第193話 涙石



 ミリヤと名乗る少女はそこそこに不審だ。

 顔は左右対称で美しく整っている。職人が端整込めて筆を走らせた人形のようだ。

 青い双眸にかかる睫毛は長く、黒々とした艶やかな髪は光の加減か銀にも見えた。

 彼女が腰に佩いた細剣を、シシュはまじまじと見やる。

「巫?」

「まだ半人前だけどね。『冬の巫』っていうのは生まれた街の通称みたいなものだから気にしないで」

「生まれた街……この大陸か?」

「そうだよ。ずっと遠いところだけど」

 遠いところとはどこだろうか。シシュはこの二十五年で大陸をおおよそは回りつくしている。少女の話の先を待っているシシュに対し、けれどミリヤは具体的な土地の名前を挙げなかった。

 代わりに少女は剣帯から細剣を外すと、それをテーブルに立てかける。慣れた手つきを見るだに、お飾りの武器ではないのだろう。黒蛇がミリヤに問うた。

『あなたの力で虫を排除してくれるのですか』

「さすがにそれは無理。死口のスムくんだってできないのに」

「彼を知ってるのか」

 タセルとジィーアの息子の名を挙げられ、シシュは目を丸くする。スムは宮仕えの巫だけあって、普通の人間が気軽に接触できるわけではない。

 ミリヤは優美な仕草で自分のこめかみをつついた。

「知ってるよ。死者に関する巫だと当代でスムくんが一番。でも『灰』から死者は奪えない。それに、排除って言うなら私よりシシュさんの方が強いよ」

「その俺が虫に困ってるんだが……」

「死の国で、でしょ?」

 ミリヤは両手を後ろに回すと、上目遣いでシシュを見ながら近づいてくる。そのような仕草の一つ一つが婀娜めいていて少女の年齢を分からなくさせる。

 彼女はシシュに触れるか触れないかのところでようやく足を止めた。シシュの胸くらいの高さで彼女は囁く。

「地の底より更に深くの根。あの場所には月の光も届かない。あそこで猛威を振るえるのは月そのものくらいでしょう。あなたではない」

 シシュは、神ではあるがそのものではない。妻に紐づいた存在としてあるからだ。

「なら簡単。あなたはあなたの力が最大限発揮できるところで戦えばいい。難しいことじゃないはず」

「俺の?」

 シシュは一歩下がる。さすがに近すぎる。彼のこんな近くに入ってくるのは妻だけだ。

 ミリヤは開けられた距離を不満そうにするわけでもなく、白い指で彼を指した。

「あなたは神供。神に捧げられた、神を選んだ人間。それであったもの。――ならば戦う場所は、心界ではなく地上でしょう?」

 少女が細めた青い瞳は、晴れた夜空を切り取ったようだった。




 シシュに迎えが来たのは、それからしばらくしての頃だ。

 黒蛇とミリヤは部屋で留守番するという。カミナに案内され後ろをついていくシシュは、おおむね黒蛇の推察通りの話を聞くことになった。

「七年前に、三人の蛇様がこの国に逃れていらっしゃったのです。お三方はお母上とご姉妹で、二十年近く前に外洋国から連れてこられたということでした」

「二十年前……先ほどの『灰』が連れてきたんだな。球に封印されていたのを見たことがある」

 かつて「灰」が持っていた籠に入っていた青い球。あれが「青蛇」だったのだろう。ただ「連れてこられた」ということは、あの籠にいた五尊全員が同意のもとでこちらに来たわけではなかったのだろう。

「お三方のうち、お母上は既に力の使いすぎて寿命がほとんど残っていらっしゃいませんでした。連れてこられた方に使われていたそうで、今思うとあの得体の知れない少女のことでしょう」

 二人が行く廊下は、いつの間にか日が沈んで壁の燭台が灯されている。前を行くカミナの影が壁に伸びる。

「ですが、そんな状況でもお二人はコヘリオのために己を尽くしてくださったのです。当時、大きな火災があり死に瀕した者が十数人出たのですが、あの方たちはご自身の力を使って彼らを拾い上げてくださいました」

「それは……」

「ええ。その代わりお母上は亡くなり、姉君の蛇様も数年して亡くなり、残ったのは今の蛇様だけです。亡くなった姉君は『これ以上は無理だから』と妹君のところに誰も通さないよう私どもに命じられました。妹君はだけは守りたいというお考えだったのでしょう」

「無理もない選択だと思う」

 残していく妹を擦り切れさせたくないと願う。それは自分が人を助けて擦り切れることと、きっと相反しない。ただ、残されてしまった妹はどうなのか。

「あの方たちは『人の役に立ちたい』という本性をお持ちなのです。ですから向こうの大陸では人から離れて、隠れて暮らしていたそうです。人と交われば、どうしても人を助けてしまうから」

「……ままならないな」

 シシュは、昔アイリーデの街で出会った五尊の一つを思い出す。人の愛情を知りたがった「白羽」は、サァリの怒りに触れて死んだ。「白羽」はどれだけ人を殺しても人の愛情を理解できなかったのだ。理解できぬまま殺し続けた。自分の中にある愛情に最後まで気づかなかった。

「青蛇」にもどこかそれに似たずれを感じる。人の役に立ちたいのに、彼女たちはそれを続けると死んでしまうのだ。

「あの力は、どれだけ前の状態に戻すものなんだ?」

「肉体に決定的な変化の起こる前に戻します。その際、前の状態からどれだけ月日が経っているかは関係ありません。ただ体が成長したり病などのように少しずつ進行するものは、『変化の起こる前』というものがうまく掴めないので無理だそうです。あくまで怪我などには対応できるだけですね」

「明確で短期的に起こった変化じゃないと駄目なんだな」

 それは使い方が限定されるが、寿命が違う人外にとっては有用そうだ。

 カミナは前だけを見ている。その目が何を映しているのか、シシュには分からない。

「人は、生ききったと思ったなら、自ら死の国の川を渡るのです」

 透徹した声音。

 それと同じ言葉を十年前にも聞いた。彼女の祖母が教えてくれたのだ。

 死者の名を、記憶を、功績を、罪を、業を、全て洗い流す川。

「それがあるべき姿で、蛇様をすり減らしてまで死を避けるのは、やはり違っていたのではないかと私は思うのです」

 カミナはちらりと己の腕を見る。

 その目には燃え滾るような後悔が、決して消えることなく灯っていた。



「こちらです」

 カミナはシシュが無言で頷くのを確認して扉を開ける。

 その先は暗い寝室だ。天蓋に覆われた寝台をカミナは指し示す。

 眠っているであろう少女を起こさないよう、シシュは足音を殺してそっと天蓋を捲る。

 青蛇の少女は広い寝台の中央で、赤子のように膝を抱えて眠っていた。

 涙の跡が目元に残っている。そこに窺える哀惜をシシュは知っている。この二十五年で少なくない数見てきた。――人ではないものが抱える孤絶だ。

 シシュは寝台に乗り出し、指を伸ばす。少女の額に触れる。

 ――心界が広がる。

 閉じていた目を開いた時、真っ先に見えたのは白木の床だ。

 艶やかな、よく磨かれた床。

 どこまでも続くその上にシシュは立っている。

 壁は見えない。四方の先はぼやけている。

 床の上にも何もない。

「ここは……」

 その呼びかけに応えるように、数歩先の床の上に小さな青蛇が現れる。

 細く頼りなげな、ぷつりと消えてしまいそうな蛇。透き通る水に光を当てたようなその蛇は、じっと床を見下ろすと、体と同じ色の涙を零す。

『たとえ、擦り切れて死んでしまうのだとしても』

 零れた涙は、きん、と音を立てて床に跳ね返る。

『わたしは、人に必要とされていたいのです』

 彼女の周りは、青い涙石が無数に転がっていた。

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