第182話 破棄



 断続的な地揺れと、キマラへ注がれる地の底からの力。

 それは灰の少女の獣としての本性を強化するもので――けれどそれでも、二人の神相手には遠く及ばなかった。

 シシュに飛びかかろうとしたところを蹴り上げられたキマラは、短い悲鳴を上げて地面に叩きつけられる。泥に汚れた五指がまた、地面を搔きむしった。


「どうして……どうしてどうしてどうして……」


 怨嗟の声は、子供らしい悔しさに満ちていた。


「あそびたい、だけなのに」


 少女の顔の上半分は見えない。見えないのだが、もし人と同じように顔があったなら、そこは癇癪を起こして涙目になっていただろう。


「……そとに出たかった、だけなのに」


 地面に張ったままの少女は白い歯を食いしばる。その体からゆらりと立ち上る陽炎が、シシュに向けて複数の穂先となって襲いかかった。

 けれど彼は横に跳びながらその穂先を避け、向かってくる残りを斬り捨てる。

 揺らぎない夫の戦いを、離れたところで見ながらサァリは呟いた。


「憐れな」


 感情の薄い声。けれどそこにある同情は本物だ。サァリは小さく溜息をつく。

 キマラの攻撃をさばき続け、逃げようとする彼女を追い詰めながら、シシュが妻の後方を見咎めた。


「――何をしている?」


 彼の視線の先にいるのはシビだ。彼女はトレワと共にあわてて庇から降りてきて、ランド・タールに何かを囁いているところだった。

 シビは神配の視線を受けると、サァリに懇願する。


「お許しを……」

「お前の妹は、放っておくともっとひどいことにしかなりませんよ」


 背を向けたままの彼女の言葉に、シビはさっと表情を凍らせる。

 けれど彼女は竦みかけた足を奮い立たせると、足をもつれさせながらサァリの方へと駆けてきた。アイリーデの主たる女の前に膝をつく。


「吾たちは、滅びかけた種族の生き残りです。海の向こうから連れて来られて、どうすれば妹を守れるかと常に考えておりました」


 シビの後を追うように、ランド・タールが、その弟が歩いてくる。

 けれどサァリは彼らを振り返らない。彼女の目は薄い地割れの更に底を見ている。


「ずっと暗い蔵の中で生きてきたのです。己の境遇をのみこんできました。ただ妹だけでも生き延びていて欲しいと願って……それさえも、吾には許されぬことなのですか?」

「妹を守りたかったのなら、お前がすべきは檻の中で眠らせておくことではなく、人との生き方を教えることでした。教えられなければ獣のままなのは、人も同じこと。皆、それをしてきているのです」


 アイリーデで生きる人間は、まず第一に人と共に生きる振舞いを身に着ける。

 誰かを憎んでも、恨んでも、それを容易く表に出さないように。

 獣のように振舞っては、誰も助けられない。

 それはきっと、この神の街だけのことではなく……人間にとっては越えねばならぬ一線だ。


 けれどシビは食い下がる。


「ならば、もう一度だけ機会をください。次はちゃんとあの子に教えますから……」

「この街に手を出さなければそれもできたでしょうが。あなたは、死人を起こす力があるから、そんな傲慢なことを言えるのですか?」

「っ」


 冷然とした言葉。

 シビの瞳に、畏れ以外の感情が生まれる。

 それはただの――怒りだ。


「……あなた様も、同じでしょう」


 感情のこもった目が、サァリを見上げる。

 人を装うためにあったはずの白目が、じんわりと黒目に塗り潰されていく。

 夫の戦いを見たまま振り返らないサァリにシビは手を伸ばす。土に汚れた手が神の白い着物を掴んだ。


「あなた様も同じ、人の死をもてあそぶ方でしょうに」


 震える声に、サァリは首だけで振り返る。

 少し眉根を寄せたその顔に向けて、シビは吐き捨てた。


「あなたの伴侶は、完全に人ではない……それはつまり、あなた様が一度殺して、起き上がらせたからでしょう」


 サァリの青色の目が限界まで見開く。

 驚いたような、それ以上に傷ついたような。

 まるで少女のような神の双眸を見て、シビは嘲笑った。


「一番大事な人間を、自分でころしたくせに」

「……お前」

「よくも賢しげに、言えたものですね!」

「っ、お前ッ!」


 絶叫にも等しい嘲り。

 それが触れたものは――ただの神の逆鱗だ。

 サァリはきらきらと怒りに輝く目で右手を上げる。

 全てを凍らせる神の光がまたたくまにその掌中に凝る。

 空気が変わる。

 風が冷気を帯びて渦巻き始める。

 存在全てを焼きつく光を目前にして、シビはけれど歪に笑ったままだ。


「本当は、大切になどしていなかったのではないですか?」


 ふふ、と微笑む女に、サァリは少しも笑わなかった。

 彼女は震える左手をきつく握りこむ。


「だまれ……!」

「サァリーデイ!」


 夫の声が聞こえる。

 それを聞きながらサァリは手を振り下ろそうと――


 シシュの投げた長針が、彼女の顔のすぐ横を通り過ぎていく。

 それはサァリのすぐ背後に踏みこんでいた男の肩に突き立った。

 けれど男は止まらない。

 ランド・タールは右肩に突き刺さる針に狙いを逸らされながら――


 その大剣で神の腹を貫いた。


「……あ」


 薄い体が衝撃で揺らぐ。

 引き抜かれる剣。ランド・タールは無造作にシビへ問うた。


「これでいいのか?」

「ええ」


 仰向けに崩れ落ちたサァリは、けれどまだ死んではいない。

 右腹を貫通する傷がたちまち氷で塞がっていく。見開いたままの瞳が青白く光る。


「……妖物め」


 舌打ちしながらランド・タールがその胸に突き立てようとした剣を、けれど打ちこまれた剣閃が砕ききった。


「サァリーディ!」


 夫の叫び声が聞こえる。

 サァリはそれを遠くに聞きながら、喉元に溢れ出しそうな血を飲みこんだ。

 それでも零れてしまった血が彼女の頬を濡らし、地面に落ちる。

 その地の底から……知らぬ声が彼女に届いた。


『人間に、拒絶されたな?』


 笑いを含んだ声。

 古き約が、綻びる。

 神をこの街に留める約。けれどもっとも強い楔となるはずの神供の男は、今代に限っては人ではない。人との繋がりが薄いのだ。

 その薄さを、人が振るった刃が突いた。


 ――光が翳る。


『さあ、ようやくこれで地上に手が届く』

「……させ、るか、慮外者め」


 衝撃に、散りかけた力をサァリは再び己へ集める。

 今の自分に動かせる全ての力を収束させて、サァリは最後の一瞬、夜空を見上げた。

 細い月。白い。まるで自分そのもののような。


「シシュ、ごめんね」


 その言葉だけを零して、彼女の白光は全てを焼いた。

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