第194話 人間と



「本当についてこなくていいのか?」

『ええ、彼女とここで待っています』

 その答えを聞いて、シシュが躊躇いを見せながらも頷いて扉を閉めるのを、黒蛇と少女は見送った。足音が遠ざかると、巫の少女は黒蛇に笑いかける。

「あなたのことを心配してたね」

『それくらい彼は善良なのですよ。かつて斬ったわたしを気遣ってしまうくらいには』

 黒蛇はチロチロと舌を覗かせる。

 この二十五年間、シシュと黒蛇はずっと一緒だったのだ。そしてその間シシュは常に、黒蛇を対等な道連れとして尊重してくれた。侮りも見下しもしなかった。

『……彼を神供に選ぶとは、白月の当然の選択でしょうが、残酷なことです』

「残酷? どうして?」

『善性そのもののような男に、彼女以外の全てを捨てさせたからです』

 本来的には恋に狂う男ではなかった。

 今でもきっとそうだ。彼は正しいまま変わっていない。

 ただサァリが神であったから、シシュはその在り方に殉じた。人の身である以上、全てを捨てなければ神に添えなかったからだ。

 結果として、彼は妻以外の全てを失った。この二十五年間がその象徴だ。

 巫の少女は口元だけで笑う。

「残酷だなんて。出会った中で、一番美しい人間を選んだだけでしょう?」

『白月はそうでしょう。それでよかったのだとは思います。ただ、彼は善い人間なのです』

 月に焦がれる蛇でさえ、彼の気高さを尊ぶほどに。

 黒蛇は、途切れた己の尻尾を振る。

『だから彼の代わりにわたしが聞きます。――あなたは何者なのですか』

 蛇の問いに、少女は紅い唇を綻ばせた。

 嬉しそうに、艶やかに。

 美しすぎるその笑みは、ひたすらに不吉だった。



                 ※



 ――死んでしまうのだとしても、人に必要とされていたい。

 心界で吐露された嘆きは、繕いようもない少女の本音だ。

 終わりながく広がる白木の床の上でシシュは小さな蛇を見つめる。

 この心界はサァリのいる坂には通じていない。だから長居するのは失礼だ。

 そう思いつつ、泣いている蛇を無視して出て行くのも、それはそれで失礼な気がした。

 シシュは躊躇しながらもしゃがみこむと、蛇にできるだけ目線を合わせる。

「人間と生きていくやり方は、一つではないのだと思う」

 青蛇が顔を上げる。一際青が濃い邪眼がシシュを見返す。

「俺の妻は神だが、彼女も一人だけ異種の孤独を抱えていた。俺がそれを本当に理解できたのは、彼女と同じ存在……人ではなくなってからだ」

 人として死に神として起こされてから、異種の孤独とはこういうものかと、ようやく肌身で感じて知った。

「ただ、それを理解できなかった頃でも、彼女への想いは同じだった。異種であることを理解して貴んでいた。彼女が神であっても人であっても、俺がその逆であってもきっとそうだ」

 ずっとそうしてきた。妻が少女であった頃から、彼女の在り方を尊重し、その意志を重んじてきた。

 人でないものと、人との。

 違いを分かっていたつもりだ。分かった上で、彼女を守って生きたいと願った。

 その気持ちは今なお欠片も変じることはない。薄れることもない。

「だからあなたも、人との間にちょうどいい関係を築いていけるよう話し合うといい。相手のために力を使うことだけが愛する方法ではないと……俺は思う」

 何かをしたい、という気持ちも、我が身を大事にして欲しい、という気持ちもよく分かる。

 だが、力はあくまで力だ。

 現に今のコヘリオは、青蛇の力を使っていない。それでも彼女は守られている。とても大切な宝物のように。

 青蛇の目からまた涙の粒が零れる。

 それが床に落ちる前に、シシュは手を伸ばして涙を受け止めた。掌の上に、次々氷に似た粒が転がる。

 涙石はぶつかりあって澄んだ音を立てると砕けてシシュの掌に溶け消えた。


『わたしは、人を愛しています。でもそれは、人には好ましくないのでしょうか』

「人はあなたを失いたくないだけだ。だから、あなたが腕を戻した時に詰りはしなかっただろう」

『カミナは、悲しそうでした』

「話し合いができていなかったからだ。でも、あの場はあの判断でよかったと思う。出血がひどかった」

『わたしは、カミナと生きていきたいです。カミナがいなくなったら、ひとりだけ残り続けたくない』

「言ってみればいいと思う。あなたの生き方は、最後にはあなたの選択だ」

『それを言って、悲しい顔をさせたら?』

「あなたの心を伝えればいい。あなたが彼女を悲しませたくないように、彼女もあなたを悲しませたくないだろう」

『カミナの話では、人は生ききったら川に向かうのだそうです』

「その時は、あなたも共に行けばいい」


 とめどない問いと答えが止まる。

 零れ続ける涙がやんだ。

 青蛇はそうして、少しの間言葉を探したようだった。

 見つけて拾われた感情は、素朴なものだ。


『あなたも、そうするつもりですか?』

「ああ」


 共に生きるために、人でなくなった。

 だから死ぬ時も、彼女を一人にしないように。


「妻が、寂しくないように。一人で泣かずに済むように」


 そう言って、シシュはふと気づく。

 もうずっと見ていないサァリの笑顔が、ひどく恋しいのだと。

 ―― 一緒にいたいのだと、寂しいと思っているのは、自分の方だ。

 彼の妻は目に見えて「寂しい」と面に出すから、いつからかそれを埋めるのは自分の使命だと思いこんでいた。けれど彼にも同じ感情はあるのだ。

 シシュは涙のなくなった掌を握りこむ。


「俺がそうしたいからしているんだ。……妻には呆れられるかもしれない」


 サァリは、彼がこんな風に旅を続けることを予期していただろうか。

 していないかもしれない。だからいつか再会する時には詰られるかもしれない。

 その方がずっといいと思う。


 青蛇は、じっとシシュを見上げていたが、小さな首をうつむかせる。

『わたしも、そうしたいです』

 ささやかに、けれど決意をこめて。


 そして心界は薄れて消えた。



                 ※




 緑に満ちた部屋だ。

 床も天井も壁紙も、淡い緑に揃えられている。

 窓は大きく、差しこむ月光は柔らかく、寝台際に置かれたランプは温かい火を揺らす。

 そのランプのすぐ傍に立って、ヨアは寝台を見下ろす。

 そこには一人の女が胸の上で十指を組んで眠っていた。

 否、眠ってはいない。彼女の命はもう失われている。

 ヨアは、美しい死人の姫を見下ろす。

「ミヒカ殿下」

 彼女は答えない。彼女は自ら二度目の死を選んだのだ。

 ヨアはミヒカの首に残る縄の痕に眉を顰める。痛みをこらえるような表情は、普段ヨアが決して見せない表情だ。

「あなたは結局、私から逃げてしまいましたね」

 青蛇は間に合わなかった。それどころかレノスも失ってしまった。

 まさかあんなところで神配と出くわすとは思わなかった。本当に運がない。

 得られたと思ったものは、油断するとすぐに指の間から零れ落ちる。そしてまた一人に戻る。この大陸に来てもそれは変わらない。――いや。

 ヨアは、自分の爪が掌に食いこむ痛みで我に返る。

 だからなんだというのか。もとから自分は一人だった。一人で、だからこそ行けるところまで行くつもりだ。

「……さようなら、ミヒカ殿下」

 ヨアのよき理解者であり、友人であり、けれど協力者であるには心が耐えきれなかった王女。

 二度目の死を迎えた人間の魂は、虫にもできない。「灰」の手の届かないどこかへ行ってしまう。

 だから置いていくだけだ。

 ヨアは友人のための部屋を出て、大陸の混迷の中へと戻っていく。

 終わる場所は決めていない。ただ自分たち人外が、自分が、本性のまま自由に生きられるように。

 一歩でも前に出て踊り続けるのだ。


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