第179話 宣告

 



 アイリーデの外周は石壁に囲まれており、門は全部で四つ存在している。

 石壁は城壁と違って庇があり、おかげで人が立てる場所はそう多くない。

 多くないのだが、その細い庇の上にシシュは妻と共に立っていた。

 とは言え、サァリは夫ほど足場の悪さに自信がないのか、庇の外に足を下ろして座っている。

 二人が見ているのは街の外、街道から少し離れた林際に放置された牛の死体だ。

 血の臭いをまき散らすように腹を裂かれた死体は、黄昏時の空の下で少々どころではない異彩を放っていた。


「人食いなんだから、牛には来ないんじゃないかとか思わなかったのかな……」

「タール家は人外相手の戦闘はほとんど経験がないはずだ。単純に血肉に反応すると思ったんだろう」

「東国はそういうところ、人外のいい餌食になっちゃいそうだよね」


 と言っても、現状は囮としては充分だ。サァリの細めた目には、牛の死骸の様子を林の中から窺うタール家の武人たちが見えていた。――灰が食らいつくとしたら、あちらだ。

 サァリは小首を傾げる。


「それにしても、灰が人食いの獣になっちゃうとか。あれじゃ外洋国でも危険視されるのは無理ないね……」

「――妹は、己のことさえほとんど分からないのです」


 予想していた声は、少し離れた庇の上から聞こえた。サァリは冷ややかな目でそちらを見る。

 シビとトレワ・タール。人外の二人組はじっと林の方を見ている。彼らがここにいるということは、サァリの読みも外れてないのだろう。シシュがさりげなく妻を庇うように立つ位置を変えた。

 シビは、林を見たまま言う。


「あの子は、長く眠っていたため本来の灰に近いのです。人に排除されないよう、人に見つからぬように変節していった私たちとは違う……死者の国で生まれた獣としての本性が強く出ている」


 死者の国の、獣。

 それが何かは気になる。おそらくこの間の話の続きに関わることだ。

 けれどサァリはそれより先に、冷ややかな視線をシビに注いだ。


「そんな妹を取り戻して、これからどうするつもりです?」

「元のように静かに、人知れず暮らしたく……」

「人に飼われていた状態に今更戻ろうと? はたしてそれを聞き入れる?」

「……そのための力を、つけてきたつもりです」


 サァリは呆れを隠さず溜息をつく。

 ――妹と力の差が歴然であることは、シビも分かっているだろう。

 シビはアイリーデに入れて、妹のキマラは入れなかった。とりもなおさずそれが二人の差だ。灰の一部である虫を奪われたシビは、そもそも「アイリーデの脅威」と看做されなかった。だからサァリの結界に引っかからなかったのだ。

 それをアイリーデの化生を食らって、どこまで埋めたというのか。


「っ、うわあぁぁ!!」


 林の方から悲鳴が上がる。

 見るとそこで見張りをしていた戦士の男が、黒い影のような何かに襲われている。彼は剣を振るってはいるがその刃は影を素通りしているようだ。

 サァリは細い肢を組むとその上に頬杖をついた。


「あー、やっぱり。人死にを出さずになんとかできるのかな」


 彼女がそう言うと前後して、林の中からばらばらとタール家の武人たちが現れる。だが彼らは、普段相手にせぬ人外に困惑しているようだ。シシュが妻に問うた。


「手を出した方がいいか?」

「んー、正直なところ『灰』は何度か取り逃してるから、一度ちゃんと殺してみたいっていうのはあるんだけど――」


 サァリはちらりとシビを見上げる。

 灰の女は、その視線を待っていたかのように頷いた。


「吾が行きます。行って、あの子を止めます」

「あなたじゃ勝てないと思いますが」


 サァリの率直な言葉に、シビはぐっと唇を結ぶ。

 けれどその肩にトレワ・タールが手を置いた。

 最初から、妹を捕らえるために二人で挑むつもりだったのだろう。けれどおそらくは、充分に力を取り戻すより早く妹が死人を出した。仕方なくシビは準備不足のまま妹に対峙せねばならなくなってしまった――サァリは二人の姉妹の力量をおおよそそう見積もっていた。


「私はまだ、あなたに聞きたいことがあるのですが。この間の話の続きとか」


 神の眼差しが、灰の女を捉える。


「確か……『人が生まれるはるか以前より在る、この地そのもの、死の国と心界から繋がる根の底にいた神』とか言いましたね。お前の虫を奪ってこの街に寄越したのは、それですか?」


 シビの瞳に、一瞬畏れがよぎったのをサァリは見逃さなかった。

 それは肯定と同じだろう。サァリは白羽の事件を思い出し溜息をつく。

             

「まったく。とんだ迷惑な存在がいるものですね。余所の街に行ってくれればいいものを」

「……ずっと、眠っているはずの御方だったのだと、聞いております。吾たちの祖は、死者の国でその御方の眠りを守る獣でした」

「たまたま最近目が覚めたとか?」

「しばらく前に、この地の支柱が揺らぎました。支柱に巻きついてる蛇に何かがあったのでしょう。それについてはあなた様の方がお詳しいかもしれませんが……」

「あ」


 サァリは頬杖をといて隣の夫を見上げる。シシュは予想通り全力で苦い顔をしていた。


 ――詳しいも何も、理由を作ったのは彼ら二人だ。

 シシュが、蛇を斬って霧散させた。その影響が地の底にまで伝っていったというのだろう。サァリ自身、一度兄神に帰還を求められた時「蛇の気が地中にまで染みこんでいるから帰れない」とそれを拒否したことがあるのだ。


 シシュが重い溜息をつく。


「俺のせいか……」

「いやあれは斬るしかなかったってば! むしろ斬っても駄目とかひどくない?」

「後の始末まで考えが及ばなかったな……」

「そんなの、今から始末すればいいんだよ! せっかくだから地の底までばっさりやっちゃお!」


 サァリはきっぱりと言いきる。

 きらきらと輝く青い瞳は、力に溢れた傲岸なものだ。シビは怯えを見せながらも言い繕った。


「あなた様がただけのせいではありません。人が地に満ちる以前より眠っていたような神です。眠りが浅くなったのに乗じて起こした者がいるのでしょう。……そんなことができるのは、おそらく吾らの同族だけです」

「同族?」


 ぴしり、とサァリの座る庇が鳴る。彼女の感情が漏れて、薄い霜がはったのだ。

 若き神は深い溜息をつく。


「結局あの『灰』の仕業か……」


                 ※


 大地よりも更に深い、地の底には全てを焼き尽くす熱が淀んでいる。

 それを最初に【地の気】と呼んだのは、人の中に生まれた死口だったか。

 大地の核でもある熱は、死者が最後に訪れる場所だ。

 数多の生を巡った死者が、星に還るための処。いわば熱に囲まれた死者の国だ。

 そしてそこには、この星そのものの存在が眠っていた。地の神である蛇を重石として長い間。

 ――そんなものが目覚めた理由は、ささいなものだ。

 地を伝う振動で眠りが浅くなった時に、囁き声が届いた。死者の魂を操る小さな獣の声が。


                 ※


「ずっと眠っていればよかったものを……」

 冷え切った声音で、けれどサァリの目は争う灰の少女と戦士たちを捉えたままだ。シビはその神と、妹を順に見た。


「あなた様には申し訳ないことではありますが、吾には同族の始末をつけられるほど力がありませぬ。妹を抑えるので精一杯です……」


 五人の武人たちは、灰の少女を取り囲んでいるが、刀を素通りする相手に手を焼いているようだ。おまけに味方を巻きこまないようにと恐れて攻めあぐねている。

 ただお互い庇いあっているので、灰の少女もこれまでのように一方的に人間を食らうことはできない、一種の拮抗状態になっている。


 サァリは零れて頬にかかる銀髪を、美しい仕草で払った。


「抑えるも何も……」

「――こんなのところにいたのか、女」


 粗野さを隠さない声。それは四人のいる庇のすぐ下から聞こえた。

 サァリは、大剣を抜いた男を呆れたように見やる。


「あなたこそ、こんなところにいていいのです? 部下たちには助けが必要では?」

「俺の目的は、はなからその女だ。それに、タール家に仕える者は人外などに負けはしない」

「その自信が最後まで続くとよろしいのですが」


 庇が小さな音を立てて軋む。トレワがわずかに足にかかる重心を変えたのだ。

 必要とあらば、いつでもシビを守るため地上に降りようとする死人を、サァリは他人事のように見やる。

 それだけしか動かない巫に、ランド・タールは凄みを込めた視線を投げた。


「約束を違える気か? お前の夫にできないことをやってやろうというのに」

「むごたらしく死ぬことですか?」

「口の減らぬ小娘め」


 歯ぎしりが聞こえてきそうなほどにランド・タールは顔を歪めたが、高い庇の上とあって手を伸ばそうとはしない。

 だが、時間が経てば何かをしてくる可能性はあるだろう――そうシシュが判断して動きかけた時、サァリは軽く手を上げて夫を留めた。

 彼女の白い指が、ランド・タールの胸を指す。


「確かに要請をお受けしましたわ。死人を操る人外を、あなたに縫い付けるようにと」


 指先から白い飛沫が飛び、男の胸に吸いこまれる。

 ランド・タールは衝撃に一瞬苦痛の顔を見せたが、声は漏らさなかった。

 サァリは嫣然と笑うと、同じ指先を――ずっと先、五人の戦士と争う少女へ向ける。

 シビがそれを見て顔色を変えた。


「待……っ」

「――縛」


 古き約によって神が紡ぐ糸。

 そのもう片端が、灰の少女に打ちこまれる。

 ゆらゆらと揺れながら五人の戦士と争っていた少女は、矢のごときそれに軽く飛びあがった。

 けれど死の国から来た獣は、それだけでは揺るがない。むしろ新たな獲物に気づいたかのように、ランド・タールを注視する。

 食欲を思わせる貪婪な視線を受けて、男は憎々しげにサァリを睨んだ。


「小娘、貴様……」


 殺気混じりの怒りに、美しい娼妓はころころと笑う。形の良い指が彼女の白い顎を支えた。


「約束はお守りしましたわ。さあどうぞ、お好きに戦いくださいな」


 細い月が浮かぶ空に響く声。

 それは退くことを許さぬ、神の宣告だった。

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