだ。


 何も分からぬまま、何の感情も蓄積せぬまま、彼は川を渡る。

 少しずつ息が切れる。苦しい。流れの早い川ではないのに体力がみるみる削り取られていく。

 それでも彼は、最後に何とか足を上げて川を渡りきった。

 濡れた足は川を出た瞬間に乾く。光の方へ進もうとした彼に、川向うから声がかかった。


『気をつけて。今のあなたは命が削られている。死人同然です』


 振り返った彼が見たものは、川辺にいる黒い蛇と猿だ。

 彼は少し考えて、問うた。


「おれに、言ったのだろうか?」

『……はい』


 返事までには少し間があった。黒い蛇の方がゆらりととぐろを巻き直す。

 蛇がしゃべるとは不思議なものだ。

 だが忠告は忠告だ。彼は素直に頭を下げた。


「わかった。どなたか知らないが、ありがとう」


 蛇は答えなかった。赤い目が彼を見つめる。

 それが別れの意味だと察して、彼は再び光の方へ歩き始めた。



 暗い岩場を歩いていく。息が苦しい。少しずつ、少しずつ、自分が弱っていく気がする。

 けれど川の中を歩いていた時と違って、記憶は蓄積していく。

 まっさらな中に少しずつ「あの光に触れたい」という衝動が募る。

 光が氷塊であることは、途中で分かった。

 中に何かがいるのだということも。



 遠い。

 走りたくとも、その力が残っていない。

 青い光に辿りつく前に、死に辿りついてしまいそうだ。

 足がふらついて倒れそうになる。視界が暗くなる。


 その時、誰かの手が彼の腕に触れた。


「渡れたね。ここからは一緒にいてあげる」


 いつの間にか隣にいるのは、黒髪に蒼い目の少女だ。

 赤い牡丹の髪飾りをした少女に、彼は尋ねる。


「あなたは?」

「味方です。あなたの存在を実証するために来たの」

「……よく分からない」

「いいの。行きましょう」


 少女は氷塊を指差す。それは先程よりも近づいている。

 その美しさに、息苦しさがわずかに減じた。彼はゆっくりと歩き出す。よろめくような覚束ない足取りに、少女は何を言うわけでもなく隣に付き添い、時折倒れそうな彼を支えてくれる。



 そしてとても長い時間をかけて、彼はついに青い光の出ずる場所へ到達した。



 氷塊を見上げる。

 言葉にはならなかった。

 こんなに美しいひとがいるのか、と思った。

 胸を衝く感情。存在の違いに涙が滲む。

 目の前にあってなお遠い。天に輝く月のように。

 この存在に焦がれて、自分はここまで来たのだ。



 氷に触れようとして、けれど彼はその手を引く。少女が首を傾げた。


「どうしたの?」

「いや……」


 氷塊の正面には黒い大樹がある。それもまた氷に包まれており、幹の部分に女の上半身が浮かび上がっていた。

 こちらの黒い女は憎悪の表情で氷に封じ込められている。見るだけで忌まわしさを感じさせるその貌に、彼は不吉なものを覚えた。


「これが誰なのか知っているか?」

「根の神よ。でも人間にどうにかできる相手じゃないから触らない方がいいわ。あなたの目的は月の方でしょう?」

「月……」


 言われて彼は氷塊を見る。その中に眠る白い女も誰か分からない。ただ彼女見たさにここまで来たのだ。

 神秘そのものの姿はいつまでも見ていられる。

 その目が開くところが見たいと思う。彼女の声を聞いてみたい。

 けれど彼は、その手を伸ばさないままだ。


「……よくない、気がする」

「何が?」

「彼女に触れるのが……この氷は繋がっているだろう?」


 白と黒、二人の女はよく見れば地面を這う同じ氷で封じられている。

 白い女を出したいと願えば、黒い女も自由になってしまう。それは取返しのつかないことになる気がするのだ。


 少女は困ったように首を傾げた。


「でも、あなたの命はもうほとんど残っていないの。あなたは人間になったからというだけであの川を越えられたわけじゃない。あの川に踏み入った時、あなたは自分を死者の枠に置いたの。今、あなたがかろうじて生きているのは、私がいるから」

「……つまり、時間がないと?」

「言ってしまうとそう。あなたに残る役目は、彼女を起こすことだけ」

「そうか……」


 それならば仕方がないか、と思う。

 惹かれたものに殉じて死ぬ終わりだ。それを自分が選んだ。恐怖も後悔もない。

 彼は迷いながらもあらがえない疲労感に深い息をつく。腰に佩いた刀が視界に入る。


「……ああ、そうか」


 何も覚えてはいない。

 けれど腑に落ちた。このような武器を持って自分がここに来た意味が分かった。

 彼は月の紋が入った鞘から刀を抜く。


「俺が死んだら、彼女に伝えてくれないだろうか」

「いいよ。何を?」


 聞き返されて、彼は逡巡する。

 何かを伝えたいと思ったのにそれが何か分からない。残っていない。

 だから彼は、今自分にあるものだけを口にした。


「とても……綺麗だったと」


 美しかった。可愛らしかった。愛しかった。

 彼女のために永遠を費やしてもいいと思った。

 ずっと傍にいるのだと、決して一人にはしないと誓った。

 でもそれはきっと叶わない。だから人間の抱く原初の心だけを彼女に。


 少女は頷く。

 彼はほっと安心して、刀を握り直す。

 暗くなる視界。もう己の命があと幾許もないことは分かる。

 最後の力を振り絞って、彼は刀を構えた。

 目を閉じる。



 何も覚えてはいないが、よい一生だった。






                 ※






 彼女は目を開ける。

 長い、ずいぶん長い微睡の中にあった気がする。

 時間も肉体も関係ないところをずっと漂っていた気分だ。

 長い銀の睫毛を揺らして、彼女は周囲を見た。

 暗い、死の世界。

 真っ先に目に入ったものは、理解しがたい光景だ。


「……なに?」


 死の国の神、彼女が己ごと封じた女が、胸を刀で貫かれている。

 黒い木の幹にまで深々と刺さっている刀は見覚えのあるものだ。

 何故それがそんなところに、持ち主の手を離れてあるのか。


 彼女は予感に駆られて足下を見下ろす。

 まだ氷の柱に包まれている足の、更にその下には一人の男が倒れていた。


「……あ」


 一瞬で、全身の血が凍りつく。

 はじめに気づかなかったのも無理はない。存在が違う。

 今の彼は、彼女の半分ではない。ただの人間だ。

 そして


「……シシュ?」


 恐る恐るその名を呼ぶ。自分がつけた真名を。そしてもうその名ではない男を呼ぶ。

 返事はない。

 彼女はもどかしげに自分の足を覆う氷を砕くと、彼の傍に降り立った。青白い頬に触れる。


「シシュ? なんで?」


 あれからどれほどの月日が経ったのか。


「あなたは、アイリーデにいるはずなのに」


 彼だけはちゃんと生きられるはずだったのに。


「どうして? ずっと私の傍にって……」


 ただ自分を忘れずに一生を過ごしてくれればいい。

 それだけだ。それだけだった。彼が一番大事だった。

 なのに何故。


「あ、ああ……あ……」


 彼女は夫の胸に顔を埋める。

 神の絶叫はそして、死の国に響き渡った。

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