第183話 約束
灰の少女は、シシュのことを敵わない相手だとは悟っているのだろう。
それでも諦めきれず反撃しようとする、そしてすぐにまた逃げる。その繰り返しだ。
シシュは油断なく逃げ場を塞ぎながら、相手の出方を窺う。
――距離を詰めて斬ることはできるが、あまりに拙速な行動に出ると王都で灰のヨアを逃がした時の二の舞になるかもしれない。
サァリが「灰を殺したことがないから、ちゃんと殺したい」というのは、これから先を戦うためには大事な事実だ。
それに、地の底から揺らぎ上がる陽炎に、どことなく嫌な意志を感じるのだ。それは少女を庇い、シシュを牽制し、何かを企んでいるようにも思える。
一歩でも余分に踏みこめば、足を取られる。
そうしてやろうという意志を感じるのだ。
だからシシュは、灰の少女が半ば崩れて一際大きな地割れの上に膝をついた時も、それを「誘い」だと感じて一定の距離を保った。
ただ……あまり時間をかけてもいられない。
一足で踏みこんで何かさせる前に斬り捨てるか、それとも離れた場所から完全消失させるほどの強い力をぶつけるか。
シシュは思考を巡らせ――その時、妻の怒声が聞こえた。
「っ、お前ッ!」
ぎょっとしてシシュは振り返る。
目に入ったのは、シビに激昂している妻と、その背後で剣を上げようとしているランド・タールだ。
考えるより先に、柄に仕込んであった針を抜いて投擲する。
それは狙いを違わずランド・タールの肩に突き刺さったが、男の剣自体を止めることは叶わなかった。
「サァリーディ!」
ふわりと花が開くように、妻の体が崩れ落ちる。
ランド・タールがその胸にとどめを刺そうとするのを、シシュは咄嗟の剣閃で防いだ。衝撃の余波にランド・タールの体は大きく後方へ弾き飛ばされる。
――一体、何があったのか。
戦闘に在る時、サァリは夫に戦いを任せていても気を抜いていないはずだ。
正確には気を抜かなくても、彼女は目に見えぬ周囲全てを知覚できている。
だからあんな風に不意をつかれるはずもない。
ならばシビはあえて彼女を挑発して……罠にかけたのか。
シシュはそんなことを頭の片隅で考えながら、妻の方へ駆け出す。
その瞬間、サァリを中心に白光が炸裂した。
世界が、塗り替わる。
※
長く緩やかな坂には、草の一本も生えてはいなかった。
ごつごつとした岩場に挟まれたその坂の途中に、シシュは立っている。
空は暗い。それだけでなくどこもかしこも。
周囲からはうだるような熱が迫ってきており、硫黄に似た古い臭気が立ちこめていた。
上からはぽたぽたと黒い虫の死骸が断続的に降ってくる。それは地に落ちると何でもないように溶け消えた。
どことも知れぬ場所。時間が停まっているようなそこで、彼の周りには小さな黒い猿が跳ねている。
「やった。やった。やった」
きゃっきゃっと無邪気に手を上げて喜ぶ猿を見て、シシュは「灰の少女だ」と察する。今は本来の姿に変わっている少女は、無邪気に、悪辣に喜びながら坂を下って行った。
シシュは歩いてその後を追う。
いつまでも続くように思える坂道。
けれど緩やかに曲がったすぐ先でシシュは足を止める。
そこにいるのは二人の女だ。向き合って対峙している女のうち、自分に背を向けている白い女にシシュは声をかけた。
「サァリーディ」
普段は結い上げている銀髪は、今は腰までに下ろされている。
彼がよく知るしなやかな体は、いつもの着物ではなく白い布を巻きつけた姿で、その腹から下はうっすらと黒い靄に覆われているようだった。
「サァリーディ」
もう一度、その名を呼ぶ。
彼女は振り返らない。シシュは、妻が向き合っているもう一人を見た。
見知らぬ女は、笑顔を浮かべてサァリを見ている。
黒く長い髪は根のようにうねっており、その手足もまた先が同じように黒い根に変じていた。胸から下がごつごつとした岩肌に覆われている女の周りを、さっきの猿が跳ねて踊っている。
女は楽しそうに笑った。
「これでやっと、あの街で遊べる」
「させない。あれは私の街だ」
サァリの声は、氷そのものの冷たさに満ちていた。白く輝く指が女を指さす。
「お前をこの先に行かせはしない」
「そんな状態になって、まだ傲慢でいられるのか? 外から来しものよ。もともとこの地は我のものだ。どうしようと我の勝手であろう? 人から拒絶されたお前の代わりに、あの街は我がもらってやろう」
女は黒い根になっている両手を広げる。その先端が、飛び跳ねている猿の頭を貫いた。
「ぎゃっ」
猿は短い悲鳴を上げて、ぼろぼろと崩れ去る。灰となって消えたそれを、けれど二人の女は見向きもしなかった。
「あの街を、死者の国に」
女の宣告と共に、黒い根はたちまちのうちに広がると坂を埋め尽くしていく。無数に枝分かれしながら両脇の岩壁を這い登り上へ、更にはサァリのいる方へと浸食していく。根に覆われて女の体もぶよぶよと膨らんでいき、ただ美しい顔だけがそのままだ。
世界全てを埋め尽くし、広がろうとする黒根。
シシュはその根から妻を守ろうと踏み出しかけた。
けれど彼の気配を察したように、サァリから声が飛ぶ。
「そこにいて」
「サァリーディ」
いつの間にか、黒い靄に覆われていた彼女の下半身の上に、固い氷が張られている。透き通るその氷はサァリを中心としてぴきぴきと音を立てて範囲を広げつつあった。
氷は確かな厚みを以て黒い根の先を捕らえ、恐ろしい速度でそれらを凍らせていく。天に伸びようとする不遜な手々を、透き通る冷たい氷の中に閉じこめていく。
黒い女は、その時初めて顔を顰めた。
「おぬし、何を……」
「どうして驚くの? 私が眩しくて地上に出られないというから、ここまで落ちてきてあげたのに」
月の神たる女。
その輝きも力も、地の底であっても変わらない。
全てを照らし、凍らせていく。
曇ることなき天そのものだ。
それと同時に、サァリ自身を覆う氷もまた、少しずつその厚みと大きさを増していた。
黒い根を封じながら、彼女自身もまた巨大な氷の楔の中に閉じこめられていく。
同じ速度で氷に封じこめられつつある女が、愕然とした目でサァリを見た。
「まさか……このまま、ここで我と共に封じられるつもりか」
「独り寝に飽いたのでしょう? なら、私が共寝してあげる」
サァリの指が、女の顔を指さす。女の細い首元を、頬を、厚い氷が覆っていく。
月白の主は、艶やかな声で笑った。
「花代は高くつくけれど――あなたの存在を対価に受け取ってさしあげますわ」
ぴきん、と。
固く澄んだ音を立てて、黒い女は巨大な氷柱に封じこめられる。
呆然とした顔のまま、伸び続けるその根も氷に閉ざされ動きを止めた。
熱の淀む暗い坂で、けれど神の生んだ氷柱は溶けることはない。それを為す楔が月の神そのものであるからだ。
サァリのつく深い息の音が聞こえる。
彼女は振り返らない。纏う冷気が彼女の胸までを閉じこめ、更に白い首筋へとかかるのを見て、シシュは顔色を変えた。
「サァリーディ、今出す」
妻に駆け寄ろうとして、彼は自身の目の前に薄い壁があることに気づく。
まるで極限まで透き通った硝子窓がそこにあるように、いつの間にか彼女と自分とを区切っているのだ。
――サァリたちは同じ坂の上にいるように見えて、シシュの立つ場所とは連続していない。
まるで、生者と死者が暗黙のうちに分かたれているように。
それでもシシュは、妻の下に行こうと佩いていた刀を抜いた。息を整える間も惜しんで、目に見えぬ壁に刃を振るう。
だがその刃は壁に触れると同時に、ふっと消えてしまった。代わりに上からばらばらと鋼の破片が降ってくる。
「何だこれは……」
「そこにいて。あなたはちゃんと、アイリーデに戻って」
サァリを覆う氷は、もう彼女の顎先までを捉えていた。
顔の見えない妻は、恋うように天を仰ぐ。少女のような澄んだ声が響いた。
「シシュ、ごめんね」
何を謝るのか分からない。
シシュは見えない壁に両手をついた。
だがその手はずぶずぶと沈んで、見えないどこかへ行ってしまう。
近づこうと思った分だけ遠ざかる。
「愛してる。あなたが大事、あなただけを愛している」
「サァリーディ」
「私を大事にしてくれてありがとう。いつも困らせてばかりでごめんなさい」
くすり、と彼女が笑う気配がする。
美しく、艶やかで、無垢で、懸命な。
彼の知る神話の街の姫。情に溢れた月の神。
そして彼だけの娼妓である女は、誇らしげに謳った。
「あなたはいつも約束を守ってくれた。おかげでわたくし……一生に足る恋ができましたわ、旦那様」
ぱきん、と澄んだ音を残して。
彼女の全身は氷の楔となる。
死の国と地上を分かつ氷柱。
そう成り果てた妻に、今のこの状況に。
何も分からずシシュは立ち尽くして
「サァリ――」
光が満ちる。
再び世界が塗り替えられ、彼は心界から弾きだされる。
そうして、現実に戻されるまでのほんの刹那、彼は
『だから、さようなら』
と囁く、涙混じりの妻の声を聞いていた。
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