第180話 陽炎



 ずっと夢のない眠りの中にいた。

 生まれてからずっと。

 目を覚ますのは、時折生きるために血をもらう時だけだ。

 姉の手が優しく頭を撫でてくれるのが好きだった。安心できた。

 だから自分の在り方に、何の不満も持っていなかったのだ。

 目を覚まして、広い世界に放りだされるまでは。


『――好きなところに行って、遊びたいように遊べばいい』


 地の底から届いたその声は、未成熟な彼女の芯によく響いた。まるで遥か昔から繋がっていたかのように。


「キマラ! 駄目! 戻りなさい!」


 姉の制止に、彼女を止める力はなかった。目覚めさせられた彼女の目に、この大地は無数の光で輝いて見えたので。

 その光で遊びたいと思ったのだ。子供が板の上で硝子玉を転がすように。

 遊びたい、手に取ってみたい、そんな衝動に突き動かされ、ふらふらとあちこちをさまよった。


 空腹も感じていなかった。気づかなかった。

 そうして行きついたのは、もっとも美しい光を帯びた街だ。

 きらきらと、眩い光に溢れた街。その光で遊びたいと思って――


 けれど街は、彼女を拒んだ。


                 ※



 灰の少女と繋がれたランド・タールは、庇の上にいる者たちを射殺したそうな目で見たが、それ以上は拘泥せず踵を返した。

 何故なら遠く林前で戦っていた灰の少女、キマラが、俊敏な動きでランド・タールの方に向かってきたからだ。お互い、目には見えずとも神の糸で縛りつけられてしまったことを感じ取っているのだろう。


 身を低くし走ってくる幼子の頭へ、ランド・タールは大剣を振り下ろす。けれど灰は、小さな体を半ば以上靄に変えて、その刃をすり抜けた。

 キマラの手がランド・タールの脇腹を掴もうと伸びる。けれど男は人外に触れられることを嫌ってとびのいた。

 初撃のそんな様子を見て、サァリはぼやく。


「街の近くでランド・タールが死んだら、アイリーデの評判に障っちゃうかなあ。お客様減りそう?」

「彼自身は自業自得だとは思うが。巫が助けたいなら助ける」

「うーん、迷う」


 腕組みをして真剣に悩む美しい神に、妹を戦闘に抛りこまれたシビは、愕然とした目を向ける。


「なんということを……あなた様にも、大切なものはおありでしょうに」

「ありますよ。シシュが一番大事。その次がこの街」

「ならば、何故……」

「アイリーデの西の通りにね、古い妓館があるのです。小さいけれど昔からお客様に寄り添った商売をしていて、評判もいいのですよ」


 サァリは、ランド・タールと灰の戦闘を見たまま言う。その真意が掴みかねてシビは困惑した。


「私も顔見知りの娼妓が何人かいて……そのうちの一人にある常連のお客様がいらしたのです。彼女が下女の頃から援助を惜しまず、実の娘のように可愛がってくれて、習い事の援助や着物を揃えるのに手を尽くしてくれたと聞きます。彼女にとっては、本当に大事なお客様だったのです」


 白い指が、ぱちんと弾かれる。


「――あなたの妹が食らった方です」

「っ、……そ、それは」

「彼女、父親のように思っていた方の無残な最期を聞いて、泣いて倒れてしまったそうです」


 サァリはふっと息を吐く。

 神話の街の主は、優美な微笑を浮かべてシビを見上げた。


「もう一度言ってさしあげましょうか? 私は、この街が大事なのだと」


 シビは絶句する。

 この若い神は、街の客を害した妹を許す気がないのだ。シビの懇願を聞き入れてくれる気もない。

 ――神の怒りに触れた。

 その現実が、人ならざるシビの喉をからからに乾かせた。


「……ご寛恕を」

「失われてしまったものに、代えられるものなどないのですよ。特に、人間は」


 淡々とした返答は、皮肉というより達観に満ちたものだ。

 これでは駄目だ、とシビはすぐに悟る。サァリは明確に「大事な自分のもの」と「それ以外」を分けている。それが神であるということだ。そして彼女の大事なものを傷つけた以上、自らの情に訴えても無意味だ。


 そう判断すると、シビは震える声を絞り出す。


「妹を、助命してくださるなら、この街に関わる重大なことを、お、お教えします……」

「重要なこと?」


 半分はシビの推測だ。だがきっと事実だろう。

 彼女は庇の下、アイリーデの地を見た。


「地の底に棲むあのお方は、この地に、人間に興味を持っています……」

「そんなことを、あなたの虫伝いに言われましたね。不可侵にしろ、でしたっけ」


 人に興味があるから、触ってみたいだけだから――放っておけと。

 傲岸なその言葉もまた神のものだ。【天の理】と【地の気】の狭間、神々がたまたま見逃している大地で、人々は生きてきた。それは人から追われた灰も同様だ。

 けれど、その均衡は神の気まぐれで容易に崩れ去る。


「目覚めたあの方は、地上に興味を持っている。けれどあの方自身は地表に出てこられない。あなた様が蛇の気を地中に押しとどめている――それがそのまま、あの方への重石になっているからです」


                 ※


 ランド・タールの剣が灰の少女を弾き飛ばす。

 弟を斬れなかったことで、武器を持ち換えたのだろう。

 地面に這いつくばったキマラは、その時初めてくぐもった声を上げた。


「な、んで」


 キマラの顔は、黒い靄に覆われていて見えない。

 ただその靄の中から、白い歯だけが覗いた。


「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで」

「――死ね、化け物が」


 呪詛を吐く少女へと、大剣が振り下ろされる。

 けれどその小さな体はまたたく間に靄へと変じて霧散した。代わりにランド・タールの背後に、四つ這いの少女が現れる。


「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで」


 ぐらり、と地面が揺らぐ。

 いつかの夜よりも大きな揺れに、ランド・タールでさえ体勢を崩した。

 けれど、少女はまだ四つ這いでいるままだ。その十指が感情のまま大地に食いこむ。

 揺れ続ける地面、少女の真下に薄い地割れが走った。


「なんで、なんで、なんで」


『好きなところに行って、遊びたいように遊べばいい』


「それだけ、なのに」


『もしお前が邪魔をされたなら――』


                 ※


 突然の地震に、庇の上から転がり落ちそうになったサァリをシシュは抱き上げていた。

 かなりの揺れの中、妻を抱いて庇に立っていられるのはかなりの身体能力のなせるわざだが、それよりも問題は灰の少女の方だ。

 シシュは薄い地割れの上に四つ這いになっているキマラを睨む。


「なんだあれは……」


 異様な気が地割れの中から漏れてくる。陽炎に似たそれは、少しずつキマラの中に吸いこまれていくようだ。シシュの首にしがみついているサァリが眉根を寄せる。


「あれ、蛇の気じゃないね」

「巫と蛇の気で抑えこんでいたというやつか?」

「抑えてたものの下に別のものがあるとか思わないよ……。串団子だって一番上と一番下は触ってないでしょう?」

「巫のその喩えは少し違うと思う」


 緊張感のないサァリの言葉はさておき、シビの言葉を信じるならそれは「不可侵にせよ」と彼ら二人に言ってきた存在だ。

 シビの強張った声が聞こえる。


「あの方が地表に出るには、あなた様が邪魔なのです……ですが、あなた様は、人との約によってこの街に座している」


 四つ這いになったままのキマラを中心に薄い地割れが広がっていく。

 ランド・タールがそれを振り返った。


「なんだ、貴様は……!」


 キマラは顔を上げる。

 靄に隠れて見えないはずの目は、だがその時確かに、アイリーデを見ていた。



「あなた様を排除するには――この街を壊してしまえばいい」



 灰の少女は、ゆらりと立ち上がる。

 そうして少女は、何の迷いもなく、ゆっくりと、アイリーデに向けて右手を振りかぶった。

 その掌に、地割れから沁みだした陽炎が集まっていく。

 うだるような熱と、古い臭気が伝わってくる。


 地面の揺れが止む。

 サァリが叫んだ。


「ちょっと……!?」

「出る」


 妻を抱いたままシシュは庇から飛び降りると、少女に向かい駆け出す。

 街への攻撃を止めようとする――

 そんな二人に向けて、キマラは右腕を振り下ろした。

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