第177話 傲慢


 夜にアイリーデを襲った地震は、そう大きな被害をもたらさなかった。

 揺れは大きかったが短時間で収まり、自警団の調査では壊れた建物や怪我人などもなかったという。

 強いて言うなら月白の大きな窓硝子が一枚割れたことで――けれどこれは「割られた」と言った方がいい。


「もう絶対、月白の中に変なのを入れないから……」


 窓の交換を手配し終わったサァリは苦い顔でぼやく。神代から続くこの館はどこもかしこも質のいい歴史ある調度品ばかりなのだ。それをぽんぽん破壊されては館主としてはたまったものではない。

 月白の帳場で、下女のつけている帳簿を覗きこんだサァリは溜息をのみこむ。資金的に困っているわけではないが、余計な出費は腹立たしい。それが人外の為したことならなおさらだ。

 下女が心配そうに彼女を見上げる。


「主様、何があったか存じませぬが、お怪我などなさいませぬように……」

「平気平気。すぐ治るから」

「いえ……そうではなく……」


 下女は泣きそうな顔になったが、サァリは微笑んでその背をぽんと叩くと帳場を出た。

 外はもうすぐ火入れの時間だ。人外たちが蠕動しているとは言え、アイリーデは今日も常と変わらぬ美しい夜を広げていく。その営み全てがサァリのものだ。

 玄関を掃き掃除していたもう一人の下女がサァリに気づいて頭を下げる。


「主様、仰る通りにタール家の使いの方は追い返してしまいましたが……」

「ありがとう。どうせ昨日の今日で鬱陶しいことしか言われないだろうからいいの」


 ランド・タールと下手に顔を合わせたら喧嘩になってしまいそうだ。向こうもそれを分かっているからこそ使いをよこしたのだろう。ランド・タール本人が来ていたら、下女では止められず騒ぎになってしまっていたはずだ。


「それに、とりあえずはシシュが対応してくれるから」


 ランド・タールと派手に揉めたサァリは、夫に理由を聞かれ渋々そのやり取りを話した。

 その結果シシュは深い溜息をつくと「本筋に関係ない話は俺が始末をつけてくる」と言って引き取ってくれたのだ。

 後から思い返すと、街の流儀を無視して金で何事も解決しようとするランド・タールに対し、売り言葉に買い言葉で相当熱くなってしまった。あの男の気質を知った今なら、他の街で人死に混じりの揉め事を起こしていたというのも頷ける。ただあのまま揉めていたら、死体になったのはランド・タールの方だっただろう。夫には事前に忠告されていたのに申し訳ない。


 それと同時に、今回の件では単純に二つの選択があることも分かった。


 すなわち――ランド・タールについて彼の弟と『灰』を討つか、その弟たちの言い分を受け入れて二人を見逃すか、だ。


 ランド・タールの言い分は単純で、「自分の家の者が死人のまま動き回るのは道理から外れている」というもので、弟のトレワ・タールと『灰』のシビの目的は「出ていってしまった妹のキマラを連れ戻すために力を取り戻したい」だ。

 サァリからするとどっちにも肩入れするだけの理由がないが、街で揉められても困る。

 だからランド・タールに加勢して死人と『灰』を殺すのが、一番単純な選択だ。

 ただ……気になるのは『灰』の女が言っていたことだ。


 ――蛇を重石として、それよりも遥か底に眠っていた【地の気】。

 人が生まれるはるか以前より在る、この地そのもの、死の国と心界から繋がる根の底にいた神。


「……そんなの知らないんだけど」

 もっともサァリ自身、蛇の正体が地の神であることさえ知らなかった。

 彼女はまったき神であるが、その存在と共に知識が受け継がれるわけではないし、そもそも彼女の祖自体も人の召喚に応えてこの地に来たのだ。大雑把に言ってしまえば外来種だ。

 だから知らないことも多いし、それが気になるかと言えば……気になりはする。

 自分だけなら知らぬまま放置していいかもと思うのだが、万が一自分の娘の代に来た時を思うと今の内にできることはしておきたい。彼女の娘ということは、シシュの子供でもあるのだから。


「理想はシビを捕まえて、話の続きを聞くこと、だけど」


 向こうは果たしてそれに応えるだろうか。

 サァリは考えながら灯り籠に火を入れる。白い籠に火が入り半月の紋が浮かび上がると、彼女はふと自身の足下に視線を落とした。


 よく磨かれた石畳の底、果たしてその底の底には一体何がいるというのだろう。


 埒もない空想をしかけて、サァリは軽くかぶりを振る。

 その瞬間、脳裏にいつかどこかで見た乾ききった不毛の荒野の景色がよぎって――彼女は美しい眉根を寄せた。


                 ※


「――追い返されただと? あの小娘め」


 月白に向かわせた部下から報告を受けて、宿の座敷にいたランド・タールは舌打ちする。

 昨日、ようやく起き上がった弟を見つけたと思ったのに取り逃がしてしまった。だからこそ、二度同じことがないように巫の女に釘を刺しておきたかったのだが、予想以上の反応だ。

 彼は手に持った酒杯を畳の上に置くと、胡坐をかきなおす。


「根深いたちの小娘だろうとは思ったが、身の程を弁えない……」

「――人の妻を愚弄するのはやめてもらおう」


 唐突な声と共に襖が開かれる。

 そこに立っている化生斬りの青年を見て、ランド・タールは唇の片端を上げた。


「なんだ、お前を寄越したのか」

「俺が勝手に来ただけだ。彼女はあなたと相性が悪いようだからな」


 シシュは言いながら腰に佩いた刀を鞘ごと外すと、それを傍にいたランド・タールの部下に渡す。事を構える気はないという意思表示だろう。武器を手放した青年を、ランド・タールは笑う。


「気位の高い娘に捕まると大変だな」

「大変と思ったことはない」


 きっぱりと、戸口に立ったままシシュは言う。その黒い双眸からは一切譲る気のない怒りが窺え、ランド・タールは内心鼻白んだ。

 ――妻を持つ男は、いつも最初だけは意気高く彼に食って掛かってくるのだ。

 その自信が砕かれるのは一度目が妻の裏切りを知った時、二度目が彼に暴力で敗北した時だが、この化生斬りはもう少し相手の力量が分かる人間だと思っていた。分かっているからこそ、最初はあの娘を「妹だ」と偽ったのだろうから。


「それで? 昨日の失態を自分の男に詫びさせにきたのか?」

「何でも喧嘩ごしに話すのは不愉快だからやめてくれ。話が回りくどくなる」

「……貴様」

「妻にも同様だ。あなたの目的は、弟を起き上がらせた女を巫に縛させることだろう。それ以外の余所事であまり街に揉め事を起こしたり妻を侮辱するなら、アイリーデから出て行ってもらう。これが俺の来た用件だ」


 まったく怯むところのない姿勢は、最初の頃の嫌そうにランド・タールを避けたがっていた様子とはまるで違う。

 娼妓と客、お互いを「夫婦」と言って憚らない二人は、すっかりランド・タールへの態度を変えることにしたようだ。享楽街の装った表から、裏へと色を変えるように。それは彼の目に、いささか未熟な精神の表れとして映った。


 シシュは、本当に言いたいことだけを言いに来たようで、再び預けた刀を部下の手から取ると「失礼した」と踵を返す。その背に、ランド・タールは嘲弄を投げた。


「わざわざ牽制しにきたのは俺の評判を聞いて不安になったからだろうに。言わなくていいのか? 『妻を奪わないで欲しい』と」


 シシュは足を止めると、顔だけで振り返る。

 その目にはほんの微かな呆れがあった。


「彼女が俺を裏切ることはない」


 それ以上語ることはないとばかりに化生斬りの青年は立ち去る。階段を下りる足音が消えると、ランド・タールは吐き捨てた。


「ガキどもが」


 恐れを知らない傲慢さが鼻につく。だがそれ以上に、自分を何とも思っていないことが明らかなあの黒い目が気に障った。巫の女とは違う、「正しさを確信している」目だ。主君を抱く人間がよく持っている目。――それを己の妻に向けるなど、馬鹿げている。

 ランド・タールは酒杯を手に取り、それが空だと気づくと畳の上に投げ捨てた。腰を浮かせたところで、部下の一人が座敷に飛びこんでくる。


「統領! 大変です!」

「なんの騒ぎだ……」


 そこから先の報告を聞いたランド・タールは、苦りきった顔で駆け出した。

 向かうは街の門の外、西に続く街道の入り口だ。

 そこには既に自警団や街の人間が集まってきており、小さな人だかりができている。ランド・タールは彼らを押しのけて中を覗きこんだ。


「っ……」


 地面の上、倒れている若い部下の死体は――腹から下が乱雑に食い破られていた。

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