第199話 彼岸
彼女は、もっとも古い記憶において既に一人だった。
同族は既に滅んでいた。彼女は彼らの死骸の中で生まれた。
否、彼女がそう思っているだけで、何の関係もなく地の底から生じたのかもしれない。初めて見たあの死体だらけの景色は、彼女と無関係な者たちだったのかも。
ただ事実としては、彼女は常に一人だった。一人で大陸をさまよっていた。人に見つからないように、人を避けてただ隠れて生きていた。
何の目的もなかった。何の楽しいことも。ただ死にたくないから生きていただけだ。
そんな時、神を見かけた。
「せっかくなので、二度目の人生は好きに生きると決めてるんですよ」
神は、人のような姿で人のような心で、けれど少しも人ではなかった。
自由だった。何におもねることもなく、何に縛られることもなく。
それを見て、「ああ生きればいいのか」と思ったのだ。だから神が元居たという大陸に渡った。
新しい大陸に来てからは目が覚めるようだった。
理解者である友人を得た。死の床にあった彼女を救った。
元の大陸から連れてきた異種たちに新たな居場所を与え、彼らは少しずつ増えていった。
こう生きればよかったのだとすっきりした。
そうして新たな大陸を友人と共に回ったのだ。
回って……だがいつの間にか、また一人だ。
「どうして……」
呟きを漏らす。
大地が燃えている。
目の前に広がるのは青い焔だ。死体の軍勢を燃やし、それどころか彼女の支配下にある膨大な数の虫たちをも燃やす焔。焔の中から二度目の死を迎える魂の悲鳴が聞こえてくる。彼女が少しずつ溜めた力そのものが、いとも容易く失われていく。
「っ、」
自失していたのだと遅れて気づいた。
何故今更自らが辿った道を思い出してしまったのか。
それは己の終わりがすぐそこに迫っていると気づいているからだ。
死者の軍勢の最後尾から更に離れた場所、小高い丘の上にいた灰の少女は身を翻す。
――ついに神が追いついてきたのだ。なりふり構わず彼女を打ちのめしにきた。
逃げなければ。逃げてやり過ごせばいい。ほとぼりが冷めるまで隠れてしまえばいい。
難しいことではない。彼女はもともとずっとそうして生きてきた。だから。
でもそれでは、前と同じだ。
思わず足を止めてしまったヨアの前、すぐ足下に一本の火矢が飛来する。
どこか遠くから射かけられたらしいそれは、地面に突き立った。
その矢が普通と違っていたのは、矢羽の部分からも細く長い煙を立ち昇らせていたことだ。
一瞬遅く意味を理解したヨアは顔を引きつらせる。
「目印……!」
これは彼女の居場所を知らせるための火矢だ。
誰に知らせているのかなど考えるまでもない。
ヨアは煙を上げる矢を避けて駆け出す。けれどその行く手を塞ぐように、次々別の狼煙矢が飛んできた。
このままではいけない。間に合わない。
――人間は、国境を越えては追ってこない。
それは少なくとも今まではヨアの常識だった。人間は集団でいる時がもっとも強い。だがその分、集団であることに縛られる。だから最悪国境を越えてしまえばいい。
だが今は違う。神が人の力を借りて追いかけてくる。
もう、来てしまう。
「っ」
ヨアは瞬時に、よろめきかけた精神を立て直す。
そのまま体を灰に変えて逃げ出そうとした。
だがその時、足下の地面に霜が走る。
青い焔と出所が同じそれは、神が彼女を逃がさぬように張った氷の先触れだ。
霜はまたたく間に彼女の足を伝い絡めとる。
変じることを許さぬ力の行使を見下ろした時、彼女の小さな頭を後ろから何かが掴んだ。
「見つけた」
そして彼女の視界は心界に転ずる。
※
死者の軍勢を灼くにあたって、シシュがニド・ファサに出した条件は「ヨアの居場所を特定して知らせること」だ。
彼女の足止めをしろとは言わなかった。人間がそれをしては死体が増えるだけだ。
ニド・ファサはそして、シシュの条件に十全に応えた。
暗い世界。広がる岩場の中にシシュは立っている。
辺りを見回すと、耳のすぐ傍をぶぅん、とよく太った虫が飛んでいった。その虫が向かう先には痩せ細った黒い猿がしゃがみこんでいる。
ぶぶぶぶ、と耳障りな音を立てて猿の周りを飛ぶ虫は、いつかの十分の一もいない。その大半をシシュが灼いてしまったからだ。
猿は両手で己の顔を覆っている。見たくないのか見せたくないのか顔を上げない少女に、シシュは言った。
「今度は通らせてもらう。邪魔をするならあなたごと斬るが」
ヨアは前回、神々を死の国に膠着させるためにシシュの行く手を遮ったのだ。
今回もそれをするというなら……今度は勝負になるはずだ。
黒い猿はゆっくりと顔を上げる。
その眼窩は虚ろだ。彼女の横顔を、遠く崖の向こう、神を封じた青い光がほのかに照らしだした。
「わたしはただ、自由に生きたいだけなのに」
「その自由が他者の命を侵害するなら、制限を受けるのは当然だろう」
「あなたも、奪う側なのですね」
「それがサァリーディを守ることと同義になるなら。そうだろう」
そのために彼は神供になった。自分だけは何があろうとも彼女を守り続けるのだと。
だから、本当に大陸全てを灼かなければ彼女を解放できないなら、次はそうするだろう。
猿はそれを聞いて、にいっと笑った。
「なら、行けばいいです。あなたの愛しい神のところへ」
灰の少女は蹲ったまま立ち上がらない。虫たちは彼女の周囲をあてどなく飛んでいるだけだ。
シシュは様子を窺ったが、彼女が動く気がないと分かると青光の方を見た。
彼の妻が封じられている場所。遠くからでも分かるその光の方へ歩き出す。
ヨアは追ってこない。
崖の終わりが近づく。そこに立てばきっと光の根本が直接見られる。二十五年ぶりに彼女の姿を確かめられる。
そう思ってついに崖の端に辿りついたシシュは、けれど愕然と立ち尽くした。
離れた場所から、くすくすとヨアの笑い声が流れてくる。
「せっかくわたしを捕まえたのに。残念でしたね」
「……これは」
光の根本は見える。死の国に打ちこまれた氷の楔だ。
それが紛れもなくサァリのものであるとは分かる。遠目にも中に人の姿をしたものが封じられているのが分かる。
だが、そこに行きつくための暗い大地は――崖下の少し先から川によって区切られていた。
広い、とても広い川だ。
深さは分からない。ここに来るまでは見えなかった断絶にシシュは息を詰める。
ヨアの楽しそうな声が聞こえる。
「あの川は、人間が最後に行きつく川です。人の魂はあそこでまっさらに洗い流されて次に行くのですよ」
似た話を、いつか聞いたことがある。
人間は充分に生ききったなら最後に自ら川を渡るのだと。
それがあの川か、とシシュは得心した。
得心して、だがそれだけだ。
「分かった。ありがとう」
それだけ言うと、シシュは崖から飛び降りる。
数階分の高さを、彼は剣閃で勢いを殺しながら着地した。川に向かって駆け出す。
平たい死の国の大地を横切る川は、相当に広い。
ただ渡れないということはないだろう。近づいてくる川岸を前に、シシュは何の躊躇いもなく水の中へ踏みこんだ。
だが途端、周囲の景色が変わる。
別に心界から弾き出されたわけではない。ただ彼は川岸の少し手前に戻されていた。
「なんだ……?」
怪訝に思いながらもシシュはもう一度川へ向かう。静かに流れる水に踏みこもうとして――
もう一度、先程の場所に戻された。
何の力の関与も感じなかった。ただ自分の場所だけが移動した。
よく分からない事態に困惑するシシュへ、足下から声がかかる。
『この川は、あくまで人間の領域のようですね』
「来たのか」
いつの間にか足下にとぐろを巻いている黒蛇は頭をもたげる。
蛇は『見ていてください』と言うとしゅるしゅると川縁に向かった。その姿はやはり水に触れようとした瞬間ふっと消えて、シシュの隣に戻る。
黒蛇は考えこむように捩れた。
『おそらく、あなたや私は人ではないので、この川に踏みこめないのでしょう。死者が海を渡れないのと同じです』
「……それは」
つまりは、この川の手前と向こうは繋がっているように見えて連続していない。少なくとも彼にとっては。サァリのところに行くには、あちら側に繋がる心界から来なければならなかったのだ。
――ようやく辿りついたと思ったのに、また振り出しに戻ってしまった。
その事実に呆然として、シシュは遠く光る青い楔を見つめる。
氷の中には目を閉じた妻が眠っている姿が見えるようで……彼は喉元にせりあがる熱をのみこむことしかできなかった。
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