第185話 漂泊



 何の変化もない、地の底に広がる暗い処。

 死者が訪れ、地に還る最後の国。

 そこに音はなく、変化もない。とこしえの領域だ。


 死の国の入口である坂には、楔が一つ突き立っている。透き通って厚い氷の柱だ。

 ――この楔が穿たれてどれだけの年月が経ったのか。中にいる彼女に感覚はない。

 彼女は常に眠っている。

 そこに、人間のような感覚は残っていない。時間の経過も、痛みも、ない。

 ただ時折、ぼんやりと淋しさを覚える。浅い夢のようなものを見る。

 そんな時、彼女の意識はほんの短い時間、楔の中を離れる。

 離れて、別のどこかに触れる。

 違う時間に。或いは、近くて違う、別の世界に。

 まるで、泡沫のように。

 そうして見る夢が、彼女は好きだった。



         

 何人もの怒声とあわただしい足音が遠ざかっていく。

 その音で、彼女は薄く目を開けた。

 彼女が浮いているのは、どこかの建物の廊下を見下ろす空中だ。血が飛び散り、いくつもの死体が転がり、窓が割れている廊下。そこは何もなければ美しく上品な様相であっただろう。

 血腥い状況を見下ろした彼女は、少し考えて今いる場所に見覚えがあることを思い出した。


『……城の廊下だ』


 彼女が生まれた王都にある王城。ここは確かその廊下だ。

 ただ彼女が知る限り、城がこんな有様になったことはないはずだ。

 まるで激しい戦闘があったかのような惨状。これは彼女の知らない時代か、それとも違う世界なのか。彼女はぼんやりと考えながら宙を漂う。


 そして、気づいた。

 死体が積み重なる廊下の先、一つの扉の前に寄りかかるようにして黒髪の青年が床に座りこんでいる。彼の右手は軍刀を握ったままだったが、全身は既に深い傷だらけで、もうあと幾許も命が残っていないことは容易に見て分かった。


 彼女は、ふわりとその前に降りる。

 宙にしゃがみこんで、まじまじと彼の姿を眺めた。

 彼が座っている扉の向こうからは、何人かの女の啜り泣きが聞こえてくる。城の侍女たちを守るために、敵に踏みこませまいとして多対一で戦ったのだろう。

 その光景に、ずっと昔にも思える記憶を思い出して、彼女は腑に落ちる。


『これが先視に出た、本来の未来……?』


 先視から変化しなかった時の、本当の彼の未来。それが今だ。

 この世界は、彼女が先視を聞かなかった世界なのだろう。


 ――何が関係してここまで変わってしまうのか、人の歴史は面白い。


 そんなことを思いながら、彼女は透き通る手を伸ばした。彼の頬に触れ、その傷を塞ぎ、血を止めていく。力を注ぎ、失われかけた命を繋ぐ。

 そうしているうちに、虚ろだった青年の瞳にふっと光が戻った。


「……あなた、は?」


 彼の声。

 懐かしく、愛しい響きに、彼女の喉は詰まる。

 肉体などもうないはずのに目頭が熱くなり、でもやはり――彼は自分の夫である彼ではない、と思う。


 答えない光の塊に、彼はもう一度問うた。


「あなたは、誰だ?」


 その問いに、彼女は少し考えて、返す。


『私は、いまのあなたにとっては、誰でもないの』


 彼女は透明な手で、彼の頬の血を拭う。彼女が出会った時よりも一、二歳上だろうか。最後に見た時の夫に近い青年に、彼女は慈しみを込めて囁く。


『だから、もしあなたが、こちらの私に出会ってくれるなら』


 この世界に、先視はなかった。

 ならば何を以て、彼は彼の運命を変えるのだろう。


『アイリーデに来て。月白という館に、この世界の私がいるから』


 これがただの夢なら、それはそれで面白い。

 夫から離れて一人死の国で眠る自分が見た、寂しがりの夢。

 彼女は微笑んで青年から離れる。

 意識がまた薄らいでいく。長い眠りの中へと戻っていく。

 そうして淡い光が消えた後の廊下で、青年は一人、言われた意味を考えていた。




                 ※



 外洋国の陰謀によって四カ国が絡み合って起きた戦争は、二年という期間を経てようやく終息の兆しが見えた。

 一時は王城内にまで襲撃部隊が押しこんできたトルロニアだが、人的被害は多かったものの王は無事で、からくも敵軍を押し戻して建て直しを図ることができた。

 そうしてあわただしい日々が過ぎていく中、多忙の合間を縫って彼がアイリーデを訪れたのは、生死の境をさまよってから三か月後のことだ。

 もっと早く来たかった、とは思ったが、床から起き上がれるようになるまでにも大分かかった。医者曰く「後遺症が残らなかったのは奇跡」なのだという。


 王都より北西にある神話の街。話だけで聞いていたアイリーデは、彼の目にまるで夢幻のような場所に見えた。

 戦時中は立ち入れる客を制限していたという街は、最近ようやく元の通りに門を開くようになったらしい。赤い楼門から伸びる大通り、その華やかな賑わいに圧倒されていた青年は、通りかかった商人に声を掛けられる。


「お兄さん、この街は初めてだね。どこかお目当てはあるのかい?」


 客引きというよりは、物知らずな余所者に親切にしてやろうという問いに、贈答用の乾物箱を提げた彼はすぐに返す。


「月白、という店に行きたいのが……」

「ああ、北の館か。観光かい? けどあそこはちょっと特殊でねえ。まあ、お茶くらいは出してくれるか」


 商人の男は手元から出した紙に、さらさらと地図を書く。


「行くだけ行ってみなよ。御姫さんに会えたらいい土産話になる」

「御姫さん?」

「この街の姫だよ。神話を継ぐ巫さ」


 商人の男は地図を手渡すと、自分は門を出ていく。その背に深々と頭を下げた青年は、改めて地図を頼りに街に入った。賑やかな夕暮れ時の通りを北へ、奥へ、踏み入っていく。


 徐々に人通りが減り、地図が違っていたか自分が道を間違えたか彼が疑い出した頃、ようやく小道の向こうに古い門が見えた。

 看板も何もない門に近づくにつれ、青年は中に入っていいかどうか迷う。

 その時、門の奥、玄関の方から男女の言い争うような声が聞こえてきた。


「――は――だと? 馬鹿馬鹿しい。どこまで街の――に従うつもりだ」

「そんな風に言われる筋合いはないよ。嫌なら――」


 感情を隠さぬ言い争いは、身内同士のものだと如実に分かる。

 青年はまずい時に来てしまったか、と思い、ただその女の声に聞き逃せないものを感じて門の奥をちらりと覗いた。


 白い、灯り籠。半月の紋が浮かび上がるその横に、一人の女が立っている。

 銀髪を結い上げ、白い着物に紺の帯を締めている女。

 彼女はすぐに青年に気づいたようだ。言い争っていた金髪の男に軽く手を挙げて留める。

 男の方もそれで人が来たことに気づいたらしく、何かを言い捨てると踵を返した。


 着物を着崩し、刀を佩いた男は門の方へとやってくる。青年は、彼らの会話を中断させてしまった申し訳なさもあって会釈をしたが、男はそれを無視して出て行った。

 青年は気まずさを思いきり噛み締めながら、それでも門の中に入る。

 何故なら灯り籠の隣にいる女が、明らかに客を迎えるように頭を下げたので。


 青年が彼女の前まで来た時、女はようやく頭を上げた。

 その瞳を見て、青年は思わず息を止める。


「――あなたか」


 澄みきった青い眼差し。

 大輪の花のような美貌は神秘で、完成されきっている。

 少しの瑕もない、月の光をまとったような女。

 それでいて、どこか寂しげにも見える彼女は、青年の言葉に軽く首を傾げた。


「わたくしが、どうかなさいましたか?」

「……いや、なんでもない。失礼した。こちらの思いこみだ」


 青年が正直にそう言うと、彼女はくすりと笑う。その気配はやはり、彼の命を拾ってくれたあの白光とよく似ている。

 よく似ているが、いきなりそんなことを口にするのは失礼だろう。少なくとも彼女が自分を見る目は、初対面の人間に対するものだ。

 青年は自身の中のざわめきをそうなだめると、女に向かい頭を下げた。


「実は、この館に縁のある女性に命を拾ってもらったことがある。その礼に伺った」

「命を、ですか?」


 女は一瞬きょとんとした顔になるも、すぐに微笑む。


「では、花の間におあがりください。どの女があなた様のお役に立てたのか、きっとあなた様のご無事なお顔を見れば喜びますわ」


 彼女はそう言って、中に青年を案内しようとする。

 綺麗に伸びたその背、前を向いて折れない女の姿に、彼は問うた。


「あなたの名前をうかがってもいいだろうか」


 それを聞きに、ここまで来たのだ。

 或いは、あの白光が言ったように――彼女に出会うためにだろうか。

 女は彼に向き直ると、慈しみに満ちた微笑を浮かべる。

 そして滑らかな仕草で己の胸に手を当てた。


「わたくしは、月白のサァリと申します。どうぞお見知りおきを」




                 ※




 眠る。

 眠る眠る。時の流れがない、光の差さない地の底で。

 彼女は眠り続ける。

 そうして、自分だけの夫に会える日を、待っている。



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