第200話 光



 開け放った窓に差しこむ日差しは暖かい。

 換えたばかりの畳のよい香りがする中、シシュは浅い眠りの中を漂っていた。

 時折、女の小さな手が髪を撫でていく。彼の頭を膝に乗せている女は、うっとりと碧眼を細めて夫を見つめた。

 その時、ふわりと白い花弁が外から舞いこんでくる。

 シシュの鼻先を掠めて落ちたそれを、彼女は指を伸ばしてそっと拾おうとする。

 花弁に触れようとした指を、シシュは半ば無意識のうちに取った。

「わ、びっくりした。起きてたの?」

「……いや、今起きた」

 妻とのやりとりで、淡い夢から完全に意識を引き戻す。

 彼はサァリの膝の上で身を捩ると彼女を見上げた。

 青い瞳に溢れんばかりの情を零して、彼女は夫に微笑む。


 可愛らしい、どこまでも美しい、愛そのもののような女。

 満ちて在る彼女の存在自体が奇跡だと思う。それに触れられる自分は幸運だ。


 シシュは手を伸ばして妻の頬に触れる。

 彼女は嬉しそうに目を閉じる。

「ずっと傍にいてね、シシュ」

 他愛もない、けれど何より切実な神の願い。

 それは彼が己の全てを賭して叶えるべきものだった。


 そして今は、ただ遠い。



                 ※



 越えられない川の向こうに、青い楔が見える。

 その楔の正面に凍りついた黒い大樹のようなものがあるが、あれは死の神だろう。

 見えているのに、遠い。

 その現実をすぐには受け入れられず立ち尽くすシシュを、黒蛇は仰ぎ見る。

『別の「灰」を探しますか』

「――無駄ですよ、そんなの」

 罅割れた少女の声が後方からかかる。

 振り返ると崖の上に張りつくようにして、黒い猿が笑っていた。

「わたしは種族最後の一匹です。どこを探してももう灰はいませんよ。あなたは永遠に彼女のところに辿りつけないのです」


 永遠に。

 その言葉だけが頭の中で反響し続ける。

 体の全てが冷えきって、自分自身が氷になってしまったかのようだ。


 灰の少女は、堪えきれないというように高らかに笑い出す。その目から黒い涙が零れて崖下に滴る。

 孤独な異種である少女は、同じ一人きりの異種となった神を嘲笑い続ける。

 シシュは、隣で黒蛇が顔を顰めるような気配を醸し出すのを察した。

『殺しますか?』

「いや……」

 すぐには答えられない。体に力が上手く入らない。

 落胆はここまで心身に影響するのかと思って、だが彼はここが心界であることを思い出した。


 力なくかぶりを振るシシュの傍を、ぶぅんと一匹の虫が飛んでいく。

 ヨアからはぐれたのだろうその虫は、川の畔に達すると形を変えた。まるで今までの姿が絡まった黒糸であったかのように、するりと解ける。

 中から出てきたのは薄白い蛍火のような光だ。小さな光は川の水面にゆっくりと着水すると、そのまま川面を流れていく。遠ざかる光は少しずつ淡く、溶け消えていく。


 あれが、魂の一つの終わりだ。

 そしてまた真っ白な次の生へ。


 ヨアの制御が外れたのか、一匹、また一匹と虫が川へ飛んでいく。

 それらは川に到達したものから次々姿を変え、淡い光を帯びながら流れていく。


 ――自分も、何事もなければこの流れを含む輪の中にいたのだろうか。

 妻にためにその輪から外れたシシュは、遠くなる光を見たまま言った。


「人は、こうして巡るのか」

『ええ。この川を経ないで次の生に向かう魂もいますが。うっすら前の記憶を残しているのはそういう魂ですね。この川は記憶も業も少しずつ洗い流していきますから』


 川を経ないで新たな生に向かう者もいる。

 そういう人間は、やり残した未練を帯びているのだろう。この川は人が最後に選ぶ場所だ。


 川を流れていく光の強さはまちまちだ。

 すぐにふっと消えて川に溶けてしまうものいる。

 遥か遠くに至るまで光を失わぬものも。

 それは記憶の多さだろうか。業の深さだろうか。

 それとも想いの強さか。


「……現界に戻る」


『灰』がもういないというなら。妻のいる対岸に出る術はないのだというなら。

 シシュは振り返ると崖上へ手をかざす。

 そこにいた猿は、一瞬にして氷塊の中へと閉じこめられた。

 黒蛇がシシュに問う。

『現界に戻ってどうするのですか』

 その声は初めて聞く不安そうなものだ。



 サァリを戻せないなら、シシュのできることは一つしかない。

 かつてトーマに言われたように、別の女性に自分の子を産んでもらう。そうすれば生まれた娘は次の神になる。

【天の理】の存在が継がれれば、シシュの役目は終わる。

 死ぬことも……きっとできる。

 だがそれは。



「人を、探そう」

 シシュは黒い目を閉じる。

 瞼の裏に甘えるような妻の顔が浮かんで、彼は震えそうな息をただのみこんだ。



                 ※



 そこから一月はあっという間だった。

「僕は反対ですよ」

 死口であるスムにはきっぱりそう言われた。

「成功する可能性はありますけど、そうでない可能性の方が高いです。そんなことをするために二十五年間旅をしてきたんですか? 違うでしょう」

 くどくどと真剣に、初めて見る顔でスムは説教してきた。彼のことは生まれた時から知っているが、こんな一面もあるのかと驚いた。


 ウェリローシアからは「好きにしろ。判断は任せる」とだけ書簡が来た。

 かの家の当主は今もフィーラだ。三人の子供の母である彼女はなお現役で、トルロニアに大きな影響力を持つ一人になっている。


 黒蛇は『分が悪いです』とだけ言った。


 冬の巫のミリヤは、あの戦場で会った時以来現れていない。

 ただ彼女はスムのことを知っていたのに、スムはミリヤのことを知らなかった。不思議な少女だ。


 彼の事情を知る者たちは、彼の決断に賛成しなかった者の方が多い。

 ただ全員が手を貸してくれた。その結果が出たのが一月後だ。


 熱気の漂う暗い心界、再び死の川の畔に立ったシシュは、傍に控える黒蛇に言う。


「ここまでついてきてくれて助かった。ありがとう」

『お礼を言われる筋合いはないです。私たちはいわば共闘者ですから』

「それでも、いてくれてよかった。救われた」


 この二十五年間、別れていくばかりだった彼に変わらずついてきたくれたのがこの黒蛇だ。

 一人ではなかった。それがどれだけ己の精神を支えたか、シシュはよく分かっている。

 黒蛇は、表情の分からぬ赤い目で彼を見上げた。


『せめてお礼を言うなら全部終わってからにしてください』

「言えなくなるかもしれない」

『言ってください』


 頑なな返答にシシュは押し黙る。

 本当はサァリのことも頼もうと思っていたが、それを口にしたら怒られてしまうだろう。そんな気がする。

 だから彼は、頷いて川に向き直る。

 後ろにしゃがみこんでいる黒い猿が言った。


「きっと失敗しますよ。できっこないです」


 呪いと同じ言葉に、シシュはかぶりを振る。


「それでも、やらない理由にはならない」


 このために自分は旅をしてきたのだ。シシュはきつく刀の柄を握る。


「――行ってくる」



 静かに流れる川に向かって、足を踏み出す。

 その爪先は暗い水面に触れ、そして沈んだ。

 深くはない。腿の半ばまでが沈む程度だ。

 シシュはそのことに安心して、対岸に向けて歩き出す。


 人でなければ渡れない川。

 そこに踏み入るためにシシュが下した決断は簡単なことだ。

 

 その力も権能も全て手放す。

 ありえないことを可能にしたのは、青蛇の少女ヴィアーだ。

 彼女の異能は己の成長と引き換えに、対象者を「肉体に決定的な変化の起こる前に戻す」。

 そしてシシュにとってそれは……神に変じる前だった。

 スムやウェリローシアが手を尽くして居場所を調べてくれたヴィアーは、シシュの話を聞いて「協力いたします」と言ってくれた。

 二十五年の旅の果て、シシュは自分を、妻に殉じる前の己に戻したのだ。



 ただそれは危険な賭けだ。

 人間に戻った彼は容易く死んでしまう。そして死ねば二度と戻らない。

 それ以上に――


『忘れないでくださいよ』


 黒蛇が沈痛な目で、川を渡るシシュを見つめる。

 死の川を渡るということはつまり、記憶や業が流されていくということだ。

 広い川を一歩進むごとに記憶が零れていく。洗い流されていく。

 対岸に着くまで己を保っていられるかも定かではない。


 それでもシシュは、川を渡ることを選んだ。

 流されていく魂が光を失って溶けるまでは、個体差がある。

 それが抱えた想いと業によって決まるというなら、自分は必ず向こう岸に辿りつく。

 彼女と約束したのだ。ずっと傍にいるのだと。


「サァリーディ……」


 顔を上げて、青い光を見つめる。

 それだけを頼りに、水の中を一歩、また一歩進んでいく。

 柄を握る手に意志を。もっとも大事なものを見失わないように。

 たとえ記憶の全てが流れてしまうのだとしても、彼女への愛は残るように。



 水音はしない。川は無音だ。

 進む。もう一歩を進む。

 安らいで、静か。何もない。何からも自由だ。

 ぼんやりとした安寧。許されているような穏やかさ。

 進む。向こう岸はまだ遠い。

 自分は、と思っていたのは何だったのか。

 自分は、

 自分は、

 何をするべき、だったのか。

 進む。

 足を前に出す間隔が、少しずつ緩んでいく。

 ぼんやりと薄らいでいく。

 もういいのだと。もういいのではないかと。

 進む。

 青い光が。



 ああ、なんて美しい。



 彼は、川半ばで足を止める。

 もはや自分の名も分からない。記憶もない。

 ただ涙が零れる。遠くに光る氷塊を見つめる。



 あの光を見るためだけに。

 それだけの理由でも。

 生まれて、よかった。



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