第捌譚

第186話 死人




 虫たちよ。死者の魂よ。そうっとそうっとお行きなさい。

 あなたたちが歩いていくのは、【地の気】のおひとりの上。死の国の大地そのものでございます。

 起こしてはなりません。あれはおそろしい方。人とは何もかもが相容れぬ方です。

 ですから、そうっとそうっとお行きなさい。見つからないように、起こさないように。

 さすればあなたたちは、川へ行きつく。

 そうしてまた次の生へと向かうのです。この世界の大きな流れに乗って、ずっとずっと。



                 ※



 人が死んでいる。

 人が、人であったものが、人であろうとしたものが死んでいる。

 大地を埋め尽くすほどに打ち捨てられた躯はそれぞれの死に顔で、戦場において彼らは一人一人似て非なることを考えていたのだろう。

 そんな彼らの死体の中を、青年は独り歩いていく。

 旅装として羽織った外套は端が擦り切れて、腰に下げた刀の柄から飾り紐が垂れて軽い音を立てる。

 白と黒の月を模したその飾り紐は彼の素性を明かすもので、けれど今はその意味を知る人間もほとんどいない。

 彼の足下をしゅるしゅると行く細い黒蛇が囀った。

『ここもひどい有様ですね』

「ああ」

 大陸のあちこちで、今やこのような惨状が起きている。

 諸国が狂わされ小さな戦争を立て続けに起こしたのはもう三十年近く前のことだが、今はそれとは違う。

 この大陸にはいつからか死者の軍勢が徘徊している。

 彼らは突如現れては街や砦を落とし、またいずこともなく消え去る。

 その彼らを追って殲滅しようと軍が編成されたことは一度や二度ではないが、いずれもこの結果だ。よく訓練され、優れた指揮を受けた軍が、なすすべもなく死骸の海と変じる。

『死者の魂はほとんど連れ去られてしまっているようで』

「灰の仕業か」

 外洋国から人知れず渡ってきた人外。「灰」と通称されるそれらは、死者を起き上がらせて使役し、また死人の魂を虫に変じて連れ去る。

 昨今の死者の軍勢の裏側にこの「灰」がいることは明らかだが、どこの国もこれを捕捉できていない。

 このままでは緩やかにこの大陸は死者の大陸となるのではないか、そんな懸念さえ生まれ始めているのだ。

 空は緩やかに日が落ち始めている。

 見ると天には真白い月が浮かんでいた。青年はそれを見上げる。


 ――物思いに耽る時間は長くはなかった。

 彼の歩む先に、五つの人影が見えてくる。

 死骸ばかりの中で生きているそれらは、死体にむらがって何かをしているようだ。

 普通なら遺品漁り……けれどそれらが奪っているのは死肉そのものだ。死者の肉を、血を、食らって啜っている。餓えた人外たちだ。

 青年は小柄で赤い人型の獣たちを見て眉を寄せる。

「赤獏か」

 「灰」と共に五尊と通称される人外は、この数年で大分増えた。人食いの化け物だ。その存在を知る人間たちも増え、今ではすっかり恐れられている。

 外洋国では一度滅亡寸前に陥ったというが、死者の軍勢が跋扈する昨今と相性がよかったのだろう。五人の赤獏は、青年に気づいて顔を上げる。

「――なんだ、人の気配を感じなかったが」

「死人のような顔をしているのう。何者じゃ」

 赤獏は、人の心を読む力を持っている。

 だが青年は、この十数年でその力に己の心を読ませない術を身に着けていた。

 赤獏が読むのはしょせん思考や感情の表層だ。そこに何も乗せず己の意識を透き通るように持てば、読まれる心もない。

 彼は無言で刀を抜く。それを見て赤獏たちは笑った。

「死人もどきが吾らと戦うつもりかぁ?」

「愚かなやつじゃ――」

 そこから先を赤獏は言えなかった。開いた口に氷の針が飛来する。

 そのまま跳ね飛ばされた体は、後方に打ち付けられてのたうった。同胞の一瞬の有様に虚をつかれた赤獏たちは、一瞬後肉薄してきた青年の刀に薙ぎ払われる。

 何をする間もなく叩き伏せられ、驚愕と痛みに喘ぐ赤獏の瞳を、青年は覗きこんだ。

「お前たちの心界を確認させてもらう」

「は――なんじゃ、おぬし……」

 青年の黒い瞳は、まるで何もかもを見透かすようだ。

 その目に射貫かれ、赤獏はようやく相手の正体を悟る。

「おぬし……神の、」

 存在の違うものに相対する恐怖。

 畏れが形になる前に、赤獏は己の生まれた場所、何もない荒野に放り出されていた。



「――やはり違ったか」

 青年は顔を上げる。彼の周りには事切れた赤獏の体が転がっている。心界の様子を覗いていた黒蛇が頭をもたげた。

『赤獏の心界は皆あの荒野に繋がっているようですね』

「種族差というものか。ならばやはり『灰』を捕まえたいんだがな……」

 この世に生まれた人ならざるものは、自らの本性を住まわせるもう一つの世界を持っている。

 心界と通称されるそれが、青年の探すものだ。彼の妻が自らを封じた死者の国へと繋がる心界を、彼はこの二十年あまり探し回っている。

 ただ数多くの人外と行き会って、未だそれに近いものは見つからない。

 もっとも近かったのは、妻が失われた時の「灰」の少女が持っていた心界だが、「灰」は希少種らしく捕まらないのだ。

 ただこの死者の軍勢に関わっているのは間違いなく「灰」だ。だから青年は数年前から死者の後を追いかけている。

 追いかけて、見つからない。相手も相当用心深く立ち回っているようだ。

 彼は死体が埋め尽くす大地を見回す。

「全て埋葬できたらいいのだがな……」

『余力がないのでしょう。生きている者を生かすだけで精一杯なのです』

「だが、このまま置いておけば遺骸をいいように使われる」

 青年は己の刀を地面に突き刺すと、深く長く息を吐く。

 彼の力が地表に伝わり広がっていく。空気が冷え、遺骸の表面に白く霜が張っていく。

 そうして全てに力が行きわたった時、地面を埋めつく無数の死体は粉々に砕け散った。

 刀を引き抜く青年に、黒蛇は問う。

『――彼女の顔を見に戻らなくてよいのですか』

 青年は、その言葉に少し驚いて蛇を見返した。

 誰のことかは分かっている。死の眠りについている妻のことだ。

 その体は、彼が街ごと氷の中に封じてある。誰も踏み入ることはできない。ただ彼自身であれば、その氷を溶かして彼女の顔を見ることもできるだろう。

 もうずいぶん長い間、彼が一人で旅をし続けていることに対しての気遣いなのかもしれない。

 けれど青年はあっさりかぶりを振った。

「いい。彼女の顔を忘れたことはない」

 誰よりも美しい、愛に満ちた女。

 今は深い地の底で眠る月の神。

 その彼女のために、氷に閉ざされて在る街の名は、アイリーデ。

 神話を継ぐ、今は忘れ去られた享楽街である。 

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