第181話 興味
大きな地面の揺れは、大陸の隅々までは届かなかった。
ただ『灰』の少女にとっては、それは自身の根源に近しい揺らぎだ。
暗い城の部屋でお茶を淹れていたヨアは、くすりと微笑む。
「ぶつかり始めてしまいましたか。少し、興味があっただけなのですが。私たちが生まれた地の底にいる神とは、どのような存在なのかと」
だから、囁いた。こちらの大陸の根に死の国があることは分かっていたので。
神同士の衝突が起こるとまでは思っていなかった。いや、うっすらと予想はしていたかもしれない。
彼らは自分の力に自信があって、諦めるという感情と縁遠い。
圧倒的強者であるがゆえに退けないのだ。それができるのは、神の力を持った人だけだ。
ヨアは微笑みながらカップにお茶を注ぐ。
「ミヒカ様、お茶が入りましたよ」
そう声をかけて、けれど返事がない。
見るとミヒカは暗い寝台の隅で頭を抱えてぶるぶると震えていた。
「五尊が……五尊がきてしまうわ……私の国が……」
恐怖で定まらない視線。
彼女のその思考は、彼女が死んだ時より先には進めない。進めないから忘れてしまえばいいのに、戻ってきてしまうのだ。
起き上がらせた死人にはどうしても蘇生相性があって、ミヒカのようになってしまう者がいる。ヨアは仕方なく、壁際に立っている士官に命じた。
「レノスさん、いつものお薬を」
言われて青年士官は頷くと、薬箱から紙に包まれた粉薬を取り出す。
――死人の中でも彼は相性がよく出た人間だ。王に仕える士官だったというところがよかったのかもしれない。
それを思うと、同じ士官であったトルロニアの王弟をこちらの手中にできなかったのは残念だが、あれは既に神の手がついていたのだから仕方ない。今はただ、関係ないところで死んでくれるのを祈るばかりだ。
ヨアは、レノスが王女に薬を飲ませるのを見ながら、真白い歯を見せて笑う。
「せっかくの新天地、できるだけ邪魔者がいない、よい暮らしになればいいですね」
※
キマラから放たれた熱波は恐ろしい速度でアイリーデに迫り――けれど、その進路を塞ぐようにサァリが腕を上げる。
「舐めるな!」
氷の粒を孕んで膨らむ気。広がった神の気が陽炎と衝突する。
ぶつかり合う巨大な力が空気を巻き上げ、その間にシシュは妻を地面に下ろした。彼は刀に手をかけキマラへと駆ける。
完全に自分の間合いに相手を入れるより、今は相手に自由を与えないことの方が先決だ。
灰の少女まで、あと二十数歩。
その地点で彼は抜刀した。
空を斬る一閃。全てを薙ぐ剣閃が少女へと放たれる。
けれどその力が少女に達する直前、彼女の姿は黒い砂となって地面に溶けた。
直後キマラは、シシュから見て左前方に再構築される。間にランド・タールを挟むように現れた少女に、シシュは端整な顔を顰めた。事態についていけていないランド・タールに、シシュは短く言う。
「邪魔だから下がっていてくれ」
「何だと、貴様……」
シシュは、ランド・タールを押しのけるような真似はしなかった。
ただその脇を一足で抜ける。下がろうとしていた少女に向けて、彼は短剣を抜いた。それを少女の胸へ投擲する。
「ギャッ」
正確な狙いを持って飛来した短剣は、キマラの胸へと突き立った。
そこに、横合いからサァリが打ちこんだ冷気が直撃する。
遠慮のない、力の濁流。けれどキマラはそれが直撃するより先に宙高く跳び上がって避けた。屋根の上にも跳び上がれるほどの脚力は、アイリーデの化生や死人と同じだ。
サァリが思いきり顔を顰める。
「私と相性が悪い! シシュ、斬れる?」
「承る」
キマラの足下にまで駆けこんでいたシシュは、落ちてきた少女へと刀を振るう。
風を斬る速度の一閃。キマラは空中で身を捩ったが、シシュの刃は彼女の左肘から先を斬り飛ばした。
「ァァァア!」
獣の悲鳴が響く。サァリが氷粒混じりの息を吐いた。
「別の場所で遊んでいればよかったものを……」
冷ややかな声。少女は空中で自分の体を靄に変えながらのたうった。彼女の悲鳴に呼応するように、まだ地面が激しく揺れる。シシュは自分をのみこもうと開く地割れを、跳び下がって避けた。
※
――空気がおかしい。
そのことに気づいたのは、ジィーアだけだ。
断続的に続く地震に月白の館内も騒然となったが、むしろおかしいのはもっと別の鳴動だ。
ジィーアは走って玄関まで行くと、そこでしゃがみこんでいた下女に問う。
「サァリは?」
「そ、それが、シシュ様と外にお出かけになっていて……」
――間違いない、とジィーアは確信する。
この館の主が、自分の伴侶をわざわざ連れて動いているというのは、それなりの事態が起きているからだ。そしてそれはこの異様な空気と無関係ではないと、ジィーアは察していた。
彼女は白い靴を履くと、下女の制止を振りきって外に駆け出す。
嫌な気配は、街のすぐ外が大元になっているようだ。
そちらに向かおうと大通りに出たジィーアは、けれどあまりの光景に立ち尽くしてしまった。
「なにこれ」
彼女にしか見えない、影のような死人たち。
その彼らが街の外に向けて何本もの列を作っている。
うなだれて表情のない彼らの列は、けれど粛々と少しずつ進んでいるようだ。
生きている人の後ろについていた者も、街角に佇んでいた者も、全ての死者が列を作っている。
それはまるで何者かが見えない縄で彼らを引いているようで、ジィーアは絶句する。
「どうしてこんなことが……」
死口の、その疑問に答えられる存在は、深い地の底だ。
今はほぼ空洞になってしまった蛇の、更に地の下。
そこで長い間まどろんでいた神は、地上を見上げて笑む。
「だから不可侵と言っただろうに。我はただ、そちらに出てみたいだけだ」
せっかく目覚めたのだから、出て、触れて、見てみたい。
終わってしまった、終わりを受け入れた人間ではなく、今まさに迷い、あらぶり、涙し、憎む、人間というものの生きるさまを。
「なのに、ずいぶん低いところにいる月がいるおかげで、眩しくて顔も覗かせられぬ」
【天の理】である彼女が人に繋がれて地上にいる限り、地表に出ることは難しい。
ならば彼女が天に戻るか――あの光を失って、暗い底へ落ちてしまえばいいのだ。
蛇がそうして彼女をのみこみたいと願ったように。
「さあ、どこまで傲岸でいられるかな?」
これもただの興味でしかない。自分と違う在り方をしてきた違う神が、どう動くかというだけの悪戯だ。
たゆまない好奇心が、地上に注がれる。
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