第184話 結



 ――現実が戻ってくる。

 意識が断絶していたように思えたのは、ほんの一瞬だ。

 シシュは元の街の外を見回す。

 まず見えたのはシビだ。彼女はうろたえて辺りを見回していた。


「キマラ? キマラ……どうして……」


 灰の少女はいない。彼女は「あちら」で殺されてしまったからだ。もう消えて戻らない。それを分かっているのか理解したくないのか、呆然としているシビに、ふらふらとよろめきながらもランド・タールが歩み寄った。


「約束通り、お前も死ね」


 シビへと振り下ろされる大剣を、だが弟のトレワの剣が受ける。

 死人となり果てた弟をランド・タールは忌々しげに睨んだ。


「まだ抗うか。愚か者が!」

「彼女から命があるまでは。退かない」

「ふざけるな! お前はタール家の――」


 それ以上、ランド・タールは何も言うことができなかった。

 弟と揃って胴を薙がれた男は、血飛沫を上げながら草の上に転がる。死人であったトレワ・タールが黒ずんだ肉塊となり、その上にランド・タールの血飛沫が降り注ぐ横を、シシュは血濡れた刀を手に通り過ぎた。

 通り過ぎて、横たわる妻の傍に膝をつく。


「サァリーディ?」


 その名を呼んで、頬に触れる。

 冷たい、氷のような温度。

 けれどそれは死ではない。彼女の本性から来るものだ。それ以外ではない、とシシュは思う。

 ふと彼女の右腹の傷を見ると、そこは溢れ出した血ごと氷で閉ざされていた。

 シシュはちゃんと止血されていることに安心して、妻の口から零れた血の筋を拭う。

 艶やかに塗られた紅は大輪の花のようだ。

 誰よりも華やかな笑顔を浮かべる、愛しい女。

 だが今の彼女は安らかに目を閉じているだけだ。

 息のない彼女の体をシシュは抱き上げる。無言のまま立ち去ろうとする彼を、シビが見上げた。


「あ、あの……」

「巫が先だ。あなたは後で迎えに来る」

「で、ですが、その……その方は、死、死んで……」


 青ざめきった人外は、ぶるぶると震えている。妹の死を悟って錯乱しかけているのかもしれない。

 シシュは少し迷って、妻の体を片手で抱き直すと地面に置いたままの刀を拾い上げた。

 拾って、振るう。


「ギャア!」


 両膝から下を切断されたシビは、人らしい痛みを感じるのか地面の上をのたうち回った。

 同じ灰でも妹とはずいぶん違う反応だ。もっと早くこうして斬ってみてしまえばよかったのかもしれない。シシュはそうできなかった自身を恥じたが、今更何を考えようとも後出しの言い訳にしかならない気がして考えるのをやめた。


 彼はどこもかしこも冷たい妻の体を、自分の体温ができるだけ伝わるよう抱き直す。

 空はいつの間にか夜空だ。

 浮かんでいる細い月は優美で、今日も美しい。

 それよりも美しいのは腕の中の妻だ。

 出会った時から変わらぬ、ただひとりの、だいじな。

 シシュは己の心のすべてを捧げた女を見つめる。

 彼の胸に頭を預けて目を閉じている彼女は可憐で、シシュは今、自分が死んでしまいたかった。



                 ※



 その後の処理は、アイリーデ側としては滞りなく済んだ。

 ランド・タールをはじめとするタール家の人間の死体は、東の本家に送り届けられた。

 その後まもなく怒り狂ったタール家の武人たちが数十人アイリーデへと詰めかけたが、シシュは彼らを全て斬り捨てた。

 人を害する獣は消え、けれど街はゆっくりと終わりの支度を始めていた。



                 ※



 月白の主の間。

 そこに寝かされている主は、白い晴れ着に身を包んでおり、一点の曇りも見られなかった。

 全ての支度をしたのは王都から駆けつけてきたフィーラで、彼女ははじめ半狂乱になって泣き叫んだが、その後は落ち着きを取り戻したのか無言のまま、当主の死に装束を整えた。

 がらんとした花の間で、トーマは意味を失った酒に口をつける。


「あいつのあの気性は、命取りになりそうだなとは思ってたんだ。変に止めないで子供を産ませてたらちょっとは落ち着いてたかな」

「……大事なものが増えれば、守ろうとする心も強くなるだけでしょう」


 やつれきってそう言うイーシアは、今はもう月白の女ではない。身請けされてトーマと共に王都に住んでいた。そうして新たな時代が動き出していたのだ。

 フィーラは主の間から動かない。月白の女たちは既に自分の部屋だ。

 トーマは空になった酒杯をテーブルに置く。


 ちょうどその時花の間の扉が開いた。戸口に立っているのはシシュと、青ざめきったジィーアだ。

 トーマは友人に軽く手を上げて見せる。


「よう、どうだ?」

「一通り終わった。ミディリドスは即答だったが、自警団が少し手間取ったからな。ようやく準備ができた」

「この街に頭の固いやつはいないはずなんだけど、どうしてもこういうのは個人差が出ちまうな。……けどまあ、予想以上にサァリは街の人間に愛されてたんだと分かったよ」

「巫がこの街を愛していたからな」


 神からの無償の愛を注がれ、神話の街は夜も眩く鮮やかでいたのだ。

 そしてそれ以上の愛をシシュは注がれていた。自分はそれを受けるには力が足りなかった、とも彼は思うが、それを口にしては周りに散々呆れ顔をされるのはここ数日で分かっている。


 トーマは立ち上がると、イーシアを連れて戸口に向かった。

 シシュとトーマは、並んで玄関の方に歩き出す。トーマは懐かしそうに古い建物を見やった。


「アイリーデは神への返礼で作られた街だ。その神は、本来的には失われることがない。血脈という人間のやり方で次代に継いでいくからだ」


 彼女たちはそうして、神という存在そのものを継いでいく。人と同じ寿命で動いているように見えるのは、次代がいるからだ。彼女たちは次代を産む代わりに人と同じ死を得る。


「今回、サァリが死んだのはだから、異例中の異例だな。本来なら次代がいない以上、死ぬはずがない、って言えばないんだが、お前がいるからな」


 人から神に変じた神供。

 サァリーディの半身とも言える自分を指されて、シシュは首を傾いだ。


「俺は巫とは違う」

「存在という意味では同じだ。お前は特に、ディスティーラの力の残滓も取り込んでるからな。お前が別の女に子供を産ませれば、その娘が次代の神になる可能性はある。そっちの方が安全策だ」

「俺は、サァリーディ以外の妻を取る気はない」

「まあ、そうだろうな」


 二人は玄関に行きつくと靴を履く。イーシアが黙って頭を下げて階段を登っていったのは、主の間に向かったのだろう。シシュは自分ももう一度、妻の顔を見たいと思って……けれどその考えを振り切った。ここに来るまでも、彼女のところに寄ってきたのだ。


 眠ったままのように見えるサァリは少女の頃に戻ったようで、そんな姿を見ると、自分はきっと最初に会った時から彼女のことが好きだったのだと思う。


 無言のままのジィーアを後ろに連れて、二人の男は月白の玄関を出る。

 下女たちが深く頭を下げて彼らを見送った。シシュは一度だけ彼女たちを振り返り、礼をする。ここまで幾度となく彼女たちに助けてもらったことを思い出す。


 三人は昼日中の大通りに出る。

 アイリーデの街は、すっかり死んでしまったかのように静まり返っていた。

 どの店も窓や扉をしめ切って沈黙している。この街がこんな顔を見せるのは、普段は早朝のわずかな時間だけだ。よく見回りをしていたシシュはそのことを知っている。けれど、それと今とは明らかに違う。


 今のこの街には、一人の客もいない。

 正真正銘、神一人のためだけの街だ。


 トーマはそんな大通りを行きながら苦笑する。


「サァリは死んだ。だからこの街も終わりだ。俺はそれでもいいと思ってる」


 この街は、ただ一人の女を喜ばせるためだけの宝石箱だった。

 人間たちにとって誤算だったのは、彼女が自分の身を投げうつほどに、その宝石箱をひどく愛してくれたということだ。

 ただの人間のように笑って、怒って、はしゃいで、走り回って

 彼女がそうしてこの街で育っていったことを、街の人間は皆知っている。大輪の花が咲き誇っていく様をずっと見てきたのだ。

 だから、今この街に残っている人間は皆、彼女の正体を聞いて、真実を知って、彼女の愛を知った人間だ。


 知って、彼女に殉じることを選んだ。

 シシュは、そんな彼らを羨ましく思い、そして申し訳なく思う。


 街の入り口、南の街道に通ずる楼門が見えてくる。

 そこには二人の化生斬りが待っていた。トーマが彼らに向かい手を上げる。


「よう、お前らはごねたんだって?」

「ごねていない。どちらがより望ましいか考えていただけだ」


 鉄刃が真面目くさってそう返すと、隣にいたタギが吐き捨てた。


「俺は最初から自由にやってる。お嬢のことも知ったことか。ここが俺の街だ」

「そうか」


 二人の化生斬りはそう言っただけでついてくる様子はない。シシュが会釈して彼らの前を通り過ぎた時、タギが何かを投げてきた。反射的に受け取るとそれは、朱塗りの柄に収まった懐剣だ。


「もし西に行って何か面倒事があったら、それを見せろ。話が通じるやつが出てくるかもしれない」

「……ありがとう」

「礼を言われることじゃあない。今までお嬢のお守りが大変だっただろうから、その労いだ」

「大変と思ったことはない」

「てめえはそうだろうな。お前のようなやつが、娼妓に入れこまれるんだよ」


 鼻を鳴らしてタギは笑う。

 彼らの前を通り過ぎて、三人はようやく楼門に辿りついた。自警団員が門の内側、左右に控えている。


 ジィーアを連れて門の外に立ったシシュは、改めてアイリーデを振り返った。

 初めて来た時、夢幻のようだと思った街。

 その街は、これから本当の夢幻になるのだ。

 不思議な感慨に駆られていると、大通りの向こうからイーシアに手を引かれてフィーラがやって来た。泣きはらした顔の彼女は、トーマを一睨みすると門を出る。


 神話の街の入り口である門。

 その外に立ったのは、シシュの他にフィーラとジィーアだけだ。

 他にこの街から去ることを選んだ人間は、皆とうに出て行った。

 ウェリローシアの女が、死口であるジィーアを睨む。


「本当に、エヴェリのところに行きつく手段があるんでしょうね」

「……ある、と思う。人外はみんな、心界を持ってる。その中には、死国に接してる心界もある、かも」


 人ならざるものが持つ、それぞれのもう一つの世界。

 蛇が持っていたそれは、無人のアイリーデだった。

 サァリが持つそれは、冷たい石室だ。

 それらは彼らの本性と密接に結びついた裏側の世界で、でも人であったシシュには己の心界がない。

 だから他の人外を探して辿っていくしかないのだ。あの暗い坂に、今度こそ本当に行きつけるように。


 フィーラは死口の答えに目を潤ませる。

 この一週間、幾度となく同じ質問をしたのに、それでも聞いてしまうのは彼女が不安だからなのだろう。フィーラはきゅっと唇を結ぶと、シシュに視線を移した。


「あなたは、エヴェリの死が確定するまで死なないのよね?」

「ああ。俺は巫の半身だからな」

「なら、もう一生、会うこともしれないから言っておくわ。――わたしは、エヴェリのためにこの街を守る。誰のためにでもない、エヴェリのためよ。だからわたしはエヴェリの傍に残らないで、ウェリローシアに戻るの」

「……すまない。ありがとう」


 フィーラは、彼女が愛する姫のために、王都に戻る。

 それは彼女にとって苦渋の決断だっただろう。シシュがいつ死国に行きつけるかは分からない。十年先かもしれないし、百年先かもしれない。それでもその時、アイリーデを守れるように、彼女は一人ウェリローシアの血を、家を、継いでいくのだ。

 そしてジィーアは、人外を見つけるために同じく王都に行く。生き残ったシビは、死国に繋がる心界を持っていなかった。だから別の人外を、或いはこの大陸にまだいるのだろう五尊を探さなければ。

 それをするのに、ジィーアは「自分が適任だ」と名乗り出た。そんな彼女の面倒は、ウェリローシアとタセルが見ることになっている。


 だから、あてどない旅に出るのはシシュだけだ。


 フィーラが待たせておいた馬車にジィーアを連れて乗ると、シシュは改めて友人に、アイリーデの街に向き直った。妻の兄に何を言おうか迷って……つい、弱音が零れる。


「……俺が神供で、すまなかった」

「何言ってんだ、お前」


 からからと笑ってトーマはシシュの肩を叩く。


「お前以上の旦那はいないさ。サァリは幸せものだよ、もうちょっと自信持て」

「……今のこの状態で自信を持てる人間はいない」

「なら、全部終わった後で構わないさ」


 トーマはぽんぽんとシシュの肩を叩くと、門の内側に下がった。その隣にイーシアが並び、深く頭を下げる。

 神の街の楼門が、ゆっくりと左右から閉められていく。

 そうして音もなく閉められた扉に、シシュは頭を下げると、右手をついた。


 深く、息を吐きだす。

 力を送る。

 遠く、遥か天から続いているかのような冷たい力は、彼の意志を、アイリーデに住む人間たちの望みを受けて、扉から街を囲う壁へ、その内側へ、遠く、北の館にまで伝っていった。

 神の力が空気を冷やし、その内側を閉ざしていく。

 建物が白い霜で覆われ、目を閉じた人々が凍りつく、全てがゆっくりと静止していく。


 そうして固く目を閉じていたシシュが、ようやく顔を上げた時

 ――アイリーデは、巨大な溶けない氷に閉ざされた、神話の街に変じていた。


 シシュは、色を失ったアイリーデを己の目に焼き付ける。


 こうして、彼女を愛した人間たちは眠りにつく。

 神供が再び彼女を取り戻して帰る日まで、この街に残る者たちは、サァリと共に時の流れから外れることを選んだのだ。

 一人眠る彼女が寂しくないように。それはきっと彼女への愛がゆえにだ。


 同じ想いを抱えるシシュはじっと凍りついたアイリーデを見ていたが、軽くかぶりを振ると踵を返した。ウェリローシアの馬車はもういない。残っているのは、木に繋がれている馬だけだ。

 その馬に向かって歩き出す彼の足下に、どこからともなくシュルシュルと細い黒蛇が連れ添った。


「お前は……」

『わたしも、白月を愛しているので。お供しましょう』


 かつて巨大な地の神であった蛇は、そんなことを言う。

 それもきっと真実だ。だからシシュは笑いもせず頷いた。


「わかった。助かる」


 青空に、白い月は見えない。

 他に誰もいない街道を、馬に乗った彼は南に下っていく。目を伏せると、屈託なく愛情を請う妻の声が甦った。


『捨てないで。ずっといて』

「……約束する」


 たとえ彼女を取り戻すために、己の中の青焔がこの大陸の全てを焼くのだとしても。

 あの約束を、己が違えることはない。

 それだけの愛を以て、彼は神話の街を後にする。



【第漆譚・結】

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