第187話 追憶
神話時代からの享楽街、アイリーデが突然「街を閉める」と各所に連絡を出した時、人々が抱いたのは困惑だ。
今まで何があろうとも変わらず姿を保ち続けてきた街が「終わる」のだという。何の冗談だと思った人間の方が多いだろう。
けれどそれはただの事実で、長逗留の客は帰され新たな客は門から先に入れず、やがて街に住んでいた者たちもぱらぱらと外に移り住んでいった。各所との取引は円満に終了され、それでもアイリーデには少なくない生粋の住人たちが残った。
彼らはこれからどう暮らしていくのかと、外の人間が不思議に思っていた矢先、アイリーデは街ごと巨大な氷に閉ざされた。まるで突然で現実味のない話に、噂を伝え聞いた人間は一笑に付し、それでも見に行って唖然とする人間は日ごとに増えた。
氷は決して溶けることがなく、閉ざされた門の内側はどうなっているのか分からない。
だから人々は皆、「神話の街とはこういう終わりを迎えるのか」と納得して、アイリーデに近づく者も次第にいなくなっていった。何もない場所を見に行くには、人々の生活にゆとりがなくなっていったのだろう。
「トルロニアはそれでも新王のもとにぎりぎり平和な状況を保てていますがね。苦労してます。新王が」
他人ごとのようにそう言うのは、トルロニア宮廷に勤める巫の一人だ。
と言っても、もうすぐ二十歳になろうという彼は、巫としては珍しい「男性」だ。浅黄色の貫頭衣をゆるゆると着て、茶店の個室でみたらし団子を食べている青年は、自分から呼び出しておいて一向に本題へ入る様子がない。
もっともこれは気遣いの一種であろう。今のシシュは、かつて暮らしていた城都に戻ることはない。だから国や知己の話を教えてあげようということなのだろう。
向かいに座るシシュは、顔も見たことがない新王、異母兄の息子について思いを馳せる。
「死者の軍勢の影響で宮廷の力も衰えているところがほとんどだ。ご心労もさぞ大きいだろう」
「心労はとくにありませんよ。あの方そういうの堪えないたちですからね。苦労をしていても苦に思わないんですよ。得な性格ですね。先代王とは大違いです」
「…………」
不遜な口ぶりだが、その分風通しがいい宮廷ということなのだろう。
それはシシュにとって、置いていかざるを得なかった人間たちが苦心してくれた証であり、そしてまた彼らが平穏な暮らしを送れているという証左でもある。シシュは、この二十五年間のことを思い出す。
人外を探して大陸を旅していく。
その旅立ちにあたって、シシュは自分が持つ王族の身分を返上していった。
もともと婚姻にあたって返上しようと思っていたものだ。多少前後したくらいで結果的には変わらない。主君には申し訳なくも思ったが、これから先シシュは「自分の存在を繋ぎ止めている妻が正確には死んでいない」という事実に紐づいた不死として大陸をわたっていくのだ。そのような国との繋がりは残しておいてはいけないと思った。
ただ、人間との繋がりはそれだけではない。
シシュは旅の成果がすぐに出るものとは思っていなかったが、残された人間たちは時間の経過をより切実に考えていたのだろう。彼らはシシュと違って永遠には生きられないことを自覚していた。特に、女たちは三年を過ぎて成果がないと分かるとすぐに動いた。
フィーラはウェリローシア家の采配を揮う者として、婿を取って子を産んだ。元々アイリーデが封印された時に、ラディ家を即座に吸収した彼女だ。ウェリローシアを続けるために迷いはなかったのだろう。
そしてそれは、月白の娼妓であり死口であったジィーアも同様だ。彼は、士官であるタセルに嫁いで子を産んだ。その子が、目の前に座っている青年だ。
「あー、団子美味しい。あれですよね、アイリーデが封印されていると、あの文化も封印されているということで寂しくはありますね。いや僕はアイリーデを知らない世代ですけど、アイリーデにはもっと美味い団子屋さんがあったのでしょう? 母がよく零していましたから」
「……まあ、そうだな。アイリーデには老舗の名店があったからな」
「いいですね。ぜひ僕が生きているうちに味わいたいものです。ああ、お茶が美味い」
「…………」
死口は、巫の中でも特殊な巫だ。
死者を見て、その話を聞く。サァリーディが己を封じているのが死者の国の入口であるからして、有用な人材だ。だがその当人からするとここ数年は「商売あがったり」なのだそうだ。死口がその言い方はどうなのかとも思うが、事実なので口を挟めない。
青年は一通り団子の感想を漏らしてしまうと、本題に移った。
「死人を持っていってしまう輩がいて手間取りましたが、ようやく有力な情報が入りましたよ。――シシュ様、青蛇というものをご存じですか」
「外洋国の五尊の一つだな。俺は出くわしたことはないが」
外洋国の五尊は、灰、赤獏、雪歌、飛葉、そして青蛇の五種だ。
人外であり、人によって滅ぼされたと思われていたものたち。それらを「灰」の少女はこちらの大陸に持ちこんだらしいのだが、シシュは今まで青蛇にはお目にかかったことがない。ひょっとしたら名乗っていないだけで出会っているのかもしれないが心当たりがない。
「蛇」の名に、足下の床でとぐろを巻いていた黒蛇が顔を上げた。
青年は懐から出した地図を広げる。
「この城です。ここに一人の子供が匿われているそうで、その子供が青蛇ではないかと」
「子供……蛇じゃないんだな」
素朴な疑問を零すと、青年はずいとテーブルに体を乗り出してくる。彼は自分の右目を指さした。
「目がね、蛇眼なのだそうですよ」
「ああ、なるほど」
「ただ青蛇というのも、死人がそう聞いたというだけで事実かは分かりません。あとはあなた任せになってしまいますが」
「構わない。いつもすまない。助かる」
地図を受け取ってシシュは立ち上がる。青年はひらひらと手を振った。
「ご武運をお祈りします。……ああ、僕は来月結婚するので、子供が生まれたら顔を見に来てください」
さらりとした挨拶に、シシュは思わず息をのむ。
――自分の旅に、他の人間たちが手を貸してくれる。
それは二世代のみの話で終わらないのだ。そのことに、ありがたさと同時に申し訳なさも覚える。
罪悪感が顔に出てしまったのか、青年は笑った。
「お気になさらず。幼馴染の娘なのですがね、相手の家が没落したので結婚することにしたのです」
それはよいことなのだろうか。よくない気がする。困惑したままのシシュに青年は重ねて問うた。
「何かのきっかけがないと人は動けなかったりするものですからね。あなたのことはそのきっかけだった、というだけですよ。でないと母は一生を一人で終えたでしょうから。母を看取れたことが僕と父の幸いです。ありがとうございます」
その言葉に嘘がないことは分かる。
分かるからこそ、シシュの胸には響いた。
――人は、きっかけがなければ動けない。
自分もきっとそうだった。そして妻も。そんなきっかけと偶然が積み重って人の縁を繋いでいくのだ。
シシュは青年に向き直ると頭を下げる。
「お祝いを申し上げる。次に会う時には祝いの品を用意しておく」
「期待しておきます」
青年に別れを告げ店を出ると、そこはトルロニア辺境の町だ。街道沿いの宿場町で、建ち並ぶ宿屋の風情は少しだけアイリーデに似ている。神話の街が失われてから、その面影を恋うて大陸のあちこちに似たような街並みが作られたのだ。
そんな風に、大事なものは少しずつ薄まって形を変えて広がっていく。それが時代の流れというものなのかもしれない。
「いつか、俺の知る人間は皆亡くなってしまうのかもしれないな……」
『そうならないように、彼らは血を継いでいるのでしょう』
黒蛇の言う言葉は事実で、だからこそシシュは妻にはそんな思いを味わわせたくないと思う。
目が覚めた時、大事な人間が誰も残っていなかったのなら。彼女が愛したものが失われていたのなら。どれほど彼女が悲しむか想像がついてしまう。
アイリーデの人々は同様に彼女のそんな姿を思い描いて、あの街で眠ることを選んだのだ。
シシュは過去を振り返りかけた自分に気づくと気を取り直す。
「青蛇か。蛇眼ということなら近づいてみないと分からないかもな」
『どちらが本当の蛇か、雌雄を決して見せましょう』
「どちらも本当の蛇ではない気がするな……」
シシュは預けていた馬に乗って、街道を移動し始める。
その行き先は東の小国コヘリオ。古くから山中にある、戦とは無縁の国である。
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