第196話 西進
早朝の山々は少し湿り気を帯びて緑も色濃い。
ざわめきが木々の合間で反響しつつも、全てを吸いこんで懐にしまいこむようだ。
空は白く、雲が冷気に溶けこんでいる。空を飛ぶ影に気づいて顔を上げたシシュは、それが鳥であることを確認すると視線を戻した。正面に立つ女は微笑む。
「またいつでもいらしてください。……とは言え、私たちはしばらく姿を晦ませますが」
コヘリオの国境門で、カミナはそう言って深く頭を下げた。
返してもらった馬の手綱を引き、荷物も回収したシシュは、かしこまってそれに答える。
「その方がいい。あの『灰』は俺の方でも追うが、向こうの方が自由に移動できる。いつまた来るか分からない。用心した方がいいだろう」
「肝に銘じます。あなた様もご武運を」
カミナがそう言う隣で、青蛇の少女はもじもじと何か言いたげにしている。彼女はシシュとカミナ、二人の視線を浴びるとようやく口を開いた。
「な、名前をつけたのです」
「名前?」
「自分にです」
「ああ」
確かに青蛇の少女に「名前はないのか」と尋ねたのだ。シシュとしては挨拶をするための礼儀の一部だったが、今まで種族名しかなかった少女は、人と生きていくにあたって自身に個人名をつけることにしたのだろう。少女は気恥ずかしそうに名乗る。
「ヴィアー、といいます。ふるさとの古い言葉で『つなぐ』という意味です。よろしくおねがいします」
「いい名前だな」
少女なりに考えてつけたのだろう。素直な賛辞にヴィアーは顔を赤らめる。
「助けてくださって、ありがとうございました」
「こちらこそ世話になった。ありがとう、ヴィア―」
突然押しかけて牢を壊した人間に、彼女たちは最大限の便宜を図ってくれた。身を屈めて礼を言うシシュに、少女はまだ名前を呼ばれ慣れていないのか照れたように微笑む。
「あの、何か怪我をしたり、困ったら、助けにならせてください」
「ありがたい話だが――」
「わたしは、人と生きて人を死ぬと決めたので。適度に年を取っていきたいのです」
「ああ……」
そういう生き方を、少女は自分で選んだのだ。
ほんの短い数秒に、シシュは自分とは違う人外の生き方を思う。
この二十五年で多くの人外を知ったが、皆人間との関わり方はそれぞれ異なっていた。その一つを選んだヴィアーに、シシュは姿勢を正すと頭を下げる。
「なら、困ったことになったらお願いしよう。断ってくれて構わないから話半分に聞いてくれ」
「まじめに聞きます」
即答したヴィアーは、くすりと大人びた笑顔を見せる。そう言えば彼女の実年齢はいくつなのか知らない。シシュは外見から勝手に子供だと思っていた己を内心で恥じた。
「ありがたい話だ。恩に着る」
「こちらこそ」
笑い合う二人に挨拶をして、シシュは馬上の人となる。手を振る二人の姿が、曲がる山道の向こうに見えなくなる。
国境を離れ、森の中を縫う細い道を下りはじめると、鞍の後ろに乗っている黒蛇が嘯いた。
『やはり全然彼女は蛇ではありませんでしたね』
「心界では蛇だったから、そのせいかもしれない」
『それは小癪な……』
何が黒蛇の琴線に触れているのか分からない。沈黙を保ちながら、どう切り出そうか迷うシシュに、黒蛇は先手を打って言う。
『わたしに名前は要りませんよ』
「…………」
『心を読まれたとか思っていますね。長い付き合いなのでそれくらい分かります。わたしは個であって個ではないので。名前は不要なのです』
「そうか……今まで気が回らずにすまなかった」
二十五年も一緒に旅をしてきて今更とは汗顔の至りだ。
シシュが己のいたならさを噛み締めていると、蛇はぱしぱしと背中を尻尾で叩いてくる。
『あなたはちゃんと配慮してくれましたよ。最初に何と呼べばいいか、聞いてくれましたから』
「それは普通聞くだろう……」
『あなたの普通は普通ではないのですよ。よく言われるでしょう』
「言われる……」
『だから余計なことを気にしないように。白月が戻ったら、あなたを変えないでいられたことをまず誉めて頂きたいですね』
ぺしぺし背中を叩かれるのは初めてではない。気を取り直すとシシュは顔を上げた。
「俺についての改善はいつでも言ってくれ。で、これからの方針としては西……で合ってるか?」
『合ってます。あちらにはまだ軍事力がある国が残っていますからね』
二十五年前、大陸で名を馳せていた武門は東のタール家だが、シシュが半壊させたのをきっかけに、周辺の武装勢力に突き上げられ没落してしまった。
代わりに現状、大陸で一番まとまった軍勢を持っているのが西のカロック朝諸国で、四カ国ほどの王家が血縁・姻戚で結ばれて支配圏を築いている。
そこに存在するのがカロック統軍で、戦力としては今大陸内でもっとも大きい。シシュは二十年以上前に一度そこを訪ねたことがあった。
二十年は子供が大人になるほどの時間だ。シシュは薄白い空を見上げる。
「……さすがに二十年経っていたら、みんな忘れてくれているだろうな」
『あなたは面白いので。覚えられているかもしれませんね』
「できるだけ人と会わない方向で行こう……」
今回の「灰」との接触は大きな前進だが、相手にも自分が狙われると分かったはずだ。
そして、本気で逃げ隠れされたら捕まえるのは至難だ。
ただ「灰」がこの大陸の更なる混迷を狙うなら、間違いなくカロック統軍を狙ってくるだろう。
今までもそうやって強敵を狙って死人の軍勢を送りこんできていたのだ。それが成功すればするほど人心は揺らぐ。それが相手なのだとしたら、ひたすらにたちが悪い。
シシュは木々の合間から空を見上げた。
「結局、移動が一番時間がかかるな……」
『距離の短縮を使えないのはさすがに元人間ですね。可能な限り急いでいきましょう。あの「灰」が、誰かに殺されてしまうまえに』
その可能性は常にあるのだ。シシュは黙って頷く。
結局のところ、一番手強いのは人間だ。彼らは学習し、団結し、神にまで手を届かせることさえある。
かつてそうやって「灰」も一度、外洋国で排斥されたのだから。
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