第198話 焔葬
神話の街アイリーデは、今や忘れられつつある街だ。
時の流れに置き去りにされた街。氷漬けになった神秘の街は、もはや誰を迎えることもない。金と力だけを重視する人間たちにとっては、ただそこにある険しい岩山と同じだ。
カロック朝ロンサ国将軍、ニド・ファサもそのように考える者の一人であるらしい。
彼は人払いした後、シシュから一通りの説明を聞くと、面白くもなさそうに言う。
「今の時代になって神と人外の争いか。それが人間にまで影響しているとは迷惑な話だ」
「正確には、人外は外洋国から渡航してきたんだ」
サァリが死の国に封じられているのは死の神と相殺してのことだが、それは厳密には人外と結びついていない。遠因ではあるが別件だ。
「どちらでも構うものか。あの不吉な軍勢がなんとかなるならな」
ニド・ファサが言うのは、灰の少女ヨアが操る死者の軍勢だ。
この大陸を舐め尽くさんとする魂のない集団。その次の標的がカロック統軍になるだろうということは、当人たちも承知していることらしい。ニド・ファサは気だるげに頬杖をつく。
「それで? お前は十万近くに膨れ上がったあの軍勢をどうしようというんだ?」
「軍勢をどうにかするつもりはないんだが」
「ないのか」
ニド・ファサが真顔になる。シシュは素直に頷いた。
「俺の目的は死者を操っている人外の方だ。その人外を殺せば軍勢は止まると思うが」
「なら」
「ただ殺してしまうと俺の目的が果たせないので」
「なんなのだお前は!」
どん、と肘掛けを叩かれシシュは閉口する。
広間にいるのは、大振りの木の椅子に座るニド・ファサと立ったままのシシュだけだ。叱責されて身を竦める無関係な人間はいない。
だからシシュも平然と返した。
「なんだと言われても。俺は俺の目的のために動いている。そもそもアイリーデは国の利害関係に関与しない」
「なら何故ここにいる」
「拘禁されたからだが」
「そう言えばそうだったな……」
シシュが陳情してニド・ファサの前に来たわけではない。成り行きで引き出されただけなのだ。足下で黒蛇が『あなたはどうしてそう相手の調子を崩させるんですかね』とぼやいている。
だがシシュとしては真面目に聞かれたことに返しているだけだ。勝手に先を想像され勝手に落胆されても……とは思う。
ただ死者の軍勢を相手にする指揮官の苦労が分からないわけではない。死者は多少の攻撃には怯まない。泥人形を相手にするようなものなのだ。
シシュは軽く手を挙げて発言権を得る。
「死者の軍勢をどうにかするつもりではなかったが、やればできると思う」
「……何ができるんだ」
「どうにかする」
事実でしかないことを言うと、ニド・ファサは憐れむような目でシシュを見た。
けれどこの二十五年、そういう目で見られることにはすっかり慣れてしまった。人は理解できないものと対面した時、えてしてこういう目をする。足元の黒蛇が『あなたは説明が足りないんですよ』と言っているが、ここで人に見えない黒蛇に「どんな説明を足したらいいのか」と助言を仰いだらますます憐みの目で見られてしまう。心苦しいが今は聞き流すしかない。
シシュは自分なりに考えて、「これは言わなければ」ということを口にした。
「ただし俺が死人たちをどうにかしている間に、当の人外に逃げられたら困る」
前回接触したことで、灰の少女はシシュを警戒しているはずだ。死者や虫を矢面に立たせて自分は逃げてしまうということもあるだろう。そんなことになって隠れられでもしたら大変だ。
シシュはだからこそ、ニド・ファサを見据えて言った。
「だから、もし俺がそれをするなら――協力を願いたい」
※
死は特別な訪れをしない。ごく当たり前の顔でいつの間にかやってくる。
今この大陸において、死のもっとも分かりやすい顔は、死者そのものだ。
平原に点々と築かれた砦柵をまったく気にする様子もなく進軍してくる軍勢。彼らには隊列も何もない。ただ前に進み続けるだけだ。
死んだ時のままの姿の軍勢は、ぼろぼろの鎧と武器で、血と腐臭を漂わせ進んでくる。その数は膨らみきって、遠目からは蝗の群れのようだ。
事実それは間違いでもない。死者の軍勢の後ろには無数の虫たちが控えている。それらは『灰』に使役される死者の魂だ。いわば死んだ者たちは体と魂をそれぞれ別に使われている。分かりやすい目的もなくただ大陸を踏み荒らすためだけに。
「……外洋国もとんだ化け物を擁していたものだ。きちんと絶滅させてくれていればよかっただろうに」
布陣した軍の只中で、報告を受けたニド・ファサは苦い顔で吐き捨てる。
今まで散々情報としては聞いていたが、自分が対峙する側になると醜悪さに恨み言も言いたくなる。悪い夢なら早く覚めて欲しいくらいだ。
だが――何もせぬまま待っていたわけではない。
「そろそろだな」
じわじわと近づいてくる軍勢の先頭が、最後の砦柵の前に差し掛かる。
彼らは黙々と柵に向かって進軍し続け……そしてそこに掘られていた縦穴へと落下した。
「やった!」
布陣している兵たちの中から快哉の声が上がる。
一度落ちたら自力で這い上がれないほどの深さの縦穴は、砦柵の前に並行して長く掘られたものだ。
普通の軍勢なら気づいて止まっただろうが、死体たちには関係ない。今も彼らは、前の人間が落下しているにもかかわらず止まらぬまま進んでいく。死体は次々壕に落ちていき、骨肉がぐしゃりと重なる音だけが続く。
その異様さに青ざめる兵士たちも多い中、ニド・ファサは冷淡に言い放った。
「火を放て」
長く深い壕の内外には油をしみこませた乾木が敷き詰められており、その前の砦柵にも油がかけられている。
そこに向かって、彼の命令で無数の火矢が放たれた。たちまち炎が生まれ、壕を起点に炎の壁が生まれる。
平原の風にむっと熱が混ざる。肉の焼ける嫌な臭いが漂い始める。
だが、それでも死者たちは止まることがない。目の前に見える炎壁へと自ら踏み入っていく。
深い壕が死体で埋まり、その上を彼らは焼けながらゆっくりと、だが着実に近づいてくる。
「……なんて有様だ」
誰かが呟いた言葉は、この場に居ざるを得なかった人間たちの総意だろう。
流れてくる臭気に口元を押さえて吐き気を堪える者も出る中、ニド・ファサのもとに斥候が一人駆け寄る。その報告を聞いた男は頷いた。
「分かった。始めるか」
炎が燃える。黒い煙が天高く昇っていく。
生と死の狭間に在る平原で、一人の青年が燃え盛る炎を眺める。
『どうですか?』
「大丈夫、だと思う」
いささかふわっとした返事で答えたのは、布陣したカロック統軍の中にいたシシュだ。
前線近くにいる彼は旅装姿のままで、鎧を纏っていない場違いな様子は周囲の兵士たちから訝しげな目で見られていた。
シシュはウェリローシアの刀を手に歩み出す。
身を隠すために紛れていた布陣の中から抜けて前へ。
炎の壁まではまだ距離がある。だが死人たちはそこをゆっくりと詰めてきている。
青年は、彼らの倍以上の歩みで一人前に出た。装飾鞘よりすらりと美しい刀身を抜く。
彼は、届かもかもしれぬ宣告を口にした。
「灰よ、お前を自由にさせ過ぎたと反省している」
再び灰の少女とまみえるのに二十五年もかかったのは、彼女が慎重に雲隠れしていたことが最大の理由だ。
だがそれを差し引いてもシシュが彼女の討伐を第一に動いていなかったこともまた事実だ。
灰の少女ヨアは、巧みに人を操り死者の軍勢を作り上げた。それに相対するのは人間の役目で、人から外れてしまった自分が介入し過ぎてもよくない。自分の目的はあくまでサァリの奪還だ。――そんな考えがあったから、ここまで後手に回ってしまった。過ぎたことではあるが、申し訳なく思う。
シシュはただ一人、十万にのぼる死人たちを見ながら言う。
「だが、ここまでだ」
刀を振るう。
一閃。
神の息吹を帯びたそれは、燃え盛る死体の軍勢をすり抜けた、ように見えた。
何も起こらないと、後方で見ていた兵士たちが拍子抜けしたのは最初だけだ。
次の瞬間、波のように迫りつつあった死人たちが一斉に燃え上がる。
今までのように赤い炎にくすぶるわけではない。神の青い焔によって灼かれ始める。
高らかに立ち昇る青焔に兵士の一人が呆然と呟いた。
「……なんだこれは」
遥か遠くに至るまで一律に燃え上がる青焔。
それはまるで大陸そのものが焼かれているような眺めだ。地平に至るまで青い火が高く揺れている。
美しく神秘的な、だがそれはあくまで神の焔だ。
焔は死人たちを見る間に灰に変えていく。彼らの後に続く虫までも。
悲鳴が聞こえる。それは虫たちの断末魔だ。
神である青年は、痛切な目で燃えていくかつての人間たちを見つめた。
いつの間にか彼の隣に並んでいる少女、冬の巫ミリヤが笑う。
「そう。それでいいの。全て焼いてしまっていいのよ」
「全部は焼かない。人から外れたものだけだ」
驚きもせずシシュが返すと、ミリヤは愛らしく笑う。
「あなたはそれができるのに? 大陸全てを焼いても、あなたの大事な神が戻るならそれでいいでしょう?」
「妻はそれを望んでいない」
サァリはアイリーデを守るために自ら楔になったのだ。
彼女は、シシュが大陸全土を焼いても許すだろうが残念にも思うだろう。
ミリヤは楽しそうに細い肩を竦める。その青い瞳に、シシュは言った。
「……あなたは、サァリーディに少し似ているな」
『あっ、こら!』
「え、そう?」
足下の黒蛇があわてたように言い、ミリヤは喜色を浮かべる。
二者のその反応は何なのかシシュが問おうとした時、ミリヤは白い腕を上げた。真っ直ぐに燃え盛る青い焔の向こうを指差す。
「さあ急いで。今ならきっと届くから」
彼女が何を示しているのか。その先にあるものはただ一つだ。
シシュは問いをやめると頷く。自らが生んだ青い焔海へ向かって駆け出す。
その先が暗い死の国に繋がっていることを信じて。
彼は揺らぐ焔の中へと飛びこんだ。
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