第195話  青い焔



 整備もされなくなり荒れた街道。

 低木が浸食し、穴だらけになったそこを行く人間は、けれど無にはならない。

 今でも稀にいるのだ。「氷に閉ざされた神話の街を見てみたい」と考える人間が。

 見に行ったからと言って、そこには何があるわけでもない。氷は分厚過ぎて決して溶けず、奥にうっすら赤い楼門が透けて見えるくらいだ。不思議な眺めだがそれ以上何があるわけでもない。

 それに、この氷塊を見ていると人は不思議と罪悪感に似た落ち着かなさを覚えるのだ。

 だから見に来た人間も長居はしないし、二度と来ようとは思わない。誰かに勧めることもしない。

 おかげでこの場所は、いつもほどほどに閑散としている。


「……風の噂には聞いていましたが、本当にこんなことになっているとは」

 巨大な氷塊を見上げてぼやいているのは、灰色の髪の青年だ。直剣を佩いた彼は、上流の人間らしい空気を漂わせながら、だががりがりと乱暴に頭を掻いた。

「何がどう影響するか分からないから困ったものですね。神なんて触れずにいるのが一番でしょうに」


 彼がこの大陸にいた頃は、そうやって神々には触れず人々は生きてきたのだ。

 アイリーデにおいては月の神には神供を捧げ、土地神である蛇は月の神に抑えさせ、人の暮らしを保っていた。

 その均衡が崩れたのは、外洋国からの流入が遠因だろう。戦乱が、人外が、少しずつこの大陸に流れこんできた。

 世界でもこの大陸はもっとも古きものが多い。人間の手が届かぬ神秘の領域が今なお現存している。そんな領域が、外からの力で大きく揺らいで変化しようとしている。今、恐れられている死者の軍勢は、その表層にしかすぎない。


 青年はしばらく顔を斜めにして氷塊を見ていたが、溜息を一つつくと朽ちた橋に向かって踏み出す。

 けれどその爪先が橋に踏みこむ前に、氷塊の上に黒い靄が現れた。

 立ちこめる煙のような靄は、たちまち形をとって人の背丈ほどもある大蛇になる。

 大蛇はゆるりととぐろを巻くと、青年に言った。

『ここはお通しできません』

「なるほど。あなたがその役目を負ったわけですか」

 興味深げに眺めてくる青年は突然の制止に動じる様子がない。蛇は落ち着いた声音を保つ。

『この地にいるのはわたしなので。わたしが守護につくのは当然でしょう』

「月に抑えられていたあなたが、ですか。私もまさかあなたが滅せられると更にその下が動き出すとは思いませんでしたよ」

『何もなければ、わたしが少しずつ戻って終わるはずでした。【地の気】を起こしてそそのかした者がいたからですよ』

 いささかの棘を含んだ物言いに、青年は肩を竦めた。

「ああ、『灰』とやらですね。向こうの大陸ではひどく忌まれていたそうですよ。あれらは本質的に傾城なんだそうです。人を篭絡し、死者を傀儡にし、国を滅ぼして乱世を生む、そういう生き物だそうで」

 青年は皮肉げに笑いながら歩を進める。黒蛇を前に怯む様子はない。

 色褪せた橋が軋む音を立てる。

「五尊とこちらの大陸の神の違いは、種として存在するか不死の個として存在するかでしょう。前者は人の在り方に近く、だから異種と拒絶された。もし私たちも種としてあったのなら、今頃人に排斥されていたかもしれませんね」

『笑えない仮定です』

 黒蛇は緊張に身じろぎをする。


 ――この青年は、氷の封印を破れる数少ない存在だ。

 だが、それをさせてはならない。街の主が不在の今、何者も立ち入らせるわけにはいかない。


 地中にある本体と繋がる黒蛇は、決死の覚悟を決めると本体から力を汲み出し始める。

 そんな蛇を見て青年は目を丸くした。すぐに皮肉げに笑う。

「あなたは、例の分体と意識や記憶を同期しているのですか?」

『……どうしてそんなことを聞くのですか』

「いえ、ずいぶん彼に感化されたなあ、と思いまして」

『…………』

 沈黙がささやかな敵対の意志に変わる

 それを感じ取ったらしい青年は笑った。

「ご心配なく。あなたの心配するようなことはしませんよ。ただ先のことを考えているだけです」

 青年は前髪をかきあげると巨大な氷塊を見上げる。

「さてエヴェリ、あなたの選んだ男はどこまでをひっくり返してくれますかね」




                 ※




 心界を出てもとの客室に戻った時、そこには夕食が用意されていた。

 と言っても出かけていたシシュの分だけだ。意外に時間がかかったせいか、黒蛇とミリヤはすっかり寝台でくつろいでいた。

「あ、おかえりなさーい。ごろごろしてまーす」

『してます。夕食が届けられてますよ。こちらは先に頂きました』

「……先に? 分かった」

 ごろごろしてるのは見れば分かるのだが、離席している間にずいぶん仲良くなっている。具体的にはうつぶせになっているミリヤの上に、黒蛇がとぐろを巻いている状態だ。

 何があってそこまで親しくなったのかは不明だが、仲が悪いよりはいい。

 シシュは食事が並べられたテーブルについた。在室している時に食事が運ばれてきたなら固辞していただろうが、運ばれてしまった以上ここから断る方が迷惑だ。

 山の幸を中心とした食事は、派手さこそないが気を配られたものだと分かる。一人だけで食事をすることに少しの座りの悪さを覚えながら、シシュは山菜の煮つけに手を付ける。

『それで、どうだったのですか』

「心界はやはり違った。木の床の空間だった。人造物の心界は珍しいな」

 大抵の心界は自然物に囲まれた風景になるのだ。

 シシュが知っている例外は黒蛇で、アイリーデの地中に眠り人の欲で膨らんでいく蛇は、もう一つの無人のアイリーデという心界を持っている。だがそんな心界を持っているのは黒蛇だけだ。普通は人の手を感じない心界がほとんどだ。

 にもかかわらず人の手を感じさせるあの白木の床は、人間と関わりたいという感情の表れだろうか。

「あとは、少し話してきた。人との接し方を迷っているようだったから」

『それを話すのにもっともふさわしい人は確かにあなたでしょうね。もっともあなたのように皆ができるかといったら無理ですが』

「え」

『無理ですが』

 二度言わないで欲しい。まずいことを言ったかと思い返し……シシュは席を立とうとする。青蛇やカミナに一言付け足しておくべきかと思ったのだ。

 しかしそこにミリヤの声が飛ぶ。

「大丈夫だよ。少し理想的過ぎるくらいの方がいいの。未来に期待が持てるでしょう?」

「そういうものだろうか……」

「そうそう。それより、さっきの話は分かった? 虫を全部あなたが燃やしてしまえばいいって」

「燃やせない。その逆ならできるが」

 シシュのこの力は、サァリ由来のものなのだ。彼女の力はどちらかと言えば氷や冷気の属性に寄っている。火や熱は、彼女の兄神の特性だ。

 しかしミリヤは、細い足をばたばたと振って笑った。

「できないって思ってるだけじゃないかな。あなたは後天的な神なんだから、本性に縛られてない。もっと自由なはずだよ」

「そう言われても心当たりがないんだが」

 川魚を焼いたものは、少し冷めてしまっているがとても美味しい。塩加減が絶妙だ。

 行儀よく食べ進むシシュを、少女は寝台に頬杖をついて眺める。

「思い出してみればいいよ。あなたにとって自分の中の力ってどんな形をしてた?」

「どんな形と言われても……」

 いつのまにか自分の内にあったもの。

 それを己がどう捉えているかと言えば――



「……いない」

 意識を逸らした一瞬の間に、寝台の上から少女の姿は消え失せている。

 そこにいるのは彼女の背中で丸くなっていたはずの黒蛇だけだ。

 黒蛇は呆然としているシシュに気づいて頭をもたげる。

『帰ったみたいですね』

「……なんでいないんだ?」

『本体じゃないからです。あなたも気配を感じなかったでしょう?』

「そうなんだが……」

『ちなみに彼女、あなたとわたしにしか見えていませんでしたよ。食事が運ばれてきたというのは嘘です』

「何故そんな嘘を……」

『説明するのが面倒だったので』

 大雑把にもほどがある。

 巫の種別は様々だが、まさか実体と見紛うような分体を動かせる人間がいるとは思わなかった。

 一体なんだったのか。からかわれた気さえしてしまう。

『彼女はちゃんと味方ですよ。ただあんまりあてにしない方がいいです。吉兆のおみくじくらいに思っていてください』

「吉兆のおみくじに感情を抱いたことがない……」

『現れたら幸運だけど、出現を期待しない方がいい、という感じです』

「ちょっと分かった気がする」

 ともあれ、味方だというなら彼女の言うことに真はあるのだろう。

 シシュはまだ熱いお茶に口をつける。

「死者たちの魂を燃やす、か」

 けれどそれをするためには、まず大陸で猛威を振るっている死者の軍勢を止めなければ。あれを放置しては「灰」の言う通り新たな死者が継ぎ足されていくだけだ。


 シシュは己の中の力を意識する。

 サァリを失った日、こんな未来を予想しただろうか。しなかっただろうか。

 今はもう、遠い日過ぎてあの時の記憶から喪失しか取り出せない。自分の半分以上がもぎとられたようで、あれほどまでに空虚を感じたことはない。

 ただ、次にやることは決まった。

 妻を失ってから二十五年。欠乏も後悔も自らで飲み下し続けてきた。

 けれど彼はとうとう己を焼いていた青焔を以て――この大陸を焼くのだ。



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