第176話 交渉



 妓館の火が落ちるのは、日付が変わって二刻ほど経ってからのことだ。

 そこを過ぎると灯り籠は下ろされ、花の間に残る女たちは自分の部屋に戻る。そうして月白の門は閉ざされ、古き妓館は眠りにつくのだ。

 だが今、その門は閉じたところを改めて片方だけ開かれていた。


「何をしに来た」

 門を開いたシシュは、抜いた刀を手にそう招かれざる客に問う。

 そこに立っている一人は昼間も見た顔、起き上がりのトレワ・タールだ。

 そして彼は……一人の女を連れている。

 俯き気味の黒い喪服の女。年齢は二十代半ばに見える。造作は整っているが、不思議なことにまったく印象に残らない。目の当たりにしている今でさえそうなのだ。女はシシュの問いに答える。

「白月の姫に……ご挨拶に参りました」

「何の挨拶にだ」

 言い捨てるシシュは敵意を隠そうともしていない。ただ当のトレワは、帯刀はしているものの刀を抜いていなかった。女の半歩後ろに下がっていて、どちらかというと護衛に徹しているようだ。

 接敵を夫に任せ、石畳の通路の上で腕組みをしているサァリは冷気の混ざる息を吐く。

「お前が『灰』か」

 しん、と周囲の温度が下がる。

 常人ならその空気だけで逃げ出したくなっただろう。

 だが今この場には人外の四人しかいない。サァリを呼びに来たジィーアは「眠いから寝る」と言って自室に帰ってしまった。月白の女は自由な人間が多いが、それにつけてもジィーアは読めない動きをする。

 店を閉めた後とあって、浴衣姿に髪を下ろしているサァリは小さな顔を斜めにした。

「いい度胸だ。自ら首を差し出しに来るとはな」

「……事情をご説明したく存じます」

「簡潔にどうぞ?」

 

 ――不可侵にしてほしい、とはトレワから聞いた。

 だが、こちらにそれを聞く気がないことは昼の衝突で察しただろう。

 にもかかわらずもう一度来たということは、何らかの説得材料を持ってきたのだ。


 女は少しだけ顔を上げる。その目元はやはり濃い影がさしているようで、色さえ判然としない。

 薄い唇の下に白い歯が見える。

「吾は、あなた様方とことを構える気はありませぬ。ただしばらくこの街に留まりたいだけなのです。はぐれてしまった妹を取り戻すために……」

「その妹なら昨日会いましたが」

「サァリーディ、初耳なんだが」

「うっ、ごめんなさい……」

 夫の言葉にサァリは反射的に視線を逸らす。昨日は色々あったのでつい言いそびれてしまった。

 ともあれ、『灰』の目的が妹なら話は早い。サァリは煩わしげに手を払う。

「妹が目的ならさっさと迎えに行って帰りなさい。街の中にはいませんよ。許可しませんでしたから」

「そうできるのなら、この街には参りませんでした」

 女のその言葉は深い溜息にも聞こえる。事情がある、というのはそこにだろう。

 サァリは軽く首を傾げると夫を手招いた。それに応えてシシュが隣に来ると彼女は言う。

「分かりました。話を聞きましょう。お茶くらいは出してあげます」

 彼女が門を指さすと月白の結界がほんのわずか緩んだ。『灰』とトレワは、用心しながらもゆっくり月白の敷地内に踏み入る。



 タール家の離れに軟禁されていた『灰』は二人、姉はシビ、妹はキマラというらしい。

 姉のシビはタール家に連れられてきた時、既に人と会話できるほどの知識があり、代々の当主や親族の話し相手になることもあった。ただ妹のキマラの方は『灰』としては幼く、ほとんどを眠って過ごしていたのだという。

 その妹が目覚め、異変に乗じて離れを出て行ってしまった。シビは妹を連れ戻したいが、異変の際に力を減じてしまっていてそれが叶わない。だからトレワを起き上がらせ、またアイリーデで代わりになる力を補填しているのだという。



 月白の客間の一つにて、その話を聞いたサァリは呆れ顔になる。

「ずいぶんと遠くから火の粉を飛ばしてくれますね。あなたがアイリーデでしている力の補填とは、化生の目を食らうことですか?」

 サァリの隣でシシュが端整な顔を顰める。彼はまだ眼窩が空の化生に出くわしていないのかもしれない。シビは首肯した。

「この街で生まれる化生は、人の欲と神である蛇の気でできています。その目を食らえば、吾の力は少しずつ戻るのです」

「別の土地でやって欲しい……」

 サァリがぼそりと零している間に、シシュが別のことを問う。

「力の補填以前に、お前は少し前にこの街へ虫を送らなかったか? 巫の正体を知る虫が雪歌と来たが、あれはお前ではないのか」

 サァリの正体を知る存在であり、なおかつ虫を使役できる『灰』は、今のところシビだけだ。不可侵を望むならまずそこからはっきりさせるべきだと問うシシュの目は、切りこむような鋭さを帯びている。

 シビは再び俯く。よく見えない目元に苦渋が浮かんだ気がした。

「……吾が失った力こそが、その虫を使役する力です。タール家にいる間、吾は家人の許可のもと戦場に虫を送って人の血を得ておりました。ですが虫を失った今、吾は己だけで自分の存在を保つこともできませぬ」

「あー、そうなっちゃうんだ」

 サァリはのんきな声を上げる。

『灰』の操る虫は人の魂であり、人の血を吸い上げて『灰』に供給する。その供給が絶えたシビは化生の目を食らうことでなんとか生きながらえているのだろう。

 だが、だとしたら別の問題が浮き上がってくる。


 シシュは空になった茶椀を座卓に置いた。

「アイリーデに現れた虫は、巫に対し『人間にだけ興味があるから不可侵にしろ』と言ってきた。それがお前の意思ではないとしたら、失った力が自律して意思を持ったとでもいうのか?」

「シシュ、容赦ない」

 ぐいぐいと突っこんでくる神配の詰問は、けれどシビにとっては予想範囲内のものだったようだ。彼女は深い溜息をつく。

「そんなことを言われたのですか……」

「言われましたね。腹が立ったので消滅させましたけど」

 虫が消滅したのなら、シビはもう存在を維持する本来の手段が戻って来ないのではないか、とも思うが、そこまで自分たちが配慮する筋合いはないと思う。


 シビは青白い指先を茶碗の縁を温める。

「吾が力を失ったのも、妹が逃げ出したのも、皆とある存在の干渉によるものです。その存在が吾たちに触れ吾の虫を奪いました。吾は昏倒し、気づいた時には妹は驚いて逃げ出した後でした。……あなた様が出くわした虫は、その存在が動かしていたものでございましょう」

「それは、外洋国から来た『灰』のことですか?」

 ミヒカ王女を起き上がらせた『灰』を指してサァリが問うと、シビは首を横に振る。

「いえ……。そのような者がいるらしいとは噂に聞いておりますが、吾としては迷惑なだけでございます。徒に吾らの力を使えば、かつてのように人に忌まれ排除されるだけでしょう」

 シビの声音はほんの少し悔しそうで「ただ妹と二人で暮らせればそれでよかったのだ」という感情が透けて見える。当然ながら『灰』にも色々な考え方があるのだ。一度淘汰されて消えた種族とあって、シビも思うところは大きいのだろう。


 シビは自分が座す畳を――否、更にその下を指す。

「あなた様は、この地の底に何がいるのかご存じでしょうか」

「蛇」

 あっさりとしたサァリの即答に、シビはかぶりを振る。

「更にその下でございます」

「ええ?」


 アイリーデの地下深くには、かつて太陽を飲まんとした蛇が封じられている。

 この蛇を殺したのはサァリの祖だが、蛇は死してなお消えず、地上にまで漏れ出した気が化生を実体化させている。

 だがその蛇の残滓も、少し前のごたごたでほとんど散らされたはずなのだ。最近、化生がまた出てきているところを見ると少しずつ力を取り戻しているのかもしれないが、地上にサァリがいる以上どうにもできないはずだ。


 だが、蛇の下に何かがいるなどと聞いたこともない。

 怪訝な顔になったサァリに、シビは続ける。

「吾も、実際に目の当りにするまで知りませんでした。あなた様も【天のことわり】のお一人であるからして、ご存じではなかったでしょう。ですが、蛇を重石としてそれは遥か底で眠っていたのです。【地の気】と言えば、お分かりでしょうか」

「地の気?」

「人が生まれるはるか以前より在る、この地そのもの、死の国と心界から繋がる根の底にいた神が――」


 その時、部屋そのものがぐらりと大きく揺れた。


「な……っ」

 倒れそうになったサァリの体は、夫の腕に抱き寄せられる。

 シビが何かしたのかと思いきや、彼女とトレワも動揺を見せていた。小さな座敷がぎしぎしと揺れ、紙灯籠の中で蝋燭の炎が震える。座卓の上の茶碗が転がりそうになるのを、シシュが手を伸ばして押さえた。

「地震か?」

「っ」

 シビが顔色を変えると腰を浮かせる。トレワが彼女を庇うように立ち上がった。

 死人の青年は灰の女の手を引いて座敷から逃げようとする――そこに、シシュの一閃が振りかかる。小さな座敷に刃同士がぶつかり合う金属音が鳴り響いた。

「どこに行くつもりだ」

「彼女にはまだやることがある」

「ならば、そうお前の兄にも説明するべきだ」

「兄上は……」


 再び大きな揺れが座敷を襲う。

 サァリが小さな悲鳴を上げて畳に両手をついた。シシュが妻を振り返った、その一瞬の隙をついてトレワ・タールはシビを腕の中に抱きこむと駆け出す。

 ――そのまま死人の青年は、硝子窓を突き破って表庭に飛び出した。

「ちょ!? うちの窓硝子高価いんですけど!?」

「追う」

 シシュは言うなり、破られた窓硝子を越えて庭に消える。

 サァリはその姿を見送って、ようやく立ち上がった。

 廊下に出ると、地震は座敷だけのものではなかったらしく、廊下の花瓶が倒れて水が零れている。サァリは厳しい顔になると、女たちの無事を確かめるため足早に廊下を戻り始めた。


 シシュが戻ってきたのは、その十分後のことだ。

「門前を出たところで地面に溶け消えた」という報告は予想通りのもので……サァリは新たな不可解さを抱いて眉を寄せることになった。



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