第197話 神話より来たる
大陸西部にあるカロック朝諸国。
二十年前にシシュがこれらの国を訪れた時は、一旅人として市井の人々に聞きこみをして回った。
そして今は、というものの――
『どうして投獄されたんですか』
「何故だろうな……」
カロック朝ロンサ国にて、シシュは入国してまもなく兵士たちに捕縛されたのだ。
放り込まれたのは淀んだ空気の地下牢で、コヘリオと違って鉄格子の嵌まった小さな牢がいくつも並んでいる。他に投獄されているのは、見るからに態度の悪い破落戸ややせ細った老人などで、あまり一貫性はない。
他の人間には見えない黒蛇が、呆れているようにシシュの隣でとぐろを巻いた。
『また知らないうちに何かに引っかかったんでしょう。戦前でぴりぴりしてましたからね』
「駄目なことは最初に教えておいて欲しいんだが……」
『教えたらそれを避けられるから意味がないじゃないですか』
「言われてみればそうか」
シシュからすると「やってはいけないことを教えてくれたらしない」なのだが、悪人であれば「咎められない線をつけばいい」となるだろう。つまり何が何だか分からないうちに捕らえられたのは正しい。正しいのだが。
「投獄されてる場合ではないんだが」
『投獄されてる場合がある人の方が少数派だと思いますよ』
灰が生み出した軍勢は神出鬼没だ。いつカロック諸国を攻めてくるか分からない。
そこを叩きたいと思っているので牢にいる場合ではないのだ。
「ただ、また牢を壊すのはな……」
牢というものは、人を閉じこめるために作られたとあって、壊すのは難しくないのだが直すのは大変そうで気が引ける。
とは言ってもここに居続ける気はないので、できるだけ支障がなさそうな箇所を壊すしかないだろう。石床に正座していたシシュは立ち上がると鉄格子に歩み寄る。武器と荷物はまた取り上げられてしまったので、手袋を嵌めた手で扉部分に触れた。
その時、複数の足音が地下牢に降りてくる。
現れたのは衛兵が二人だ。彼らはシシュの牢の前まで来ると言った。
「牢を出ろ。ニド様がお会いになるそうだ」
その言葉に、シシュは素直に頷いた。
ニド・ファサはカロック朝ロンサ国の将軍家現当主だ。
ということは、有名な話なのでさすがに知っていた。
問題は、そんな人間に何故呼び出されるかだ。
「――お前か」
軍議が行われるのであろう広間で、壮年のニド・ファサは椅子に座ったまま尊大に言い放つ。
槍をつきつけられたシシュは、立ったまま吟味の視線を見返した。
「何故捕まったのか分からないんだが」
平然とした問いに、ニド・ファサは笑う。
「これだ」
朱塗りの柄に収まった懐剣は、確かにシシュの荷物の奥にあったものだ。
この旅のはじめにもらったものを見て、彼は頷く。
「確かに俺のものだが」
「どこで手に入れた?」
「知り合いから譲り受けた。西部に旅をして困ることがあれば役に立つかもしれない、と」
その相手はアイリーデの化生斬りであるタギだったのだが、前回カロック諸国に来た時には特に困らず使わなかったのだ。ただ言われた通りずっと持ち続けていたのだが、何か問題があったのだろうか。
ニド・ファサは眉を寄せる。
「なるほど。さてはタギのやつ、質にでも流したか」
「本人から譲り受けた」
「ふん? あいつ、まだ生きているのか。いつ頃だ?」
「二十五年ほど前に」
ニド・ファサが不可解げな顔になる。シシュの足下で黒蛇が『あなたは二十五歳以上には見えませんよ』と付け足した。
そのおかしさを、けれどニド・ファサは無視することにしたようだ。
「二十五年か。ならとっくに野垂れ死んでいるだろうな」
「いや、生きているが」
『話の腰を全部折っていくのはやめましょうよ』
「そう言われても……」
話の骨子が分からないので違うことには「違う」と言うしかない。
シシュはここまでのやりとりで分かったことを整理する。
「つまりあなたは、タギの知り合いなんだな」
「……やつの弟だ」
言われてみれば面影がある気もするが、外見年齢が違うせいでよく分からない。生粋のアイリーデ人に見えたタギが、カロック朝将軍家の出だったというのは驚いたが、アイリーデに暮らす人間は実際、色んな場所から行きついた者も多かった。タギもその一人だったということだろう。
続柄が分かったので、シシュは自分も情報開示する。
「タギは同僚だった。俺が旅に出ると分かった時に、その懐剣を譲り受けた。今の彼は、亡くなってはいないが自由に動ける状態ではない」
「……どういうことだ?」
「これ以上は、彼と確執がある相手には教えられない」
血縁であっても問題がある相手というものはいる。タギの名誉を守る気はあるが勝手に余分な情報を与える気はない。
きっぱりと話の腰を両断してくるシシュに、ニド・ファサは舌打ちした。
「言える立場か?」
「立場の問題ではないと思う。彼を売ることはしない」
どんな状況で聞かれても答えは同じだ。
タギはアイリーデの住人で、シシュは妻から「私の庭を守って」と頼まれているのだから。
捕らわれ人の立場でありながら臆するところのない青年を、ニド・ファサは理解しがたいもののように眺める。
「なら、痛めつけられたなら言う気になるか?」
「多分、それは難しいと思う」
シシュとしては正直なところを言っただけなのだが、ニド・ファサには鼻で笑われた。
彼が衛兵に目配せすると、取り上げられていた刀がシシュに返される。
「取れ。私に勝てたらタギには手出しも口出しもしないと約束してやる」
権力者であり、圧倒的な武力の体現者でもある男の戯れ。
これは、そんな類のものであろう。
ただシシュは軽く眉を寄せると、受け取った刀をそのまま衛兵に戻した。ニド・ファサが嘲笑う。
「どうした。臆したか」
「いや、そういうことならこの刀は使えない。別のものを貸して欲しい」
「……どういうことだ」
「この刀は、人ならざるものを斬るために拝領したものだ。人間相手の、それも試合では使えない」
ウェリローシアの蔵にあった神殺しの刃が、シシュの今の刀だ。人間相手でも殺していい場合なら振るえるが、試しに使うのでは刀に無礼だ。
衛兵が困惑の目を主人に向ける。
ニド・ファサは立ち上がりながら面倒そうに言った。
「貸してやれ」
「は……」
衛兵が貸してくれた剣は直剣だ。
シシュは鞘から抜いたそれを確かめて鞘に戻す。大剣を手に向かいに立ったニド・ファサに頷いた。
「いつでも大丈夫だ」
「お前が挑戦者であろう?」
「俺を試したいというなら、そちらが来る方が分かりやすいと思う」
挑発ではなくただ正直に言っただけなのだが、ニド・ファサの顔は見事に歪んだ。黒蛇が巻き添えにならないようにそそくさと脇に避ける。
「……大口を叩くな小僧」
怒気混じりの恫喝に、シシュは顔色を変えない。さすがにここを訂正したら相手を怒らせそうだと思って無言を保ったが、それはかえって相手を怒らせただけだった。
「どこまで舐めた態度だ!」
ニド・ファサは激発して剣を抜く。
大剣を軽々と扱うその速度は、五十歳近くの人間のものではない。ほとんどの人間なら反応できぬまま斬り捨てられただろう。
ただシシュは、自分の頭に振りかかるその厚刃をぎりぎりまで見上げていた。
見上げたまま、己に振れる直前でつい、と右に躱す。
最小限の動きで大剣に空を切らせながら、鞘から直剣を抜く。
反射的に首を狙いかけ――それは失礼かと思い直して肩を。
だがそこで、相手が怒声を上げて横薙ぎに大剣を振るってくる。
シシュはその一撃を、刃の上を滑らせ、いなした。
足を踏みこむ。体の向きを入れ替える。
相手が体勢を崩してよろめくのを支えるか迷った。
ニド・ファサはその一瞬後、自力で踏みとどまるとシシュを睨む。
「貴様」
憎々しげな目を向けられ困惑する。
けれどニド・ファサはそこで気が済んだのか体を引いた。彼は椅子に戻りながら捨てた鞘を拾い上げる。
「もういい。お前の腕は分かった」
「では――」
「タギのことは不可侵にしてやる。どのみち大した興味もないしな。ああ、どこで何をしているのかは教えてもらおうか。不可侵ならばいいのだろう?」
シシュは借りた剣を鞘に戻しながら考える。
「……ならば、もし不可侵の約束を破ってタギを害そうとする気配があったら、俺があなたを斬るがいいだろうか」
その言葉に、衛兵たちが顔色を変える。槍の穂先を向けようとする彼らを、ニド・ファサは軽く手を上げて止めた。
「とんでもないやつだな。若造のくせに」
「ちなみに俺は、あなたと大して年が変わらぬと思う」
「寝言か?」
「本当の話だ。俺は、アイリーデから来た。タギは今もあの街の中で眠っている」
今は氷の中に閉ざされた神話の街。
その名前を聞いて、ニド・ファサは大きく目を瞠った。
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